第26話-魚が休憩室を泳いでる!
最初の一匹は、午後の休憩時間が始まって間もなく、休憩室の戸棚から出てきた。
職員が届いたばかりの飲料と菓子を片づけようと、低温輸送殻の主開口部を持ち上げた直後だった。
青白い光が箱の奥から滑り出し、紙コップを積んだ戸棚の隙間へ逃げ込んだ。光はそこで細長く伸び、薄い鰭と尾を広げる。
手のひらほどの魚だった。
水のない空中で、魚は何事もないように尾鰭を振った。戸棚を開けた職員の頭上をゆっくり一周し、照明の近くまで上昇していく。
「……魚?」
向かいの席にいた職員が呟いた。
二匹目が冷蔵庫の裏から現れ、三匹目は開いた輸送殻の陰から泳ぎ出した。
それを合図にしたように、休憩室のあちこちから青白い魚が姿を見せた。机の下、椅子の背、照明器具の隙間、換気口の手前。数える暇もなく群れとなり、淡い光を休憩室いっぱいに散らしていく。
異常発生を告げる警報が鳴った。
◇
「待って。捕まえるだけだから!」
レトが硝子質の魔力で作った小さな網を振ると、魚の群れは一斉に散った。
網は空を切った。三匹がテーブルの下へ潜り、五匹が照明器具を回り込み、残りも光の尾を引きながら四方へ逃げていく。
魚たちは追われていることすら遊びだと思っているらしい。レトが網を向けるたび、楽しそうに方向を変えた。
「追いかけないで!」
休憩室の中央で、ロジーが叫んだ。
ピンク色のツインおさげを揺らし、小柄な身体で椅子の上に立っている。頭上に浮かぶ円盤状デバイスの周囲には、複数の半透明画面が展開されていた。
「でも、捕まえないと」
「レトが追うと群れが分かれるの! いま七組に分散した!」
「七組?」
「八組になった!」
「増えた!」
「だから止まって!」
レトは網を構えたまま、その場で固まった。
魚たちはまだ警戒しているらしく、壁際を何度も旋回している。
休憩室の隅では、エルがじっと立っていた。
白いボブヘアーの毛先には淡いピンク色がある。その周囲へ、十匹近い魚が集まっていた。
一匹がエルの髪へ鼻先を寄せる。ほかの魚も次々と隣へ並び、同じ色の光を持つ仲間のように、白い髪の周りを泳ぎ始めた。
「エル、動かないで」
「動いてない」
「そのまま。すごく集まってる」
「ついてくる」
エルが一歩だけ横へ動くと、魚たちもまとまって同じ方向へ流れた。
レトが目を輝かせる。
「エル、魚のお母さんみたい」
「違う」
エルは即座に否定した。
魚たちは気にする様子もなく、白い髪の周囲を泳ぎ続けている。
休憩室の入口では、調査班と医療班の職員が状況を確認していた。
「対象を照合しました」
調査班職員が端末を見ながら報告する。
「外縁惑星アクエラで採取された、浮遊魚型の小型魔力生命体です。現地の低重力環境では、大気中を遊泳します」
「危険性は?」
「確認されていません。刺激を受けると散開しますが、攻撃性はありません」
レトは硝子の網を、そっと背中へ隠した。
「刺激してないよ」
ロジーが見る。
「追い回してたよね?」
「捕まえようとしてただけ」
「魚からしたら同じ!」
医療班職員は、近くを泳ぐ一匹の発光状態を確認した。
「環境維持容器の外では、体内魔力を消耗します。すぐに生命活動へ影響が出るわけではありませんが、長時間の放置はできません」
「何匹いる予定なの?」
ロジーが尋ねた。
「輸送記録では三十七匹です」
ロジーは室内全員へ動かないよう言い渡し、個体識別用の魔力反応を一つずつ拾い始めた。
机の下、照明の裏、換気口の手前、エルの髪の周囲。
低温輸送殻の内部には、外部魔力による内容物の変質を防ぐための遮断層がある。殻の外からは内部の魔力反応を読み取れないため、ロジーは休憩室内へ出た反応だけを数えていった。
「三十四、三十五……三十六」
ロジーの指が止まる。
「一匹、足りない」
◇
魚が休憩室へ運ばれた経緯は、十分ほどで判明した。
三十七匹の魚は環境維持容器へ収容され、調査班区画へ搬入される予定だった。
ところが中継拠点までの輸送中、環境維持容器の外装と確認窓の留め具が損傷した。生命維持機能そのものに異常はなかったものの、監理局内へそのまま持ち込むことはできない。
中継拠点の職員は、環境維持容器を汎用の低温輸送殻へ収め直した。
同じ時間帯には、午後の休憩用に届けられた菓子と飲料も、同型の低温輸送殻で運ばれていた。
魚の輸送殻は外装交換に伴い、正式な識別札の再発行を待っていた。休憩用貨物の識別札にも読み取り不良が見つかり、二枚とも一時的な仮札へ交換されていた。
貨物用昇降機の前で作業した職員は、二枚の仮札を同じ確認台へ置いた。
付け直した時には、左右が逆になっていた。
魚の輸送殻は生活班へ、菓子と飲料は調査班区画へ運ばれた。
生活班の職員は、午後の休憩用貨物だと思って輸送殻を休憩室へ運び、その場で主開口部を開いた。
その瞬間、輸送殻の内壁によって押さえられていた環境維持容器の確認窓が、損傷していた留め具ごと外れた。
三十六匹の魚が外へ飛び出した。
「はい、ここまで」
ロジーは空中画面を指で弾いた。
輸送記録、貨物昇降機の重量、運搬台車の移動履歴、仮識別札の読み取り時刻が、一本の時間軸へ並んでいる。
「十二時八分に仮札が外れて、十二時十分に逆へ付けられた。十二時十七分には、魚の輸送殻が生活班側の台車へ載ってる」
情報班主任が画面を確認する。
「原因は、仮識別札の取り違えで確定しますか」
「仮確定。貨物を開けた時刻と、魚が出た時刻も一致してる」
「調査班区画へ運ばれた休憩用貨物は?」
「回収済み。誰も開けてない」
レトが手を上げた。
「魚はどうやって戻すの?」
「それも調べた」
ロジーは魚の生態記録を開いた。
現地で撮影された映像では、暗い空中を泳ぐ魚たちが、一定の間隔で点滅する青い光へ一斉に向きを変えている。
「この魚、青い発光を目印にして群れを作るの。一定の間隔で光らせれば、たぶんついてくる」
「たぶん?」
「記録上はそう。監理局の休憩室で試した記録はないから」
「じゃあ、やってみよう!」
レトが硝子の網を消した。
ロジーは休憩室内の表示画面を一つの制御系統へ接続する。
壁面表示、卓上端末、案内板、照明制御を利用し、開いた環境維持容器へ近づく順番で青い光を点滅させた。
最初の光が灯ると、魚たちは動きを止めた。
次の光へ数匹が向きを変え、その先の光が点滅すると、群れ全体がゆっくりと動き始める。
「来た!」
レトが声を上げた。
「大声出さない!」
驚いた魚たちが一瞬だけ乱れた。
「ごめん」
レトは両手で口を塞いだ。
ロジーは休憩室の隅から環境維持容器まで、青い光の道を作る。レトは薄い硝子板を左右へ並べ、魚たちが別方向へ逸れないよう進路を狭めた。
透明な板を避けながら、魚たちは光に導かれて進んでいく。
最後尾にはエルがいた。
髪の周囲へ集まった魚を連れ、ゆっくりと容器へ近づいていく。
「エル、もう少し右」
エルが右へ動くと、魚たちも右へ動いた。
「そのまま前」
エルが進む。
魚たちは白い髪を囲んだまま、容器の入口までついてきた。
先頭の一匹が環境維持容器へ入り、後ろの魚も続く。
レトが息を殺して数えていた。
最後にエルの髪から離れた魚が容器へ入ると、技術班職員が仮の封鎖板を取り付けた。
ロジーは個体反応を確認する。
「三十六」
レトの笑顔が消えた。
「やっぱり、一匹いない」
◇
環境維持容器の外へ出た魚は、周囲の魔力を取り込みながら活動する。
しかし、監理局内部の魔力濃度は、生息地であるアクエラより低い。
蓄積魔力が一定値を下回れば浮遊できなくなり、そのまま発見できなければ身体機能にも影響が出る。医療班の推定では、残された猶予は一時間ほどだった。
休憩室、廊下、生活班区画、貨物用昇降機。
輸送殻が通った経路を、職員たちが手分けして捜索する。換気口の内部へ小型探査機が入り、床下の配線区画も確認されたが、個体反応は見つからなかった。
低温輸送殻も、最初に技術班が調べていた。
主開口部と、目視できる内部空間には魚はいない。環境維持容器の中にも、三十七匹目の姿はなかった。
だが、低温輸送殻の壁面には、保冷層と魔力遮断層が何層にも重ねられている。外からの走査では内部を確認できず、壁面を調べるには輸送殻そのものを一枚ずつ分解しなければならない。
解体には三十分以上かかる。
魚が休憩室から廊下や換気口へ逃げた可能性も残っていたため、捜索班は移動経路の確認を優先していた。
ロジーは魚を運んだ輸送殻の記録を、最初から開き直した。
内部温度、外気圧、振動、傾斜、移動速度。
複数の記録を照合していると、十二時十二分、貨物用昇降機の内部で温度が一度だけ急に上昇していた。
変化は小さく、継続時間は十八秒しかない。
「これ、何?」
技術班職員が記録を確認する。
「側面点検口を開いた際に発生する温度変化と一致します」
「誰が運んでた?」
運搬記録を調べると、中継拠点から貨物に同行してきた若い職員が担当していた。
呼び出された職員は、休憩室へ入ってきた時から顔を強張らせていた。
情報班主任が尋ねる。
「昇降機の中で、輸送殻の主開口部を開けましたか」
「主開口部は開けていません」
「側面点検口は?」
職員の返事が遅れた。
「……確認のために、少し開けました」
「なぜ最初に報告しなかったのですか」
「内側から音が聞こえたので、外装交換による不具合がないか確認しました。環境維持容器には触れていませんし、外へ出たものも見えませんでした」
「点検口を開けた事実は、捜索に必要な情報です」
「関係があるとは思わなかったんです。点検しただけで、異常は見つかりませんでした」
職員は弁明するように続けた。
「搬送中の輸送殻を許可なく開けたことだけを報告すれば、規定違反になります。だから、何も起きていないと思って……」
ロジーは貨物用昇降機の監視映像を開いた。
映像に音声はない。輸送殻の正面は見えているものの、右側面は担当職員の身体に隠れていた。
十二時十二分十一秒、職員が輸送殻へ近づく。十二時十二分二十九秒、職員が離れる。
その十八秒間、手元は映っていない。
「点検口、どこ?」
技術班職員が輸送殻の図面を表示した。
「右側面です。この角度では確認できません」
「環境維持容器の確認窓と重なってる?」
「位置は重なっています」
技術班職員が内部構造を拡大した。
「確認窓の留め具が損傷していた場合、輸送殻の側面点検口を開くと、内壁からの押さえがなくなります。隙間が生じた可能性はあります」
「どれくらい?」
「損傷状態によります。数ミリから、最大で指一本分ほどです」
ロジーは監視映像を巻き戻した。
十二時十二分十一秒から二十九秒まで。
映像に残っているのは、輸送殻の前に立つ担当職員の背中だけだった。
手元も、点検口の内側も、音声もない。
肝心の出来事だけが欠けた十八秒間。
ロジーは映像を止めた。
頭上のデバイスが、ほんの短く明滅する。
半透明画面の端に、小さな警告が浮かんだ。
処理負荷上昇。
ロジーは指先で表示を消した。
「魚が、容器の壁に三回ぶつかった」
担当職員が顔を上げた。
「一回目は小さくて、そのあと続けて二回。だから心配になって、点検口を開けた」
担当職員の顔から、ゆっくり血の気が引いていく。
情報班主任は何も言わず、ロジーを見た。
ロジーは続ける。
「中を覗いて、“息、できてるか”って言った」
担当職員の唇が開いた。
声は出なかった。
昇降機の映像に音声はない。
周囲には誰もいなかった。
その言葉を知っているのは、本人だけだった。
「点検口を開けた時、一匹が確認窓の隙間を抜けた」
ロジーは輸送殻の断面図を拡大した。
環境維持容器と輸送殻の外壁の間には、保冷材と魔力遮断材が敷かれた狭い空間がある。
「それから、あなたは点検口を閉めた。魚は外へ出てない。ここに入った」
担当職員は、断面図を見つめた。
「……見えなかった」
「うん」
「中を確認した時、魚は全部、容器の奥へ集まっているように見えた。何も外へ出てこなかったから、異常はないと思って閉めた」
職員の声が掠れる。
「一匹が隙間へ入ったなんて、本当に気づかなかった」
ロジーは断面図の右側面を指した。
「ここから解体して」
技術班職員が頷く。
「右側面の遮断層を優先します」
情報班主任がロジーへ尋ねた。
「位置を断定できるのですか」
ロジーは主任を見なかった。
「いまは反省会より、魚」
◇
輸送殻は、その場で分解された。
技術班は、ロジーが指示した右側面から外装板を外した。
その下には保冷層があり、さらに魔力遮断材と断熱材が重なっている。環境維持容器を傷つけないよう、一枚ずつ慎重に剥がしていく。
医療班は、魚をすぐに処置できるよう、生息地に近い魔力濃度へ調整した簡易容器を準備していた。
レトは作業台の横に立ち、外されていく部材をじっと見ている。
「いるかな」
ロジーは右側面を見たまま答えた。
「いる」
情報班主任が、またロジーを見る。
ロジーは気づかないふりをした。
最後の断熱材が持ち上げられると、技術班職員の手が止まった。
「確認しました」
薄い断熱材の隙間で、青白い光がごく弱く明滅している。
三十七匹目だった。
浮かぶ力を失い、狭い空間の底へ横たわっていた。
「いた!」
レトが作業台へ身を乗り出す。
「触らないでください」
医療班職員は魚を慎重にすくい上げ、処置用容器へ移した。
光は弱く、鰭もほとんど動いていない。
周囲の魔力濃度が、生息地に近い値まで引き上げられる。
数秒後、魚の尾鰭が小さく動いた。
レトが両手を握った。
「動いた」
青白い光が、わずかに強くなる。
医療班職員は生命反応を確認した。
「状態は安定し始めています。発見が遅れていれば危険でしたが、回復は可能です」
レトが大きく息を吐いた。
エルは処置用容器を覗き込んでいた。
身体を起こした魚は、容器の中を一度だけ泳ぎ、エルのいる側へ寄ってくる。
「こっち来た」
「エルの髪、仲間だと思われてるんじゃない?」
ロジーが言った。
「違う」
エルはまた否定したが、容器からは離れなかった。
◇
三十七匹目が群れへ戻されたのは、その日の夕方だった。
環境維持容器の中では、三十六匹の魚が青白い光をまといながら泳いでいる。
そこへ最後の一匹が近づき、群れの中へ入った。
次の瞬間、三十七匹が同じ間隔で明滅した。
レトは容器へ顔を近づける。
「元気になった?」
「医療班が大丈夫って言ってたでしょ」
ロジーは胸を張った。
「当然。私が見つけたんだから!」
「ロジー、魚の言葉も分かる?」
「分かんないよ」
「でも、“息、できてるか”って聞かれたのは分かったよね」
レトの何気ない質問に、ロジーの表情が止まった。
「それは人間の言葉!」
「魚が聞いたの?」
「聞いたんじゃない?」
「どうやって分かったの?」
「レト、質問多い!」
ロジーは両手でレトの顔を横へ向けた。
「魚見てて!」
「見てるけど」
「もっと見て!」
エルは容器ではなく、ロジーの頭上へ視線を向けていた。
円盤状のデバイスは、いつも通り淡い光を放っている。先ほど浮かんでいた負荷警告は、もう表示されていなかった。
「ロジー」
情報班主任が後ろから呼んだ。
「なに?」
「報告書を作成します」
「三十七匹全部回収って、大きく書いて」
「記載します」
主任の端末へ、事故の経緯が整理されていく。
仮識別札の取り違えによる輸送先の誤り。環境維持容器の確認窓および封鎖部の損傷。浮遊魚型魔力生命体三十七匹の逸走。
三十六匹を休憩室内で回収し、残る一匹を低温輸送殻の右側遮断層内部で発見。
全個体、生存。
ロジーは最後の一文を確認し、満足そうに頷いた。
主任は別の記録欄を開いた。
「担当職員が聞いた衝突音について、どの記録から確認しましたか」
「振動記録」
「該当時刻の振動記録には、昇降機の駆動音が重なっています。衝突回数までは判別できません」
「私には分かった」
「“息、できてるか”という発言も?」
ロジーは魚の群れへ顔を向けた。
「言いそうだったから」
「推測ですか」
「すごく当たる推測」
主任はロジーの頭上へ視線を向けた。
「同じ時刻に、補助デバイスの処理負荷が上昇しています」
ロジーも上を見る。
「映像いっぱい見たから」
「そうかもしれません」
「そうだよ」
「取得経路は確認できませんでした」
主任は端末へ入力した。
ロジーが横から覗き込む。
そこには、ロジーが未記録情報を提示し、その内容が担当職員の証言と輸送殻内部の状況によって確認されたこと、同時刻に補助デバイスへ短時間の処理負荷上昇が発生したこと、そして取得経路は不明であることが記されていた。
「そこ、書かなくてよくない?」
「確認された事実です」
「三十七匹見つけたことの方が大事」
「それも記録しています」
「もっと大きく」
「文字の大きさは統一されています」
「融通が利かない!」
ロジーは頬を膨らませた。
主任は記録を消さなかった。
ロジーも、それ以上消すようには言わなかった。
環境維持容器の中で、三十七匹の魚が一斉に向きを変えた。青白い光が休憩室の壁へ揺らぎ、エルの白い髪にも淡く映り込む。
レトが笑った。
ロジーは主任の画面から顔を背け、その光だけを見つめた。
今度こそ、三十七匹。
一匹も欠けていなかった。




