第41話-人間は、まだあるよ
海は三人の腰まで満ちたところで消えた。
一瞬前まで青緑色の水中だった場所に、乾いた白灰色の平地が戻る。防護服には水滴が残り、レトの足元には細い水草が一本だけ落ちていた。
水草は淡く光りながら萎れ、透明な膜を残して崩れた。
ロジーはそれを見た順番へ置こうとした。
海のあと。
森の前。
あるいは、最初に着陸した直後。
三つの記憶が同時に成立する。
「海と森、どっちを先に見た?」
ロジーが尋ねる。
「海」
レトは答えた。
調査員は少し考える。
「私は森が先だったと記憶しています」
「小型艇で海を見たのは?」
「着陸前です」
「地上で海へ入ったのは?」
「群生域へ入る前だったはずです」
「私もそう覚えてる。でも、森の中で海を見つけた記憶もある」
ロジーは頭を振った。
「順番は捨てる。見たことだけ残す」
「負荷は?」
調査員が尋ねる。
「まだ平気」
「景観情報を保持する必要はありません」
「分かってる」
ロジーは十五人の名前を確認する。
こちらは順番も、所属も、本人の情報も崩れていない。
少なくとも、今は。
地表を走る黒い線は、景色が変わっても残り続けている。
現在の荒野では岩盤の上を走り、海が現れれば海底を這い、透明な森の時代には樹木の根へつながっていた。
三人は黒い線から離れずに進む。
途中で、上位委員会の防護服を着た三名を発見した。
一人が倒れ、残る二人が身体を支えている。
距離は二十メートルほどに見える。
しかし三人の間には、乾いた平地と青い湖岸が交互に現れていた。
「職員さん!」
レトが呼ぶ。
向こう側の二人が顔を上げる。
こちらへ向かって何かを叫んでいるが、声は届かない。
レトが近づこうとすると、腰の索が張った。
数歩しか進んでいない。それでも、ロジーと調査員をつなぐ索は限界まで伸びていた。
「止まってください」
調査員が制止する。
レトは硝子短剣を地面へ滑らせた。
刃は平地を真っ直ぐ進み、三名の手前で青い湖へ落ちる。
次の瞬間、倒れている職員の背後から水しぶきが上がった。
短剣が湖岸の砂へ刺さっている。
三名は乾いた平地にいるように見える。
短剣だけが、別の景色の中へ届いていた。
「同じ座標へ、異なる状態が重なっている可能性があります」
調査員が言う。
「この三人の名前、分かる」
ロジーは防護服の識別番号を読む。
仮設拠点で聞いた十五人のうち、三名と一致した。
一人目の名前を呼ぶ。
向こう側の職員が反応した。
二人目。
三人目。
全員が自分の名前へ振り向く。
ロジーは大きく口を動かした。
待ってて。
一人がゆっくり頷く。
その直後、湖が消えた。
三名の姿も見えなくなった。
レトの短剣だけが、遥か遠い岩山の斜面へ刺さっている。
「名前、残ってる?」
レトが聞く。
「残ってる」
ロジーは三人の名を復唱した。
「どこにいたかは、もう二つ覚えてる。湖岸と平地。どっちが本当かは分からない。でも、この三人だったことは分かる」
「戻ってくる?」
「戻れるようにする」
ロジーは黒い構造物へ向き直った。
「景色まで持って帰れなくても、人は持って帰る」
◇
黒い構造物は、近くで見ても形を確定できなかった。
正面からは黒い平面に見える。高さはレトの三倍ほどあり、周囲の光を反射しない。
横へ回り込んでも厚みが見えない。
少し離れると、黒とも透明とも判別できない球体の一部にも見えた。瞬きをすると、何もない空間に黒い奥行きだけが残る。
海が現れた時には水中へ沈んでいるように見え、透明な森の時代には巨大な幹の間から覗いていた。山々が今より高い状態でも、同じ場所にある。
景色と地形だけが、黒いものの前後を行き来している。
調査員は先遣報告を思い返すように、構造物の周囲を見た。
「先遣隊は、球体に近い形状と報告しています」
ロジーは、厚みのない黒い面を見上げた。
「これが?」
「同じ物体であるなら、観測された形状が一致していません」
レトが数歩横へ移動する。
黒い面は、レトの方へ正面を向けたままだった。
「わたしの方からも、平らに見えるよ」
調査員も位置を変えた。
彼の正面にも、同じ黒い面がある。
三人は異なる位置に立っている。
それでも、構造物は三人全員へ正面を向けていた。
「形状そのものが変化しているのか、見る位置と形状の関係が成立していないのかは判断できません」
調査員は検出器を向けた。
針が黒い構造物を指し、次の瞬間、軸から外れる。
「惑星上で観測した異常は、この物体の反応と同期しています」
「原因だと言える?」
ロジーが尋ねる。
「少なくとも、無関係ではありません。旧世代由来の反応であることは断定します」
黒い面の表面に、細い光が浮かんだ。
傷ではない。
規則的に曲がり、途切れ、別の線と交わっている。人間の文字体系には属さないが、単なる模様とも思えなかった。
「先遣報告の記述」
調査員が呟く。
ロジーが撮影する。
保存された画像には、線のない黒い平面だけが映っていた。
再び撮影すると、今度は青緑色の海岸線が記録される。三度目には、透明な森の枝が画面を覆った。
「文字だけ残らない」
ロジーは撮影を止め、空中へ線の形をなぞった。
最初の曲線。
その下へ短い横線。
次に交差する二本。
黒い面へ視線を戻す。
線の並びは、すでに変わっていた。
「模写もできない」
調査員も記述を見つめた。
「先遣報告と一致します」
線の一部が淡く光る。
その瞬間、ロジーは何かを理解した。
単語ではない。
文章でもない。
しかし、そこに書かれているものが何を意味しているのか、一つのまとまりとして受け取った。
分かった。
そう感じた。
「これ――」
言葉にしようとした瞬間、自分の中にあった意味が崩れた。
代わりに、青緑色の海が浮かぶ。
透明な輪。
白い生物。
どれも、いま伝えようとした意味ではない。
「どうした?」
レトが尋ねる。
「意味が、分かった気がした」
ロジーは黒い文字列を睨んだ。
「でも、何が分かったのか言えない。言葉にしようとすると、別の景色になる」
調査員も、記述を見たまま口を開いた。
「私にも、意味らしきものが伝わっています」
「同じもの?」
「比較できません」
「どんな意味?」
調査員は答えようとした。
しばらく沈黙したあと、首を横に振る。
「伝えようとすると、内容を保持できません」
先遣隊が受け取ったものと同じなのか。
三人が同じ意味を理解しているのか。
それとも、見る者ごとに異なる何かを受け取っているのか。
確かめる方法はなかった。
線は表面でゆっくり形を変え続けている。
ロジーはもう一度読もうとはしなかった。
読めば、意味らしきものは来る。
しかし、それを自分の外へ持ち出した瞬間、同じものではなくなる。
「三人の候補は?」
ロジーが尋ねた。
調査員は黒い構造物から目を離す。
「すべてに一致する現象があります」
「過去の状態が現在に現れる。“昨日を置き忘れた丘”に近い。遠隔地と現在地の関係が重なる。“遠くで重なる足跡”に近い。観測した情報が同じ形で他者や記録へ届かない。“誰にも届かない眺め”に近い」
「三人いる?」
「反応は一つです」
調査員は検出器を下ろした。
「しかも、三名の既知記録にはない現象が残っています。物質の接触、人物の位置、言葉の意味、観測した順序、記憶の結びつき。いずれも同じ変動へ反応している」
三つの候補は、どれも外れていなかった。
それでも、どれ一つとして、この存在の全体には届かない。
「エルの言ったとおり」
ロジーが呟く。
「名前が、大きい」
黒い面が、三人を見た。
目も、顔もない。
それでも、見られたことだけが分かった。
レトが展開していた硝子短剣へ、一斉に亀裂が走った。
調査員は片膝をつく。
ロジーのデバイスが強い警告音を発した。
一時表示に保存されていた記録が、次々に別の内容へ変わっていく。
海。
森。
第三作戦室。
見知らぬ星空。
十五人の名前。
白い砂。
一瞬だけ名前が表示された。
ロジーは反射的に記録領域を閉じる。
名前を景色と同じ場所に置いてはいけない。
閉じる直前、一人目の名が「青緑色の海」へ置き換わった。
ロジーは胸元へ手を置き、本人の情報から名前を戻す。
地質調査班。
左手で細かい作業。
娘の誕生日。
名前が戻る。
次の瞬間、ロジーの視界からレトが消えた。
姿が見えなくなったのではない。
淡緑色の髪がある。
青い髪飾りがある。
小柄な誰かが、自分を庇うように前へ立っている。
それが誰なのかだけが分からない。
親しい相手だったことは分かる。
一緒にここへ来たことも、守られていることも理解できる。
名前だけが結びつかない。
頭上のデバイスが、ばらばらになった情報を補おうとする。
淡緑色の髪。
左側のワンサイドテール。
戦闘班。
硝子短剣。
空間魔術。
食堂のプリン。
物に話しかける癖。
一緒に帰ると約束した相手。
ロジーは、胸の奥から名前を引き出した。
「レト!」
呼んだ瞬間、すべての情報が一人へまとまった。
レトが両腕を広げ、青白い硝子で三人を囲っている。
「いるよ!」
レトは振り返らずに叫んだ。
「わたし、ここにいる!」
黒い構造物の気配が僅かに揺れた。
『壊れなかったね』
耳から聞こえた声ではない。
黒い面を見たことで、意味だけが三人の内側へ残った。
声は穏やかだった。
長いあいだ遠くから眺めていたものへ、ようやく近づいた時のような親しさがある。
『人間は、ここまで来られるようになったんだね』
ロジーはデバイスの警告を抑え、黒い構造物を見た。
「あなたが、この星をこうしたの?」
『うん』
返答にためらいはなかった。
『人間が簡単には来られない場所にした』
「どうして?」
『私たちが人間を見ると、人間は自分の形を保てないことがあるからね』
黒い面に、惑星の景色が浮かんだ。
現在の荒野。
青緑色の海。
透明な森。
火を噴く若い山々。
どれが前で、どれが後ろなのかは分からない。
『まだ小さい人間を、近くで見ないようにした』
『ここへ来られないうちは、見ない』
『ここまで来られるなら、たぶん人間は、私に見られても大丈夫なくらい育っている』
ロジーは、窪地へ並べられていた防護布を思い出した。
異なる時代の地層へ残っていた血痕。
湖岸の向こうに取り残された三名。
名前を残して戻らなかった人間たち。
「そのために、たくさんの人間が死んじゃったよ」
旧世代はすぐには答えなかった。
ロジーの言葉のどこに問題があるのか、探しているような間だった。
『人間は、たくさんあるからね』
声は変わらず穏やかだった。
『私がすこし減らしても、人間は無くならないよ』
「少し?」
『うん』
「ここで死んだ人が、少し減っただけって言うの?」
『人間は、まだたくさんあるよ』
ロジーは一歩前へ出た。
レトの硝子も、三人を囲ったまま前へ移動する。
「ほかに何人いても関係ない。ここで死んだ人には、一人ずつ名前があったの」
『名前』
「違う場所で生まれて、違うことを覚えて、違う人と約束してた。ほかの人間が残ってたって、その人の代わりにはならない!」
黒い面を流れていた光が止まった。
人間の死を聞いても変わらなかった声に、初めて緊張が混じる。
『名前が、なくなったの?』
「え?」
『名前がなくなったなら、その存在は終わる』
旧世代にとって、名前は呼称ではない。
何ができるか。
何を望むか。
何のために存在するか。
そのすべてを含んだ、存在そのものだった。
ロジーは声を落とした。
「あなたたちの名前とは違う」
黒い面の光が、ゆっくり動き始める。
『わたしたちとはちがう、印のことだよね』
「最初はそう。人間を呼び分けるための印」
『それなら、名前がなくなっても、人間はある』
「印だけじゃなくなるの」
『どうして?』
「名前を呼び続けるから」
ロジーは胸元へ手を置いた。
「その人の顔、声、好きだったもの、嫌がったこと。誰と仲がよかったか、何を約束してたか。名前を呼ぶたび、その人と過ごした時間が結びついていく」
十五人の名前を覚えた時と同じだった。
名前だけを並べていたら、景色と混ざっていたかもしれない。
一人ずつ違う情報を結びつけたから、失いかけるたびに戻せた。
『死んだ人間の名前も呼ぶの?』
「呼ぶよ」
『返事は?』
「ない」
『いないのに、呼ぶんだね』
「名前が残ってるから、その人がいなくなったって分かるの」
黒い面に、小さな波紋が広がった。
『名前が残るなら、その人間の一部は残っている』
「記録や思い出は残る。でも、その人が生きてることにはならない」
黒い構造物の表面から、小さな欠片が離れた。
欠片は本体と同じ周期で光り、すぐそばへ浮いている。
『人間が減るのは、私の一部をここに切り離したのと同じだよ』
『私は減るけど、全部無くならない』
『安心して。人間はまだあるよ』
「違う」
ロジーは即座に否定した。
「人間は、大きな一人から切り離された欠片じゃない。一人ずつ、自分で考えて、自分の身体で生きてる」
『一人ずつが、人間?』
「そう」
『一人ずつが、全部?』
「そうだよ」
旧世代は長く考えた。
その間にも、黒い面の背後では惑星の姿が入れ替わっている。青緑色の海が満ち、透明な森へ変わり、白灰色の荒野へ戻る。
ロジーの記憶の中でも、景色の順序が揺れていた。
それでも十五人の名前は、一人ずつの情報と結ばれている。
『たくさんの全部が、人間なんだね』
「うん」
『でも、人間はまだあるよ』
ロジーは目を閉じた。
言葉が通じていないのではない。
旧世代は、人間が一人ずつ異なる生を持つことを知識として理解した。それでも、見ているものが違う。
「……もういい」
『安心した?』
「してない」
『まだ悲しいの?』
「あなたに説明するの、もうやめる」
『どうして?』
ロジーは黒い面を見上げた。
「分かってないからじゃない。分かっても、同じにはならないって分かったから」
隣で、レトがロジーの手を握った。
「わたしも、人間がまだあるって言われても大丈夫じゃない」
旧世代の意識がレトへ向く。
『あなたは人間ではないね』
「でも、人間と一緒にいるよ」
レトは手を離さなかった。
「職員さんが一人いなくなったら、ほかの職員さんがいても同じじゃない。ロジーがいなくなったら、別の記録する子がいてもロジーじゃない」
『一人ずつが、全部』
「うん」
『人間のそばにいると、あなたも人間を分けるんだね』
「分けてるんじゃないよ」
レトは真っ直ぐ答えた。
「最初から違うんだよ」
旧世代は二人を見た。
怒りも、反発もない。
知らなかったものを知ろうとする、静かな関心だけがあった。
『人間は、一人ずつを持てるくらい育ったんだね』
ロジーが眉を寄せる。
「何の話?」
『私に見られても、壊れなかった』
地表を走る黒い線が、一斉に光った。
海と森と荒野が同時に揺らぐ。
『人間は、見られても大丈夫になったんだね』
ロジーのデバイスへ複数の警告が重なった。
これまで黒い構造物へ集まっていた反応の向きが崩れ、観測値の中心を定められなくなっている。
「待って」
ロジーが言った。
旧世代は穏やかに答えた。
『見させて』
黒い線が地表から浮かび上がった。
海底からも、透明な森の根からも、現在の岩盤からも、同じ黒い光が空へ伸びる。
白灰色の平地が大きく揺らいだ。
湖岸の向こうにいた三名が、突然、現在の荒野へ現れる。倒れた職員を支えたまま、周囲を見回していた。
遠くの岩山へ刺さっていたレトの短剣も、三名のすぐ近くの地面へ戻っている。
調査員が新しい検出器を取り出した。
針は黒い構造物を指さない。
全方向へ引かれるように震え、盤面の中央で回転した。
「反応の中心を特定できません」
その直後、母船から通信が入った。
『選抜調査班、応答しろ』
ジェレミーの声だった。
調査員が通信を開く。
「こちら選抜調査班。通信回復。地表の空間、景観および記録異常に変化を確認」
『本部と全観測拠点で旧世代反応を検出している。発生源は特定できない』
別の職員の報告が回線へ入る。
『複数惑星から同時通報。観測映像へ、撮影時刻と一致しない景観が混入しています』
続けて情報班の声が響いた。
『保存前後で記録内容が一致しません。過去の通信、未登録の地形、現在とは異なる星空を確認。再表示時に消失または別内容へ変化しています』
別の観測所からも報告が届く。
『生体異常および物理的損傷は、現時点で確定していません。反応範囲の境界は設定不能です』
ロジーは空を見上げた。
目に見える光はない。
何かが惑星から離れたのか。
宇宙全体で同時に別の現象が起きたのか。
旧世代が何を見ているのか。
判断できないまま、各地から観測された結果だけが集まってくる。
◇
惑星監理局の中央指令室では、星図全体が警告表示に覆われていた。
現在時刻を示していた画面へ、数百年前に廃棄された観測衛星の映像が一瞬だけ現れる。
別の画面では、惑星監理局の建設前と推定される宇宙空間が表示された。
保存しようとすると、どの映像も現在の星図へ戻る。
再生履歴には何も残らない。
ジェレミーの隣で、エルが画面を見上げている。
旧世代反応は外縁でも中心でもなく、観測範囲のすべてから検出されていた。
「知っているのか」
ジェレミーが尋ねる。
エルはすぐには答えなかった。
星図の数値ではなく、その向こう側にある何かを見ているようだった。
やがて、小さく口を開く。
「窓辺のさざ波」
ジェレミーがエルを見る。
「名前か」
「うん」
エルは星図から目を離さなかった。
「あの子の名前」
◇
白灰色の惑星で、黒い構造物は少しずつ透明になっていた。
崩れているようには見えない。
背後の景色が透け、現在の荒野と青緑色の海が同じ輪郭の中へ重なっている。
表面を流れていた記述も薄れていく。
最後まで、その形を記録することはできなかった。
旧世代の声が遠くから届いた。
『ありがとう』
三人は透明になっていく黒い面を見た。
『見た』
薄紫色の雲が切れ、星々が覗く。
『人間は、元気に生きているね』
声には、隠しようのない喜びがあった。
人間が生きている。
宇宙の各地で増え、歩き、名前を呼び合っている。
窓辺のさざ波は、そのことを心から喜んでいた。
『私たちが宇宙を譲ってよかった』
ここで死んだ一人ずつを理解できなくても、人間そのものへ向けた愛情は偽物ではない。
『またね』
黒い輪郭が星明かりの中へ溶けていく。
『また見に来るね』
旧世代反応が消失した。
全宙域で検出されていた反応も、ほぼ同時に観測限界を下回る。
青緑色の海が最後に一度だけ現れた。
巨大な透明の輪が遠くの水面から浮かび上がり、白い生物の群れがその内側を通り抜ける。
ロジーは目を逸らさなかった。
撮影しない。
数えない。
言葉にも置かない。
ただ、見た。
次の瞬間、現在の白灰色の荒野へ戻る。
黒い構造物があった場所には、何も残っていなかった。
ロジーのデバイスへ、現在時刻と惑星座標が表示される。
今度は消えなかった。
十五人の名前を入力する。
一人目。
保存する。
名前は変わらない。
二人目。
三人目。
十五人目。
すべてが、同じ文字のまま画面に残った。
◇
救助には、惑星監理局と上位委員会から七隻の船が投入された。
異なる地形の向こうに取り残されていた者。
帰還艇を目指しながら、同じ海岸と荒野を行き来していた者。
透明な森の中で仲間の声だけを聞き続けていた者。
異常が確認できなくなったことで、行方不明者は順番に発見された。
生存者は医療船へ運ばれる。
死亡が確認された者も、一人ずつ収容された。
惑星に残されていた古い装備と遺体については、所属と年代を調べる追加調査が決まった。
新しく撮影された白灰色の地表は、正常に記録された。
黒い柱も、円形の窪地も、岩山も残っている。
しかし、探索中に見た海や透明な森は、一枚も残っていなかった。
黒い構造物の表面にあった記述も、一文字、一画すら持ち帰れなかった。
五人の証言には、共通する部分がある。
青緑色の海。
透明な環状構造物。
白い生物。
光る森。
若い山々。
それでも、輪の数は一致しない。
海の色も少しずつ違う。
森と海のどちらを先に見たか、誰も同じ順番で答えられない。
表面の記述から受け取った意味についても、ロジーと調査員は「理解した感覚があった」としか証言できなかった。
ロジーが描いた透明の輪は、描き終えた直後には正しいと思えた。
数分後に見直すと、まったく違う形に見えた。
その一方で、十五人の名前は残った。
救助された者の名前。
死亡が確認された者の名前。
仮設拠点で待っていた者の名前。
ロジーが一人ずつ結び直した情報は、今度は文章として保存できた。
◇
監理局へ戻ったあと、ロジーは情報班の記録室に残った。
回遊惑星の現在座標。
白灰色の地表。
黒色構造物群。
救助された者。
死亡が確認された者。
過去の遭難者と思われる遺留品。
探索中の景観については、証言記録とだけ記した。
海洋環境と推定される景観。
森林状構造物。
生物または現象と推定される発光体。
球体、平面、あるいは形状未確定の旧世代由来構造物。
表面に旧世代言語と推定される記述あり。
記述の形状および意味は保存、複写、伝達不能。
時系列、座標、実在性、形状はいずれも確定不能。
添付できる映像はない。
ロジーは空白の画像欄を見た。
あれほど美しかった海を、誰にも見せられない。
エルに聞かせると約束したのに、どんな海だったのか、言葉へするたび違う海になる。
記録室の扉が開いた。
エルが入ってきて、ロジーの隣へ立つ。
「帰ってきた」
「うん。ただいま」
エルは空白の画像欄を見た。
「見たものは?」
「持って帰れなかった」
ロジーは椅子の背へ身体を預けた。
「海があった。森もあった。すごくきれいだった。でも、何色だったか言うと、言った瞬間に違う気がする。描いても違う。みんなで同じものを見たはずなのに、同じ形で残せない」
「そう」
エルは空白をしばらく見ていた。
「窓辺のさざ波」
ロジーが言った。
「うん」
「人間のこと、好きだったんだよね」
「好きだったよ」
「最後まで?」
「うん」
ロジーは入力する手を止めた。
「でも、エルとは全然違った」
エルは少し考え、小さく頷いた。
「うん。違うね」
「エルも昔は、人間を一つみたいに見てたんでしょ」
「うん」
「どうして、今は違うの?」
エルは答えず、画面に並んだ名前の一番上を指した。
「この人、誰?」
ロジーは名前を確認する。
「地質調査班の職員さん。細かい作業は左手でやる人。娘の誕生日までに帰るって言ってた」
エルは、その名前を小さく読んだ。
次の名前を指す。
「この人は?」
「救難艇の操縦士。仮設拠点へ戻ろうとして、湖の向こうに取り残されてた。私が名前を呼んだら、ちゃんとこっちを見た」
エルは、もう一度名前を読んだ。
それから次の記録を指した。
「この人は?」
ロジーは新しい欄を開いた。
「この人はね」




