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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【新版】  作者: 硝子玉の宇宙
記録、消失、再録

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第39話-ロジーちゃんの秘密『私は記録し続ける』

医療区画の一室が封鎖され、医療班、技術班、魔術制御官、精神構造を扱う治療術師が集められた。


監視画面には、誰もいない寝台が映っていた。毛布の一部だけが、見えない身体の形に沿って僅かに持ち上がっている。


肉眼で見れば、少女はそこにいた。


医療端末は少女を対象として認識できず、職員が直接身体へ触れ、測定結果を手動で入力しなければならなかった。


出血は治療によって収まりつつあり、臓器にも致命的な損傷はない。


問題は脳だった。


通常の診断術式は少女を捉えられなかったが、直接接触による検査で、言語、記憶、知覚、判断、自己認識に関わる機能が広範囲に損なわれていることが分かった。


過去と現在を分ける機能も、自分と他者を区別する機能も崩れている。


治療術師は、検査を終えて首を横に振った。


「損傷した部分と、この少女が本来持っていた機能を分けられません。旧世代の遺物による影響です。修復を試みれば、記憶や人格まで別の形へ組み替える可能性があります」


「覚醒させた場合は」


「どの程度の思考が可能か判断できません。神経活動がさらに崩れる危険があります」


ジェレミーは少女の周囲を巡る光へ視線を移した。


「生命維持を優先しろ。意識は戻すな」


少女の呼吸が弱くなると、淡い光が身体へ近づいた。状態が安定すれば、僅かに距離を取る。


光は身体へ近づく危険を排除できても、壊れた思考そのものを支えることはできないらしかった。


◇


エルが医療区画へ来たのは、その日の夜だった。


ジェレミーが呼んだわけではない。エルは裸足のまま廊下を歩き、封鎖された区画の前で足を止めた。


「エル」


ジェレミーが呼ぶ。


エルは扉を見たまま尋ねた。


「見つけたの?」


「少女を保護した」


「紙吹雪の子?」


「そうだ」


エルは少し黙った。


「入る」


「見るだけだ。許可なく魔法を使うな」


「うん」


認証扉が開く。


エルは医療室へ入り、寝台の少女を見た。


桃色のツインおさげ。小さな身体。顔に残る血の跡。その周囲を巡る、白とも桃色とも見える光。


エルの足が止まった。


光の一つが少女のもとを離れ、エルの顔の前まで飛んできた。


ゆっくりと揺れる。


エルは目を閉じた。


身体が僅かに傾き、ジェレミーが肩を支える。


人間の器へ入るより前。


名前と魔法と宇宙の境界が、今ほど明確ではなかった頃。


封鎖された旧世代の遺物。


いつか誰かが触れるという予測。


人間が残した発見の記録。


その記録を辿る、桃色の小さな輪郭。


危険を花や紙吹雪へ置き換える光と、硝子の壁の外へ消えていく遺物。


断片が一つにつながり、最後に少女の名前が戻ってきた。


エルが目を開く。


「ロジー」


ジェレミーが肩から手を離した。


「思い出したのか」


「うん。この子、ロジー」


エルは寝台へ近づいた。


「前のあたしが作った」


医療室にいた職員たちが手を止める。


「何から作った」


「記録と、記憶」


「何のために」


「旧世代の遺物を、硝子玉の宇宙から除去するため」


エルはロジーの周囲を巡る光へ指を向けた。


「人間が遺物を見つけた記録を探して、そこに行く。見つけたら、光で外にぽいってする」


「この光も、お前が与えたのか」


「うん。ロジーに危ないものが届かないようにした」


ジェレミーは、七十年間に確認された出現間隔を伝えた。


「七十年のあいだ、ロジーが現れる間隔は一定ではなかった」


「読んだ記録を、自分の中で終わらせるまで、次に行かなかったのかも」


「短ければ数年。長い時には二十年以上だ」


エルは首を横に振った。


「もっと。大きい記録なら、数百年かかることもあったと思う」


外界でどれほど時間が過ぎても、ロジーにとっては一つの記録を処理する、長い活動の途中だった。


ジェレミーは、黒い書物が開かれた時の異常について尋ねた。


「本部で、お前が魔法を使った」


「硝子の壁を守った」


「ロジーが書物を開いたと知っていたのか」


エルは首を横に振った。


「あの時は知らなかった。ロジーを見て、今、分かった」


「最後の書物は、何だった」


「ロジーが開いた瞬間に、大変だった」


エルは眠るロジーを見た。


「あたし、硝子の壁ぜんぶ壊されると思って魔法使った」


医療室の空気が静まった。


「それくらい強い魔法だった。死ななくてよかった」


ジェレミーは、治療の可能性を尋ねた。


エルは光へ伸ばしかけた手を止める。


「中は変えられない。旧世代のものが入ってるから、あたしが直したら、ロジーじゃないものになるかもしれない」


「外からなら」


「できる」


エルは頭上を巡る光を見た。


「考えるのを、外に置く」


◇


エルが指先を近づけると、淡い光が集まった。


観測装置には、何も映らない。


その場にいる職員の目にだけ、ロジーの周囲を飛んでいた光が頭上へ集まり、輪を形作っていく様子が見えていた。


「ロジーの中は変えない」


エルの指が光へ触れる。


術式も魔力の流れも観測されないまま、結果だけが生じた。


ロジーの頭上へ集まった光が、失われた脳機能を外部から補い始める。言葉を組み立て、知覚へ意味を与え、過去と現在、自分と他者を分ける処理が、身体の外で行われていた。


接触式の測定具を確認していた医療班員が顔を上げる。


「神経活動が安定しています」


しかし、光の輪はロジーの状態に合わせて形を変え続けた。情報量が僅かに増えるだけで激しく揺らぎ、エルが手を離したあとも同じ状態を維持できる保証はなかった。


「形がいる」


エルが言った。


ジェレミーは技術班へ向き直る。


「外殻を作れ。光を閉じ込めず、ロジーの頭上へ固定する」


医療班は、思考を維持するために必要な神経活動を確認した。魔術制御官は、過剰な情報が流れ込んだ時に処理量を狭める方法を組み立て、技術班は光の動きを妨げない円盤状の外殻を設計した。


エルは、過去の記録と現在の知覚、ロジー自身の記憶と外から届く情報が混ざらないよう、光の流れへ境界を加えた。


すべてを遮断すれば、ロジーの思考も止まる。


だから、閉じるのではなく細くする。


人間の技術と医療、体系化された魔術、現在のエルの魔法、そして旧世代だったelkore_felicoが残した加護が、一つの装置へ組み合わされていった。


完成したのは、ロジーの頭上へ浮かぶ小型の円盤状デバイスだった。


神経活動外部制御補助端末。


壊れた脳を作り直すのではなく、ロジーがロジーのまま思考できるよう、失われた機能を外部から支える装置である。


デバイスが安定動作へ移行した直後、観測室にいた職員が監視画面を指した。


それまで空の寝台しか映していなかった画面に、少女の姿が現れていた。


白い寝台へ横たわる小さな身体。


桃色のツインおさげ。


頭上に浮かぶ円盤状のデバイス。


記録設備には何の操作も行われていない。技術班が作ったのは脳活動の補助装置であり、少女を記録へ映す機能など存在しなかった。


ロジーが監視画面へ姿を現したのは、外部から流れ込む記録と、ロジー自身の認識を分ける境界が安定したのと、ほぼ同時だった。


二つの変化に因果関係があるのか、監理局には判断できなかった。何が少女を記録から外していたのかも、何が制限されたことで記録へ戻ったのかも、現在まで把握されていない。


監理局は現在も、この異常な情報接続を一つの魔術として認識できていない。


だが、その力には、ロジーだけが知る名前があった。


アカシックレコード・オフライン。


通信も探索も介さず、世界に成立した記録そのものへ触れる。接続履歴だけでなく、魔術を使ったという事実さえ残さない、ロジーの秘匿魔術だった。


完全に行使していた頃のロジーは、自分自身も記録の外側にいた。


頭上のデバイスは、その魔術を与えるための装置ではない。流れ込む情報量を狭め、過去と現在を分け、自分自身の思考を保つための安全装置だった。


◇


昏睡処置が解除されたのは、収容から二十三日後だった。


寝台の周囲には医療班と技術班が立ち、ジェレミーはロジーの傍にいた。エルは観測窓の向こうから室内を見ている。


鎮静薬の濃度が下がる。


ロジーの指先が動き、頭上のデバイスが淡く光った。


瞼がゆっくりと開く。


焦点の合わない目が天井を見たあと、医療班員、技術班員と順に移り、最後にジェレミーの顔で止まった。


唇が動く。


言葉になるまで、長い時間がかかった。


「……ここ」


「惑星監理局の医療区画です。あなたを治療しています」


医療班主任が答える。


デバイスの内側を光が巡る。ロジーの視線は、医療班員と室内を一つずつ確かめるように動いた。


「私の声は分かるか」


ジェレミーの問いに、ロジーは数秒遅れて頷いた。


「自分の名前を言えるか」


ロジーの視線が揺れる。


頭上のデバイスが細かく明滅した。


やがて、掠れた声が出た。


「……ロジー」


「どこから来た」


「分からない」


「何をしていた」


ロジーは口を開いたまま動きを止めた。


デバイスの光が激しく揺れ、呼吸が速くなる。医療班主任が質問の中断を求めると、ジェレミーはすぐに黙った。


光が流入する情報を狭め、ロジーの呼吸を整えていった。


しばらくして、ロジーは自分の頭上へ手を伸ばした。指はデバイスへ届かない。それでも、自分の近くに何かが浮かんでいることは分かったらしい。


「これ……なに?」


「君が考えるための装置だ」


「私の?」


「そうだ」


ロジーはジェレミーを見た。


「取る?」


「取らない」


「なくさない?」


「約束する」


ロジーは、ようやく寝台へ身体を預けた。


視線が観測窓へ移る。


硝子の向こうにはエルがいた。


ロジーはエルを知らない。


エルはロジーを生んだことを思い出したが、この身体で顔を合わせるのは初めてだった。


「あの子、だれ?」


「エルだ」


ジェレミーが答える。


エルは硝子越しに手を上げた。


ロジーも少し遅れて、指先を持ち上げた。


◇


それから数日後。


ロジーは寝台の上で身体を起こせるようになっていた。長く考えるとデバイスが強く明滅したが、目の前の相手を認識し、自分の意思で言葉を選ぶことができる。


エルは医療班員の許可を得て、寝台の横に置かれた椅子へ座った。


「ロジー」


「なに?」


「昔のこと、覚えてる?」


ロジーは少し考えた。


「分かんない」


「ロジーは、旧世代の遺物を硝子玉の宇宙から除去するために、前のあたしが作った」


「エルが、私を?」


「うん。人間が遺物を見つけたら、そこに行って、光で外にぽいってする」


ロジーは、自分の知らない過去を聞くようにエルを見ていた。


エルは少し間を置いた。


「あたし、遺物を読むようには教えてない」


ロジーの目が瞬く。


頭上のデバイスが淡く光った。


目の前に記録があるのに、それを読まずに捨てる。その行為を考えようとしているらしい。


やがてロジーは、当然のことを説明する声で答えた。


「目の前の記録を読まないなんて、記録に失礼じゃん」


「でも、危ないものだった」


「記録だったんでしょ?」


「うん」


「じゃあ読むよ」


ロジーの答えに迷いはなかった。


何を読んだのかも、何冊の遺物を捨てたのかも覚えていない。最後の書物によって壊れる前の記憶は、ほとんど残っていなかった。


それでも、記録を前にした時にどうするかだけは、ロジーの中に残っている。


エルは、しばらくロジーを見ていた。


「そういうふうには、作ってない」


ロジーの眉が少し寄った。


「じゃあ、失敗?」


エルは首を横に振る。


「違う」


「じゃあ、なに?」


エルは、しばらくロジーを見ていた。


「ロジーだった」


ロジーは意味を理解できないまま、枕へ背中を預けた。


「そっか」


頭上のデバイスが、静かに光っていた。



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