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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【新版】  作者: 硝子玉の宇宙
『轢殺の神性存在』

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第23話-ちいさな彗星の帰る場所

バーン!!と。


惑星監理局の局長室の扉が、壁へ届きそうな勢いで開いた。


「お兄さん!」


ジェレミーは、机上の書類から顔を上げた。


任務の事後報告が積まれている。外部機関への回答、損耗した装備の補充申請、現地の復旧支援に関する承認。


そのどれにも手を止めることなく、彼は右腕だけを広げた。


「おかえり、レト」


淡緑の髪が、執務机の脇を駆け抜けた。


レトは速度を落とさない。


そのままジェレミーの胸へ飛び込み、首へ両腕を回した。


ジェレミーは片腕で受け止め、衝撃を殺すように身体を抱き寄せた。


「ただいま!」


制服の胸元へ、頬が押しつけられる。


「ただいま、お兄さん!」


「ああ」


レトは帰還後の検査を終えたばかりだった。


頬には小さな保護材。両腕の一部には包帯が巻かれている。


けれど、その身体を抱えるジェレミーの動きには迷いがなかった。


傷へ触れない位置へ腕を回し、そのまま椅子へ座る。


レトも当然のように膝へ収まった。


「医療班、長かった」


「必要な検査だ」


「分かってるよ。ちゃんと全部やった」


「報告は受けている」


「動かなかったよ」


「途中で三度、診察台から降りようとしたとも聞いた」


「床を見ただけ」


「そうか」


レトはジェレミーの顔を見た。


叱られないと分かると、何事もなかったように胸へ背中を預ける。


机の端には、小さな保温容器が置かれていた。


ジェレミーが蓋を外し、レトへ渡す。


「飲め」


レトは両手で受け取った。


「甘いやつ?」


「ああ」


一口飲む。


熱くない。


けれど、身体の内側へゆっくり染みていく程度には温かい。


「おいしい」


「そうか」


レトが医療班にいる間に、用意されていたものだった。


ジェレミーは説明しない。


レトも、なぜあるのかとは尋ねない。


任務から帰った日は、局長室へ来る。


温かいものを飲む。


しばらく抱かれている。


二人の間では、もう何度も繰り返されてきたことだった。


ジェレミーは左手で端末を操作する。


レトを支える右腕は動かさない。


新しい書類を開き、内容を確認し、承認を送る。


レトは飲み物を口へ運びながら、その様子を眺めていた。


「お仕事いっぱい?」


「通常どおりだ」


「これ、今日の?」


レトが机の上の書類を指す。


「一部はな」


「わたしたちのもある?」


「ああ」


「ちゃんと、みんなのこと書いてある?」


「全員分ある」


「そっか」


それだけ聞くと、レトは満足した。


誰が一番だったのか。


自分がどれほど役立ったのか。


そんなことは尋ねない。


全員が帰った。


全員の仕事が記録された。


それが分かればよかった。


保温容器を空にすると、レトは机の右端へ置いた。


その手が戻るより先に、ジェレミーが薄い保温布を肩へ掛ける。


レトは首元まで引き上げ、身体を小さく丸めた。


「これ、あったかい」


「ああ」


「お兄さんも入る?」


「必要ない」


「半分あげるよ」


レトは布の端を広げようとした。


ジェレミーがその手を戻し、肩まで包み直す。


「お前が使え」


「じゃあ、くっつく」


レトはジェレミーの胸へ背中を押しつけた。


保温布よりも、そちらの方が温かいとでもいうように。


ほどなく、机上の通信端末が点灯した。


会議開始の通知だった。


ジェレミーはレトを膝へ乗せたまま、通信を接続する。


「映像は不要だ。始めろ」


複数の職員の声が、局長室へ流れた。


現地への支援内容。


監理局内部の装備補充。


関係機関へ提出する報告書の文面。


ジェレミーは順に聞き、必要な箇所だけを問い、修正を命じる。


判断は速い。


言葉に迷いがない。


レトを抱いていることなど、業務の支障にはならなかった。


レトはその声を聞きながら、ジェレミーの腕を両手で抱えている。


会議が進むにつれ、瞬きが少しずつ遅くなった。


それでも眠らずにいようとしているらしい。


目を閉じかけては、また開く。


ジェレミーは話しながら、レトの頭へ手を置いた。


淡緑の髪を一度、ゆっくり撫でる。


レトの肩から力が抜けた。


もう一度。


黒いリボンと、二つの青いキューブを避け、髪の流れに沿って手を動かす。


レトは目を閉じた。


会議の最中、ジェレミーの手が資料をめくるために一度離れた。


レトは薄く目を開ける。


何も言わなかった。


次の瞬間には、ジェレミーの手が戻り、同じように髪を撫でる。


レトはまた目を閉じた。


すべて分かっている。


言わなくても。


求めなくても。


会議は予定どおりに終了した。


「以上だ」


通信が切れる。


局長室が静かになった。


ジェレミーは次の書類を開こうとしたが、レトの指が制服の袖を掴んでいることに気づいた。


眠ってはいない。


「どうした」


レトは目を閉じたまま答えた。


「ちょっと、怖かった」


「そうか」


「お仕事してる時は、平気だったよ」


「平気である必要はない」


「でも、ちゃんと見ないといけなかったから」


「だから後にしたのか」


「うん」


怖いと思うこと。


帰りたいと思うこと。


ジェレミーの顔を見たいと思うこと。


任務の最中、それらをなくしたわけではない。


ただ、いったん後ろへ置いた。


帰ってから取りに行けばいいと思った。


レトはジェレミーの腕へ頬を寄せた。


「ここまで来たら、帰ってきたって思う」


ジェレミーは書類から視線を外した。


「監理局へ着いた時ではなく?」


「そこは帰還したところ」


レトは目を開ける。


エメラルドグリーンの瞳が、すぐ近くからジェレミーを見上げた。


「ここが、帰ってきたところ」


それ以上の説明はなかった。


けれど、ジェレミーには十分だった。


「そうか」


ただ受け止める。


レトは嬉しそうに笑い、身体をひねった。


保温布へ包まれたまま、ジェレミーの胸へ抱きつく。


「お兄さん」


「何だ」


「もう一回、ぎゅってして」


ジェレミーは両腕を回した。


傷へ触れず、それでも隙間が残らないように抱き寄せる。


レトは満足そうに息を吐いた。


「頭も」


ジェレミーの手が髪へ戻る。


「もっと」


もう一度。


「うん」


レトは目を閉じた。


今度は、もう開けようとしなかった。


「ここで寝ていい?」


「ああ」


返事を聞くより早く、レトはジェレミーの胸へ頬を預けた。


自室へ戻れとも。


仕事があるとも。


ジェレミーは言わない。


最初から、眠るまでここに置くつもりだった。


ジェレミーはレトを片腕で支え、空いた手で仕事へ戻る。


書類を読む。


承認する。


次の案件を開く。


その間も、一定の間隔でレトの髪を撫でる。


しばらくして、局長室の扉が静かに開いた。


副長が入ってくる。


腕には、新たな書類と端末。


眠っているレトを見ると、足音をさらに小さくした。


「緊急案件は一件です」


ジェレミーの手が届く位置へ、書類を置く。


レトを抱く腕を動かさなくて済む場所だった。


「食事は」


「目覚める時刻に合わせます」


「頼む」


副長は一度だけレトを見た。


包帯に巻かれた腕。


安心しきった寝顔。


ジェレミーの制服を掴んだ指。


何も言わず、局長室を出ていった。


扉が静かに閉まる。


ジェレミーは書類を確認し、必要な指示を入力する。


膝の上で、レトが小さく身じろぎした。


「……お兄さん」


眠りの中から確かめるような声だった。


ジェレミーは、すぐに答えた。


「いる」


制服を掴んでいた指から、力が抜ける。


レトの呼吸が、また深くなった。


ジェレミーはその頭を一度だけ撫でた。


「おかえり、レト」


眠っているはずのレトの唇が、僅かに動いた。


「……ただいま」


局長室には、まだいくつもの仕事が残っている。


次の任務も、いつか来る。


レトはまた、遠い場所へ飛んでいくだろう。


けれど、帰還記録に時刻が刻まれたあと。


医療班の検査が終わったあと。


最後に、この扉を勢いよく開ける。


そして、何も尋ねず飛び込める腕がある。


ちいさな彗星は、ジェレミーの胸へ頬を寄せたまま、静かに眠っていた。



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