第50話-おかえりなさいと、さようなら
花畑の惑星は、惑星監理局の長期保護下に置かれた。
星図や民間航路には表示されず、許可のない船舶の接近は禁止されている。軌道上では調査班の観測艇が惑星全域を監視し、古びた小屋の周囲には複数の封鎖結界が張られていた。
地下施設の調査も続いている。
ただし、監理局が新たに観測を始めたのは、地下ではなく、地上に広がる花畑だった。
これまでの調査から、あの子の生命循環は花畑全体へつながり、連れ去られた後は、自ら茎を離れた一輪だけが循環の一部を支えていたと推定されている。
現存する一輪の花は、花単体の生命活動には過剰な術式構造を抱えていた。
花畑から魔力を受け取る経路。あの子へ魔力を返す経路。本来なら花の外へ続いていた、無数の途切れた接続。
監理局は一輪を花畑へ返す準備を進めると同時に、花畑側に何が残されているのかを調べ始めた。
情報班の解析室には、花畑全域から得られた観測結果が集められている。
花弁の開閉、花粉に含まれる微弱な魔力、風とともに移動する粒子、地表付近の環境変動、土の下を巡る細い魔力循環。
花畑へ測定器を差し込むことは許可されなかった。花や土壌の採取も行わず、外周と上空に配置した非接触型の観測器だけで、自然に生じる反応を読み取っている。
解析卓の前には、ロジーが座っていた。
頭上のデバイスは解析補助だけを行っている。古い映像も、地下施設の研究記録も表示されていない。
いま存在している花畑と、保全中の一輪。ロジーが見ているのは、その二つだけだった。
「休憩しますか」
隣に立つ情報班主任が尋ねた。
「まだ平気」
ロジーはすぐに答えたが、少し考えてから言い直した。
「ちょっと疲れてる。でも、まだ見られる。無理になったら、ちゃんと言う」
「分かりました」
少し離れた椅子には、レトが座っている。
いつもならロジーの肩越しに画面を覗こうとするところだが、今日は膝の上で両手を組み、静かに待っていた。
「ロジー、えらいよ」
「知ってる。もっと言って」
「えらい。すごい。いっぱいがんばってる」
「効いてきた」
ロジーの頭上で、デバイスが僅かに明るくなった。
エルは解析卓の端に表示された、花畑の立体投影を見つめている。
白い花、淡い紫の花、薄い黄色の花。その下には、根や土壌を通じて巡る魔力が、無数の細い線として再現されていた。
花畑の各所から伸びた線は、中央付近へ集まっている。
しかし、そこで途切れていた。
接続先だけが抜け落ちた、大きな余白がある。
その形を見て、誰も接続先を探そうとはしなかった。
ロジーは、断片資料に残されたあの子の中枢術式の観測波形を、花畑の接続部へ重ねた。
完全な記録ではない。それでも、魔力を受け渡す際の位相と、接続部分に現れる特徴は一致している。
「これ、あの子の場所だよね」
ロジーが言った。
技術班主任が頷く。
「その可能性が極めて高いと判断しています」
レトは、立体図の中央にある余白を見上げた。
「あの子と、花畑をつないでた線?」
「はい」
一輪の花が持つ術式構造も、同じ投影へ重ねられた。
一輪から花畑へ続いていた線は、中央に残る接続のごく一部にしか対応していない。
一輪を戻せば、分離によって生じた小さな欠損は閉じるかもしれない。
しかし、あの子へ向けて伸びていた膨大な接続線は残る。
ジェレミーは立体図を見たまま言った。
「接続先が何だったかを調べているんじゃない」
情報班主任がジェレミーを見る。
「なぜ、いまも閉じていないのかを調べろ」
接続先を失った魔力循環は、通常なら時間の経過とともに形を変える。
不要になった経路を閉じるか、別の循環へ組み替え、維持に使っていた魔力を他の生命活動へ振り分ける。
だが、花畑はあの子へ向かう接続線を閉じていなかった。
古い構造が、そのまま痕跡として残っているだけなのか。それとも、花畑が現在も維持しているのか。
監理局は干渉せず、観測だけを続けた。
天候や時間帯によって、花畑を巡る魔力量は変化した。夜間や降雨後には全体の循環が弱まり、花弁や根の成長反応も緩やかになる。
それでも、あの子へ向かう接続への魔力配分だけは、ほとんど低下しなかった。
弱まった線には別の根や花から魔力が送られ、乱れた部分は補修される。接続位置がずれることも、別の対象へつなぎ替えようとする変化もない。
何度弱まっても、同じ場所へ伸び直していた。
数日分の観測結果を重ねていたロジーが、やがて言った。
「残ってるんじゃない」
レトがロジーを見る。
「残してる」
解析室が静かになった。
花畑に人間と同じ意思があるとは証明できない。
悲しみや寂しさを感じているとも断定できない。
観測事実だけを記述するなら、花畑は接続対象の再出現を前提とした待機状態を維持している。
だが、人間の言葉へ置き換えるなら、もっと短い言葉になる。
「待ってる」
エルが言った。
ジェレミーが答える。
「調査所見には、接続待機状態と記録する」
「待ってる、じゃないの?」
「証明はできない」
「うん」
ジェレミーは、中央に残された余白を見る。
「だが、その言い方が間違っているとも思わない」
エルは頷いた。
レトが尋ねる。
「花畑は、あの子が帰ってくると思ってるの?」
「花畑が何を認識しているかは分かりません」
技術班主任が答えた。
「あの子の生命活動が停止したことを理解できる構造があるのかも不明です。確認できるのは、接続対象を失った後も、その位置を閉じず、維持し続けていることだけです」
「あの子、帰れないのに」
レトの声が小さくなる。
誰も否定できなかった。
あの子の身体は、もう存在しない。
花畑がつながろうとしている相手は、戻らない。
それでも花畑は、あの子がいた場所を空けたままにしていた。
*
一輪の花を、花畑へ返すことが決まった。
それで中央の余白が埋まるとは、誰も考えていない。
一輪は、あの子の代わりではない。
あの子とともに連れ去られた、花畑の一部だった。
返還の日、空は薄い青に澄んでいた。
小さな雲が流れ、柔らかな風が花々の間を通り抜けている。
レト、ロジー、エルは、ジェレミー、副長、調査班長、情報班主任、技術班主任、医療班主任とともに、花畑の外周へ立っていた。
ロジーは記録機能を切り、波形監視だけを開いている。
一輪の花は、透明な保全容器に収められていた。
花弁は縮み、葉からも瑞々しさが失われている。それでも完全には枯れず、内部にはあの子との魔力授受によって形成された術式構造が残っていた。
調査班長が容器を持ち、ゆっくりと花畑へ入る。
一歩進むたびに、一輪の内部循環が僅かに強まった。
花畑側でも、一輪に対応する接続だけが反応を始める。
中央に残された、あの子のための膨大な接続線は動かない。
「一輪につながるところだけ開いてる」
ロジーが報告する。
レトが尋ねた。
「あの子の線は?」
「そのまま」
花が近づいても、あの子のための場所は埋まらない。
最初から、別の接続だった。
調査班長は、映像の中であの子が座っていた場所に近い地点で足を止めた。
正確に同じ場所かどうかは分からない。それでも、周囲の花の種類と地形から、最も可能性の高い位置が選ばれている。
「返還地点へ到着」
技術班主任と医療班主任が観測値を確認した。
「花畑側に有害反応なし」
「一輪の内部循環、安定」
ジェレミーが命じる。
「開放しろ」
保全容器が開いた。
風が入り、しなびた花が僅かに揺れる。
花畑の一部が、風向きとは異なる方向へ傾いた。
すべての花ではない。
一輪と同じ循環に属していた花々だけが、保全容器へ向いている。
調査班長は一輪へ直接触れず、発見時から支えていた薄い保全膜ごと、地表へ下ろした。
茎の切断面が土へ触れる。
一輪から伸びていた術式線と、花畑の地下を巡る魔力流が重なった。
途切れていた経路が、一つずつつながっていく。
花の中だけで辛うじて保たれていた循環が、花畑へ開いた。
「再接続を確認」
技術班主任が告げる。
「一輪に由来する接続欠損、修復開始」
一輪の花が、ほんの僅かに姿勢を戻した。
縮んでいた花弁が緩み、曲がっていた茎が起き上がる。
まるで花畑へ戻ったことを確かめるように、一度だけ、咲いていた頃の形へ近づいた。
レトが息を呑んだ。
「元気になった……?」
その直後だった。
一輪の花弁から、色が失われ始めた。
淡い白は急速に褪せ、縁から茶色へ変わっていく。葉は乾き、起き上がったばかりの茎も、支えを失ったようにゆっくりと伏せた。
それまで止められていた時間を、突然思い出したようだった。
花畑から離れていた長い時間。
地下施設であの子を支え続けた時間。
あの子がいなくなった後も、一輪だけで循環を保っていた時間。
そのすべてが、一度に小さな花へ戻ってきた。
「内部循環、急速に低下」
医療班主任が告げる。
「花畑への魔力移行は継続しています。異常流出ではありません」
花弁は乾ききり、触れられてもいないのに崩れた。
茎も葉も、地表へ横たわったまま色を失っていく。
光にはならない。
新しい姿にも変わらない。
一輪の花は、ただ枯れていった。
レトが一歩踏み出しかける。
ジェレミーの手が、その肩を止めた。
「待て」
「でも、お花が……」
ロジーは波形から目を離さなかった。
目には涙が溜まっている。
「花畑に戻してる」
一輪の術式構造は、花の形が失われるのに合わせて、土の下へ移っていた。
あの子から受け取り、あの子へ返し続けた経路も、元の花畑の循環へ組み込まれていく。
花の形は死んでいく。
だが、花が抱えてきたものは、花畑へ返されていた。
やがて、一輪は完全に枯れ果てた。
乾いた花弁と茎が、土の上に静かに残っている。
同時に、一輪に対応していた接続の欠損が閉じ、花畑の一部が穏やかに安定した。
「返還部分の循環、正常化」
技術班主任が報告する。
「花状保護対象の術式反応は、花畑側へ移行しました」
レトは涙を拭った。
「帰れたの?」
「うん」
ロジーが答える。
「最後に帰れた」
エルは、枯れた一輪を見つめていた。
「あの子のところにいた時間が、終わったんだね」
中央には、あの子のための大きな余白が残っている。
一輪が戻ったことで閉じたのは、その端にあった僅かな欠損だけだった。
一度、花畑の反応が静まる。
しばらくして、弱まっていた一本の線が補修され、再びあの子のいた場所へ伸びた。
ロジーの唇が震えた。
「まだ、つなごうとしてる」
「お花は帰ったのに?」
レトが花畑を見る。
「待ってるのは、あの花じゃないから」
エルが答えた。
花畑が待っているのは、あの子だった。
自らの一部を持って連れ去られ、もう帰ることのできない、名前の分からない箱庭の娘。
レトの目から涙が落ちた。
「あの子が帰れないって、教えられないの?」
エルは、あの子のために残された余白を見つめた。
魔法は使わない。
花畑の循環へ触れもしない。
ただ、自分の声で伝える。
「あの子は、もう帰れないよ」
花畑が風に揺れた。
接続線は止まらない。
「あの子は、ここには戻ってこられない」
弱まった線が、また補修される。
花畑が言葉を理解できなかったのかもしれない。
理解しても、接続を閉じられないのかもしれない。
あるいは、理解したうえで閉じないのかもしれなかった。
エルは目を逸らさずに言った。
「ごめんね」
花畑から返事はない。
ただ、誰もいない接続先へ向かって、魔力線を作り続けていた。
技術班主任がジェレミーへ尋ねる。
「接続維持を停止させますか」
開いた経路を閉じれば、花畑が消費する魔力を減らせる可能性がある。別の循環へ組み替えることも、技術的には検討できた。
ジェレミーは首を横に振る。
「触るな」
「現在の負担は小さいですが、長期的な影響は予測できません」
「観測を続けろ。花畑の存続へ明確な危険が生じない限り、干渉するな」
技術班主任は頷いた。
ジェレミーは、中央の余白を見る。
「我々が見ていて苦しいからといって、勝手に終わらせるな」
副長が確認する。
「花畑が、自ら接続を閉じるまで維持するということですね」
「ああ」
「閉じなかった場合は」
「そのまま守る」
レトが振り返った。
「ずっと?」
「ああ」
あの子へつながっていた場所も、この花畑の一部だった。
それを不要な傷痕と呼び、外部から消す権利は監理局にはない。
待つことが救いなのか。
ただ手放せないだけなのか。
それすら、人間には判断できなかった。
ジェレミーは指示を出した。
「一輪の返還は完了。術式反応は花畑の循環へ移行した」
副長が記録する。
「少女に対応する接続余白を継続観測対象に指定。採取、掘削、刺激試験、接続構造への干渉を禁止する」
「地下施設の封鎖は継続。惑星全域を長期保護区域へ移行しろ」
「名称はどうしますか」
「未命名箱庭個体関連・花畑保護区」
「了解しました」
レトは中央に残る余白を見つめていた。
「ねえ、お兄さん」
「何だ」
「ここ、ずっと悲しい場所なの?」
ジェレミーはすぐには答えなかった。
地下施設では、あの子が傷つけられ、殺害された。
地上の花畑は、その間も接続を閉じず、戻らないあの子を待っていた。
一輪の花は、ようやく帰り、時間を取り戻すように枯れた。
しかし、花畑の待つ相手は戻らない。
「悲しいことがあった場所だ」
レトは俯く。
「うん」
「そして、誰かを待っている場所だ」
「帰ってこないのに?」
「ああ」
ジェレミーは花畑を見る。
「だから、我々が守る」
ロジーが頭上のデバイスを押さえた。
「記録にも残す」
「事実と推測を分けろ」
「うん。一輪が戻って枯れたこと。あの子に対応する接続が閉じなかったこと。花畑が接続を何度も補修していること。そこまでは事実」
「そうだ」
「待ってるっていうのは、私たちがそう思ったこと」
ジェレミーは頷いた。
「それでいい」
三人は、しばらく花畑の中央を見つめていた。
「あの子、いた」
エルが言った。
「いた」
レトが答える。
「ちゃんと、いた」
ロジーも続けた。
花畑の下では、無数の接続線が、あの子のいた場所へ伸びている。
接続先のない余白。
かつて、あの子が花畑と生命を分け合っていた証拠だった。
その日から、監理局は花畑への干渉を止めた。
観測だけを続ける。
接続線が弱まっても補強せず、伸びる方向を変えようともしない。
花畑にどのような変化が起きるのか、外から決めないために。
*
数か月後。
季節が少し進み、花畑には以前と異なる種類の花が咲いていた。
あの子へ向かう接続線には、大きな変化がない。
弱まれば花畑自身が補修し、また同じ余白へ伸びていく。
終わりの見えない反復は続いていた。
その日、情報班の自動観測が、一件の変化を検出した。
あの子へ向かう無数の接続線のうち、一本だけが、途中で向きを変えていた。
線の先にあるのは、一輪を返還した場所だった。
枯れた花の形は、すでに土へ還りつつある。
それでも、その地点には、一輪が抱えていた術式が花畑へ戻った痕跡が残されていた。
あの子のために空けられていた接続線の一本が、その痕跡とつながっている。
偶発的な循環の再編である可能性は、排除できない。
しかし、その接続は数日が経過しても切れなかった。
極めて微弱な魔力が、一輪の痕跡を通じて、あの子のために残された線へ流れ込んでいる。
それが何を意味するのかは分からない。
余白のほとんどは、いまも空いたままだった。
第七会議室には、花畑の立体構造が表示されていた。
ジェレミー、副長、情報班主任、技術班主任。そして、レト、ロジー、エルがいる。
技術班主任が説明を終えた。
「現時点では、術式形成の初期段階とも、単なる循環経路の再編とも判断できません」
レトが尋ねる。
「奇跡かもしれない?」
技術班主任は、僅かに考えてから答えた。
「その可能性を肯定できる観測結果はありません。ただ、否定できる結果もありません」
「分からないんだね」
「はい」
ロジーは、一本だけつながった線と、その周囲に残る膨大な余白を見つめた。
「これ、一つずつつなぐつもりだったら、すごく時間がかかる」
情報班主任が答える。
「人間の時間では、全体像を追いきれない可能性があります」
花畑が何かをしようとしているとしても、その営みがいつまで続き、どこで終わるのかは分からない。
始まりを観測した人間が、終わりまで立ち会えるとは限らなかった。
レトは、少し寂しそうに尋ねる。
「職員さんたちは、この先を最後まで見られないの?」
「その可能性は高いです」
情報班主任が答えた。
エルは、一本だけつながった線を見つめていた。
偶然かもしれない。
途方もない時間をかけて、欠けた循環へ何かを結び直そうとしているのかもしれない。
奇跡を約束することはできない。
あの子が戻るとも言えない。
それでも花畑は初めて、空けたままの場所へ、一輪の痕跡から一本の線をつないだ。
エルは、ほんの少しだけ笑った。
「あたしが見届ける」




