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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【新版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の日々

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15/22

第15話-箱庭の娘たち概論

惑星監理局に配属される者は、例外なく優秀である。


少なくとも、普通の意味での新人はいない。


各惑星の行政機関、軍事組織、研究機関、医療機関、魔術技術局、外交調整室。


そこから選抜され、推薦され、審査され、時には引き抜かれてここへ来る。


若くとも実績があり、経験があり、自分の専門領域では、すでに一人前以上の評価を得ている者たちだ。


だが、惑星監理局では、それでも新人だった。


監理局で扱うものは、国家ではない。


惑星でもない。


時には、文明そのものですらない。


硝子玉の宇宙に存在する秩序。


その継続性。


そのために必要ならば、局員たちは惑星規模の災害、文明間戦争、神性存在の発生、魔術汚染、外部秘匿案件、そして分類不能の存在と向き合う。


だから新人研修は厳しい。


四日目。


研修予定表に記されていた講義名は、短かった。


箱庭の娘たち概論。



講義室は、通常区画にはなかった。


新人三十名は、監理班の職員に案内され、本庁舎の地下深くへ降りた。


そこからさらに認証を三つ通過し、魔力反応検査、記録媒体検査、通信遮断確認を受ける。


最後にたどり着いたのは、窓のない白い部屋だった。


椅子と机が整然と並んでいる。


壁面には投影装置。


天井には感知器。


床面には、多重術式の封印ラインが薄く走っていた。


完全隔離空間。


外部との通信は遮断され、内部で発生した音声、映像、魔力波形、思考補助端末のログまで、すべて持ち出しが禁止される。


新人たちは席についた。


講義開始時刻の一分前、前方の扉が開く。


入ってきたのは副長だった。


金髪の細身長身。


常に笑顔、あるいは薄い笑みを浮かべている男。


昨日までの研修では、穏やかで冗談も交える、余裕のある上官として振る舞っていた。


その日の副長も、口元にはいつもの薄い笑みを浮かべていた。


けれど、その笑みに温度はなかった。


「着席のままで結構です」


副長は教卓の前に立った。


「本日の研修は、箱庭の娘たち概論。惑星監理局に在籍する三名の特異存在について、基礎情報、接触規定、能力概要、ならびに最重要秘匿事項を共有します」


室内の空気が変わる。


「講義に入る前に、同意確認を行います」


壁面に文書が投影された。


記録禁止。


漏洩禁止。


講義内容を無断で複製、筆記、端末記録、魔術記憶補助、外部者への伝達、暗号化保存、私的符号化することを禁ずる。


外部流出の際は、記憶消去措置を行ったのち、監理局から懲戒処分が言い渡される。


また、この同意に応じない者は本研修を受けることができず、今後一切、箱庭の娘たちと接触する職務には就けない。


新人たちは黙って文面を読んだ。


厳しすぎる、という表情をした者はいなかった。


ここが惑星監理局である以上、機密研修があること自体は予想していた。


だが、記憶消去措置という言葉が正式文書に出た瞬間、誰もが理解する。


これは、危険物の扱いではない。


危険な情報の扱いだ。


「同意できない方は、今この場で退室してください。不利益はありますが、処分ではありません。適性外として、別職務に配置されます」


誰も立たなかった。


副長は、一人ずつへ視線を向けた。


確認のためではない。


覚えるための視線だった。


「全員、同意とみなします」


壁面の文書が消える。


代わりに、三つの名前が表示された。


レト。


ロジー。


エル。


「まず、皆さんの現時点での理解を確認します」


副長の声は静かだった。


「箱庭の娘たちが、なぜ惑星監理局内で生活していると思いますか」


すぐに手が挙がった。


軍務経験のある男だった。


「外部勢力による奪取、接触、利用を防ぐためです」


「正しい」


別の新人が続ける。


「彼女たち自身の安全確保。および、監理局による継続観測と精神的安定のため」


「正しい」


「戦力、情報能力、あるいは超常的能力を監理局の管理下で運用するため」


「それも正しい」


「社会的役割を与えることで、本人たちの自律性を維持するため」


「正しい」


副長は、すべてを肯定した。


新人たちの答えは浅くなかった。


誰も、箱庭の娘たちをただの保護対象とは考えていない。


惑星監理局に入る者が、施設内にいる特異存在を見て、かわいそうな子供たちだ、とだけ結論づけるはずがなかった。


危険性。


戦力価値。


秘匿価値。


心理的安定の必要性。


組織上の意味。


彼らは、そのすべてを考えていた。


副長は、そこで言った。


「すべて正しい」


新人たちは黙って副長を見る。


「ですが、その理解だけでは足りません」


室内の空気が、もう一段冷える。


「彼女たちは、管理対象ではありません」


誰も動かなかった。


「制御対象でもありません。正確には、我々が完全に管理し、完全に制御できる存在ではありません」


副長は、三つの名前を見た。


「レトさん、ロジーさん、エルさん。三名とも、それぞれの形で、我々人間の制御盤に収まる存在ではない」


少しだけ間を置く。


「では、なぜ彼女たちは監理局にいるのか」


誰も答えなかった。


「ここを、居場所にしてくれているからです」


その言葉だけが、白い講義室に残った。


「そして、彼女たちがここを居場所だと思い続けられること。それは情緒的配慮であると同時に、監理局の職務です」


副長の声は淡々としていた。


だからこそ、冗談ではないことが伝わった。


「ここから先の説明は、能力評価だけではありません。接触規定だけでもありません。あなたたちが、彼女たちと同じ施設で働くための前提です」


壁面に、分類名が表示された。


箱庭の娘たち。


「共通分類から説明します」



「箱庭の娘たち。閉ざされた硝子玉の宇宙内で発生、または確認された、人間型の魔力生命体を指す監理局内分類です」


「身体構造は人間に近く、血液、体温、痛覚、食欲、睡眠欲を有します。人格もあります。職務能力もあります。感情もあります」


そこで副長は、ほんの少し間を置いた。


「そして、彼女たちは幼体のまま成熟します」


新人の一人が、わずかに眉を動かした。


「肉体は少女の姿で安定し、一般的な人間のように成人体へ移行しません。ですが、これは精神が未熟なまま固定されるという意味ではありません」


「経験、知識、責任能力、職務能力は個体ごとに異なります。従って、幼い容姿のみを根拠に、庇護対象としてのみ扱うことを禁じます」


副長の声が、少しだけ硬くなる。


「同時に、職務能力のみを根拠に、大人としてのみ扱うことも禁じます」


新人たちは誰もメモを取らない。


取れない。


ただ聞き、覚えるしかなかった。


「この二つを間違えると、彼女たちを傷つけます。あるいは、あなたたち、ひいては我々の組織が死にます」


「万が一、三名が監理局へ敵対した場合――我々は敗北します」


室内が静まり返る。


副長は淡々と続けた。


「では、個別説明に入ります」



壁面に、レトの画像が映された。


淡緑の長い髪。


左側頭部で結ばれたワンサイドテール。


黒いリボンについた、二つの青いキューブ状の髪飾り。


身長百五十センチ。


映像の中のレトは、食堂でプリンを前にしていた。


スプーンを握りしめ、何かを大真面目に主張している。


音声はないが、表情だけで騒がしさが伝わる。


何人かの新人が、少しだけ緊張を緩めかけた。


秘匿情報研修で、この映像を見せられる意味を考え、すぐに表情を戻した者もいた。


副長は、それを見逃さなかった。


「レトさん。戦闘班所属。単騎、遊撃。出自は硝子の彗星。星間を流れていた硝子質の魔力が凝集し、人間型の生命体として発生しました」


壁面に、能力概要が表示される。


魔力性質――硝子質。青白い高熱を内包。


魔力造形――硝子細工状の物質形成。短剣群の生成、遠隔操作、破砕。


空間魔術――短距離転移、座標移動、局所的な空間硝子化。


熱操作――硝子内部への蓄熱、破砕時の熱放出、熱線としての指向性放射。


運用分類――単騎、遊撃、戦略級。


「レトさんの能力については、三名の中でも比較的多くの情報を取得できています」


副長が端末を操作する。


「出力、射程、精度、継続時間、魔力消費。いずれも完全ではありませんが、実戦運用に必要な範囲は継続的に測定されています」


「硝子質の魔力は、透明または半透明の物質として造形されます。レトさんが最も好んで用いる形状は短剣です」


「短剣は手に持つだけでなく、複数を同時に展開し、遠隔操作できます。飛翔、停止、軌道変更、再加速を個別に行い、必要に応じて任意の位置で破砕します」


「硝子の内部には、青白い高熱が封じられています。通常時は周囲へ無差別に放熱しません。砕けた瞬間、内部の熱と魔力を局所的に解放します」


「また、熱を硝子へ封じず、指向性を持つ熱線として瞬間的に放射することも可能です」


「空間魔術は、主として自身の機動、攻撃軌道の制御、敵の移動制限に使用されます。短距離転移に加え、局所空間を硝子質の固定領域へ変化させる、空間硝子化が確認されています」


表示が切り替わった。


実戦記録――大型魔力生命体討伐。


記録対象。


全長、約一キロメートル。


小惑星に似た岩石質の外殻を持つ、大型魔力生命体。


映像には、広い宇宙空間と、その中央を進む巨大な個体が映っていた。


その前方に、レトが一人で浮いている。


レトが展開した硝子短剣群が、外殻の亀裂と可動部へ分散して突き刺さる。


短剣の一部が意図的に砕かれた。


硝子の内部に封じられていた青白い高熱が放出され、岩石質の外殻を内側から加熱する。


熱膨張によって、外殻の亀裂が拡大した。


敵性個体が無数の岩片を射出する。


レトの姿が消えた。


短距離転移。


同時に、進路上の空間が半透明の硝子質へ変化する。


射出された岩片は硝子化した空間へ食い込み、速度を失った。


敵性個体の巨体も、部分的に固定された空間へ引っかかり、進行方向をずらされる。


拡大した外殻の亀裂へ、硝子短剣が集中する。


短剣が内部構造を切り開き、魔力中核を露出させた。


直後、一本の青白い熱線が走る。


熱線は巨大な個体の外殻から中核までを瞬間的に貫通した。


大型魔力生命体は、そのまま活動を停止した。


映像が静止する。


副長が言った。


「彼女は、最初から最大出力を使用していません」


「短剣を攻撃と観測の双方に用い、反応と内部構造を確認しています」


「空間魔術は回避だけでなく、射線、進路、敵の可動範囲を制限するために使用されています」


「硝子へ内包した熱は外殻を開くために使い、熱線は露出した中核のみを貫きました」


「複数の能力を順番に放ったのではありません。一つの討伐手順として組み立てています」


「対象、周辺環境、必要な破壊範囲を同時に判断し、最短の手順を選ぶ」


「大出力だけではなく、その出力を戦場で適切に運用する判断力を持つ」


「それが、レトさんが戦略級に分類される理由です」


副長が端末を操作する。


画面に、一つの文字が表示された。


戦略級。


「彼女の魔術出力は、人間の限界を遥かに凌駕しています。ですが、戦略級という分類は、単純な破壊規模だけを示すものではありません」


「条件次第では、彼女一人の判断と行動によって、戦場全体の状況が変わります」


映像が切り替わる。


監理局の訓練室。


有人連携時の安全評価。


青い味方ホログラムの間で、レトが敵性想定を制圧している。


重装甲型。


高機動型。


術式展開型。


そのすべてに対して、小さな身体一つで渡り合っていた。


途中で、硝子短剣の展開数が跳ね上がる。


透明な刃が、訓練室の天井近くまで広がった。


それは美しい。


そして、危険だった。


敵性想定の一体が大きくひしゃげる。


観測装置に過負荷警告が走る。


味方ホログラムの一つが座標を失い、膝をついた。


映像の中で、レトが大破した敵性想定を見つめていた。


次の瞬間、観測装置の下へ走る。


音声が入った。


『ごめんね! 痛かった!? ごめん、強くしすぎた!』


新人たちが、一瞬反応に困った。


副長は言う。


「観測装置に痛覚はありません」


誰も笑わなかった。


「レトさんも、それを理解しています。ですが、彼女は硝子の彗星から生まれました。無機物由来の出自を持ちます。そのため、物に対して、自分に近しいものという認知を残しています」


「人間社会での学習により、物は物であると理解していますが、困った時や緊張時、強い罪悪感を覚えた時には、物に語りかけることがあります」


映像の中で、レトは観測装置の保護カバーを撫でている。


ひしゃげた敵性想定にも、小さく頭を下げていた。


「これは演技ではありません。あざとさでもありません。彼女の認識の根幹に由来する振る舞いです。笑うなとは言いません。実際、私も耐えきれないことがあります」


新人たちの何人かが、思わず副長を見た。


副長は真顔だった。


「ですが、嘲笑は禁じます。同時に、幼児扱いして責任から外すことも禁じます」


「彼女は戦闘班員です。任務を担います。判断もします。失敗もします。褒め、叱り、守り、任せてください」


映像が止まる。


レトが、青白く光る硝子短剣を展開した姿で静止する。


「接し方の基本は三つ」


副長が指を一本立てた。


「第一に、出力ではなく人格を見ること。彼女は兵器ではありません」


二本目。


「第二に、幼さを理由に職務能力を軽んじないこと。任務の遂行能力に不信を持たないこと。彼女は局員です」


三本目。


「第三に、精神的安全を軽視しないこと。戦略級の魔術を持つ幼い心は、雑に扱っていいものではありません。彼女が安定して笑っていることは、監理局の安全保障にも関わります」


副長は、壁面の映像を戻した。


プリンを前にしたレト。


一キロメートル級の魔力生命体を討伐したレト。


観測装置に謝ったレト。


その三つが並ぶ。


「この三つのうち、どれか一つだけを本物だと思わないでください」


副長は言った。


「すべて、レトさんです」



次に映ったのは、ロジーだった。


ピンク髪のツインおさげ。


身長百三十六センチ。


頭上に浮かぶデバイス。


映像の中の彼女は、廊下の床に座り込み、きらきらしたシールとアクセサリーを並べていた。


ホログラム表には、


かわいい度。


きらきら係数。


並べた時の相性。


レト反応予測。


エル案件化しそうな危険度。


そうした項目が並んでいる。


「ロジーさん。情報班。アカシックレコード・オフライン所属」


副長が言った。


「出自に関する詳細は、本講義より上位の閲覧制限下にあります」


「共有できるのは、禁忌指定の魔道書を読了した結果、脳機能に重大な損傷を負ったという点までです」


「頭上のデバイスは、情報閲覧用の端末ではありません」


「損傷した脳機能を外部から補い、思考、発話、記憶、感覚、自己認識を同期させる、神経活動外部制御補助端末です」


「現在のロジーさんは、自身の脳とデバイスの双方によって、生命活動と人格の連続性を維持しています」


新人たちの視線が、映像の中のデバイスへ集まる。


ロジーは笑っている。


頭上の装置へ、かわいい顔の表示を浮かべながら、職員へアクセサリーを見せていた。


「デバイスを取り外す、停止させる、通信機器として回収する、といった行為は絶対に行わないでください」


副長の声が硬くなる。


「故障や異常を発見した場合も、本人へ触れさせずに回収しようとしてはいけません。医療班、情報班、監理班へ即時連絡してください」


「彼女の情報処理能力とは別に、監理局が完全には把握できていない魔術の存在が疑われています」


「ロジーさんは時折、本人にとって未知であったはずの事実を知っています」


「事前の閲覧、通信、観測、情報提供の痕跡が一切確認できない事例も複数あります」


「どこへ接続しているのか。何を情報として認識するのか。どの範囲まで到達できるのか。監理局にも分かっていません」


「新人である皆さんへ、推定されている全容を開示することもありません」


「重要なのは、ロジーさんに尋ねれば、隠された事実を都合よく得られると考えないことです」


「監理局は、彼女の能力を捜査や業務上の近道として安易に使用しません」


「人間社会で生きる以上、知ることができる事実であっても、暴いてはならないものがあると教えている最中です」


「他者の秘密、私生活、忘れられる権利、記録されない自由。それらを尊重することも、彼女が学んでいる社会性の一部です」


「また、この魔術を使用したと疑われる事案の直後には、頭上デバイスの処理負荷が著しく上昇します」


「思考遅延、認識同期の乱れ、神経制御の不安定化が確認されており、重篤化すれば生命維持にも影響します」


「そのため監理局は、ロジーさん本人の安全のためにも、魔術の使用を極力控えるよう継続的に指導しています」


副長は、新人たちを見渡した。


「彼女の力を便利な情報源として扱うことは、倫理上の問題であると同時に、彼女の生命を消費する行為になり得ます」


映像内で、職員がロジーへ話しかけた。


次の瞬間、空中に膨大な量のホログラムモニターが展開される。


彼女は床に座ったまま、片手でアクセサリーを分類し、もう片方で報告書、過去ログ、施設データ、星域記録を引き出していく。


その速度は、映像越しでも異常だった。


「魔術を使用しなくとも、業務能力は我々人間を遥かに凌ぎます」


副長は断言した。


「軽率な態度で、恐ろしいほどの情報を索引し、分類し、解決へ向かいます」


「本人は、自身の不可解な情報取得について『索引能力と記憶力が良いだけ』と言い張ることがありますが、その言葉を額面通りに受け取らないでください」


「ただし、疑うことと、本人を尋問することは違います。不審な情報取得があった場合は、ロジーさんを問い詰めず、情報班責任者または監理班へ報告してください」


映像の中で、ロジーは笑っている。


だが、ホログラムの中では、七十年以上前の移民記録、現行設備ログ、神性存在の兆候解析、職員の報告書修正履歴までが同時に整理されていた。


「ロジーさんに対して、容姿や振る舞いを根拠に、責任を与えないことを禁じます」


副長の声が少し重くなる。


「また、軽んじることを禁じます」


「彼女は弱い、と評価されることがあります。身体能力、継戦能力、直接出力の面では事実です。しかし、それを理由に彼女を小さく扱うなら、あなたは情報班の仕事を理解していません」


「ロジーさんは、監理局における記録と索引の中核です。彼女の判断は、多くの案件で初動を左右します」


「彼女がふざけた口調で言ったことが、市民の命を救ったこともあります。彼女が笑いながら指摘した一文が、惑星間紛争を未然に止めたこともあります」


映像が切り替わる。


夜の情報班。


ロジーが一人で端末の前に座っている。


騒がしさはない。


頭上のデバイスだけが淡く光り、彼女は無数の記録の海を見上げていた。


さらに、短いログが表示される。


応答遅延、〇・七秒。


新人の数名が、その数字を見た。


小さい。


日常会話なら、誤差と呼べる数字。


だが、副長は、そこで少しだけ声を低くした。


「この数字を、軽く見ないでください」


室内が静かになる。


「ロジーさんにとって、遅れることは単なる不便ではありません」


「思考、発話、記録、自己認識。その同期が崩れることは、彼女にとって、自分が自分から離れる感覚に近い」


「彼女はそれを、明るさで隠すことがあります」


壁面に別の映像が映る。


ロジーが笑っている。


しかし、端末入力が一拍遅れている。


話題へ反応する声が、いつもよりわずかに遅い。


本人は笑ってごまかそうとしているが、頭上デバイスの光だけが淡く不規則に揺れていた。


「接し方の基本」


副長が言う。


「第一に、彼女の騒がしさを理由に、発言の価値を下げないこと」


指が二本目を示す。


「第二に、彼女の業務能力を理由に、休息や保護を不要とみなさないこと」


三本目。


「第三に、彼女が見たがる、記録したがる理由を、単なる趣味としてだけ片づけないこと。ただし、プライバシーの線引きはしっかりと指摘すること」


新人たちは黙っていた。


子供のように騒ぐ少女。


大人以上の知識を持つ情報班員。


自分でも制御できないかもしれない魔術。


そして、思考と生命を支える頭上のデバイス。


「ロジーさんは、自分の精神的な弱さを隠します。明るさで覆います。皆さんがそれに乗ることは構いません。むしろ、彼女はそれを望むことが多い」


「ですが、見ないふりをすることと、見守ることは違います」


副長は端末を閉じた。


「そこを間違えないように」



三人目。


壁面に、エルが映った。


白髪のボブ。


毛先に淡いピンク。


身長百三十九センチ。


ふわふわと床から少し浮きながら、廊下を歩く職員へ小さな箱を差し出している。


映像だけを見れば、彼女もまた、小さな少女だった。


少し不思議で。


少し眠そうで。


何を考えているのか、分かりにくい少女。


副長は、しばらく何も言わなかった。


沈黙が長い。


新人たちは、その沈黙で察した。


ここから先が、本題なのだと。


「エルさん」


副長は言った。


「分類上は、箱庭の娘たちに含まれます」


分類上は。


その言葉だけが、室内に残った。


副長は教卓の上に置かれた黒い認証板へ、右手をかざした。


直後、床面の封印ラインが一斉に光った。


白かった講義室の壁が、内側から黒い膜に覆われていく。


天井の感知器が沈黙し、代わりに別系統の赤い認証灯が点る。


投影装置の周囲にあった通常術式が閉じ、さらに深い層に組まれた遮断術式が起動した。


音が消えた。


外部を遮断するだけではない。


内部で発生した情報の形そのものを、閉じ込めるための隔離だった。


新人たちの手元にある端末が、一斉に黒く落ちる。


思考補助の補助線すら切断される。


記録媒体。


魔術記憶補助。


個人識別の副次ログ。


衣服に仕込まれた無意識の生命反応記録。


すべてが停止した。


「これより、本講義室の隔離深度を最大に引き上げます」


副長の声だけが、部屋の中に残った。


「現在、この部屋は監理局内規定における完全隔離状態です。外部通信、外部観測、内部記録、補助記憶、個人端末、通信型魔術、記憶補強術式、音声複製、視覚複製、魔力波形複写。すべて遮断されています」


新人たちは動かなかった。


優秀だからこそ分かる。


これは、人間を守るための隔離ではない。


情報を、世界から守るための隔離だ。


「今から開示する情報は、本研修の中でも最高位の秘匿事項です」


副長は言った。


「あなたたちに対する規定を読み上げます」


壁面表示が黒に変わる。


白い文字が並んだ。


高位秘匿情報取扱規定。


真名情報保持規定。


概念誘導防止規定。


外部流出防止規定。


違反時即時懲戒規定。


副長は淡々と読み上げる。


「第一。今から開示される情報を、許可なく記録、複製、筆記、暗号化、符号化、比喩化、図案化、歌唱化、創作化、口伝化、あるいは他者へ伝達することを禁じます」


「第二。今から開示される情報を、本人への直接確認、雑談、推測、冗談、試験、反応観察の材料にすることを禁じます」


「第三。今から開示される情報に基づき、対象者の存在定義、能力、名前、出自、世界構造について本人に質問することを禁じます」


「第四。今から開示される情報を、個人の信仰、崇拝、嫌悪、恐怖、研究欲、政治利用、戦力評価、交渉材料として扱うことを禁じます」


「第五。今から開示される情報の理解が困難である場合、自己判断による再解釈を禁じます。必ず監理班の許可者に確認してください」


「第六。違反の疑いが発生した場合、当該職員は即時接触停止、通信遮断、身柄確保、隔離面談、記憶確認、職務権限凍結の対象となります」


「第七。違反が確認された場合、記憶消去、職務剥奪、配置解除、監査委員会移送、外部接触禁止、長期拘束、または殺害処分を含む懲戒が行われます」


殺害処分。


その言葉が、講義室の床に落ちたように重かった。


新人の一人が、わずかに息を呑む。


惑星監理局が、必要ならそういう処置を取る組織だということを、彼らは理屈では知っていた。


だが、研修室で、講義の前提としてその言葉が読み上げられる重さは別だった。


副長は続けた。


「第八。懲戒の執行可否、程度、方法は、対象者の功績、階級、所属、本人意思により軽減されません」


「第九。違反が対象者本人、監理局、または硝子玉の宇宙に重大な損害を与える可能性がある場合、懲戒は即時執行されます」


「第十。この規定は脅しではありません。今から開示する情報を、あなたたち自身から守るための最低限の手続きです」


壁面の文字が消える。


副長は新人たちを見渡した。


「退室の機会はありません」


誰も動かない。


「今この部屋にいる以上、あなたたちは聞く義務があります。そして、聞いた後は守る義務があります」


副長は、ようやくエルの映像へ視線を戻した。


「では、説明を始めます」



「エルさんの力は、魔法です」


副長が告げた。


講義室に、ごく小さなざわめきが起こった。


魔法。


この世界では、創作や伝承の中で使われる言葉だった。


古い童話。


歴史以前を扱う劇。


子供向けの冒険譚。


術式を知らなかった時代の人間が、理解できない魔術へ与えた呼び名。


正式な学術用語でも、行政用語でも、現代の魔術分類でもない。


副長は、その反応を待った。


「その反応で正しい」


壁面に、二つの表題が表示される。


魔術。


魔法。


「まず、魔術を確認します」


「我々が扱う魔術とは、術式を介して魔力を制御し、定められた現象を発生させる体系化された技術です」


「発火、治癒、通信、身体強化、物質化、空間固定、精神作用。用途は異なっても、そこには術式があります」


「座標。対象。出力。持続時間。解除条件。魔力供給。現象が成立するまでの手順」


「魔術には、過程があります」


新人たちは黙って聞く。


それは彼らにとって、基礎中の基礎だった。


「過程があるからこそ、計測できます。解析できます。失敗した位置を特定できます。途中で停止し、条件を書き換え、同じ現象を再現できます」


副長は壁面へ、先ほどのレトの戦闘記録を短く映した。


硝子短剣。


空間硝子化。


青白い熱線。


「レトさんの能力は規格外ですが、基本的には魔術として観測できます」


「硝子短剣を何本展開したか。どれだけの熱を封じたか。どの空間へ干渉したか。何が原因で制御を外れたか」


「強すぎる、速すぎる、人間と並ぶためには調整が必要である。そう判断できる」


映像が消える。


壁面には、魔法という文字だけが残った。


「魔法には、術式がありません」


副長は言った。


「定められた手順へ魔力を流し、現象を起こす力ではない」


「魔法は、想像した結果を現実へ発現させます」


「物を作るのではなく、物が存在する結果へ届く」


「傷を順番に治すのではなく、傷が治っている結果へ届く」


「対象を移動させるのではなく、対象が別の場所にいる結果へ届く」


「現象の過程を実行するのではありません」


「現実そのものが、結果に合わせて書き換わります」


数名の新人が、表情を変えなかった。


だが、その視線だけが鋭くなる。


伝承や歴史以前の記録に詳しい者ならば、その説明が何を指しているのか、思い当たるものがあった。


現実と精神の境界を持たず。


想像を世界へ顕現させ。


名前によって在り方を定められたとされる存在。


ただし、副長はまだ、その名を口にしなかった。


壁面に、エルの日常記録が映る。


中庭。


エルが手のひらの上へ、小さな星を浮かべている。


次の記録。


食堂の朝。


エルがテーブルの上に星形の光を置いたことで、窓から差し込む光が柔らかく変わり、パンの湯気が金色に輝いている。


さらに別の記録。


皿の上のプリン。


エルがスプーンを動かすたび、プリンが崩れず、最後の一口まで綺麗な形で掬い取られていく。


「これが、小規模かつ日常的な魔法です」


副長は言った。


「朝の印象を少しだけ明るくする」


「小さな星をこぼす」


「プリンを最後まで美しく食べられるようにする」


「術式は確認されていません。魔力経路も、現象発生の中間段階も存在しません」


「エルさんがそうしたいと考え、そうなった結果だけが現れています」


映像だけを見れば、かわいらしいものだった。


便利で。


穏やかで。


少し不思議なだけの力。


副長が表示を切り替えた。


魔法行使による解決成功事案。


「一件だけ、魔法によって人命救助に成功した事案を紹介します」


記録に映ったのは、火山災害下の集落だった。


噴火に伴う地盤崩壊によって、避難所となっていた公共施設が周囲から孤立。


避難路はすべて失われ、救助部隊の到着前に火砕流が接近していた。


施設内には、避難済みの住民百九十二名。


全員が、そこからの退避を望んでいた。


エルは一般向け報道によって状況を知った。


監理局へ報告せず、許可を得ることなく現地へ転移。


避難所の建物と内部の住民を、二百キロメートル離れた救援拠点の空き地へ、そのまま移した。


建物は基礎部分から切り離されていたが、住民に負傷者は出なかった。


医療設備、備蓄、名簿、通信機器も建物内に残り、救援活動はそのまま継続された。


結果として、百九十二名は全員救助された。


「この事案における魔法行使は、結果だけを評価すれば成功です」


副長は言った。


「対象者全員が退避を望んでいた。対象範囲が一つの建物にまとまっていた。転移先に十分な空間があった。建物内外に、移動を望まない者はいなかった」


「偶然にも、エルさんの認識と、現場にいた全員の利益が一致しました」


新人たちは救援拠点へ出現した建物の映像を見た。


避難者が運び出されていく。


救助隊員が驚きながらも対応を始める。


泣きながら家族を抱き締める者。


空を見上げる者。


それは、紛れもなく成功だった。


「ただし、エルさんは独断で現地へ向かっています」


「転移先の安全確認も、対象者の個別確認も、建物構造の評価も行っていません」


「百九十二名が助かったのは、魔法の運用が適切だったからではありません」


副長は淡々と言った。


「その時に限って、結果が正しかっただけです」


そこで、軍務経験のある新人が手を挙げた。


「質問を」


「どうぞ」


「今の事案では、既存の救助手段では間に合わなかった百九十二名が救われています」


「そうです」


「魔法が結果を直接発現させる力であり、エルさんが今のような大規模転移も行えるのであれば、限定的な運用でも、監理局の問題解決能力を大きく向上させられるのではありませんか」


男は慎重に言葉を選ぶ。


「災害対応だけではありません」


「戦争。神性存在。広域魔術汚染。救助の時間が足りず、通常の手順では犠牲を避けられない状況」


「そうした場面で、魔法によって望ましい結果へ直接到達できるなら、利用しないことにも相応の理由が必要だと思います」


誰も男を責めなかった。


合理的な質問だった。


小さな魔法は無害に見えた。


大きな魔法は、百九十二人を救っていた。


副長は、少しだけ沈黙した。


「そうですね」


副長は認めた。


「魔法の利点だけを評価すれば、その結論になります」


「術式構築を省ける。準備時間を省ける。物理的距離を無視できる。現行技術では不可能な規模へ干渉できる」


「先ほどの救助事案では、それらすべてが人命救助へ働きました」


副長は壁面の映像を消した。


「では、戦争を止める魔法を例に考えましょう」


新たな画面に、二つの国家と戦線図が表示される。


「エルさんが、戦争は人間を不幸にすると認識したとします」


「そして、人間の幸せのために、戦争を止める必要があると判断した」


「この時、魔法がどの結果へ到達するかを、監理局は保証できません」


戦線図の上に、複数の可能性が表示される。


戦争が起きなかったことになる。


戦争を行う者が存在しなくなる。


兵器が別の物へ変質する。


戦場そのものが別の環境へ置換される。


「第一の可能性」


副長は、戦争開始以前の時系列を表示した。


「戦争が起きなかったことになる」


「これは停戦ではありません。過去への干渉です」


「開戦を決定した会議が消えるのか。開戦理由となった事件が消えるのか。事件を起こした者が消えるのか。国家間の対立そのものが消えるのか」


「戦争によって成立した政権。戦争から逃れて移住した人々。戦場で出会った者たち。戦死によって変化した家族。戦争を契機に開発された技術。締結された条約。生まれた子供」


「現在は、その過去の上に成立しています」


「過去の一事象を消した時、現在を構成する因果関係が、どこまで書き換わるのか分かりません」


時系列の後半が揺らぐ。


都市が消える。


人口記録が変わる。


存在していた人物の欄が空白になる。


別の人物が、存在しなかったことになる。


「現在が別の現在へ置き換わる可能性があります」


「その場合、我々は書き換え前の世界を認識できるのか」


「元の現在に存在した人間は、変更後も同じ人格を保つのか」


「矛盾した因果が、どのように処理されるのか」


「監理局は知りません」


次の可能性が表示される。


戦争を行う者が存在しなくなる。


「第二の可能性」


「戦争を起こしている人間を消す」


「指導者だけか。兵士も含むのか。兵器を製造した者はどうか。補給に関わった者はどうか。戦争を支持した市民はどうか」


「エルさんが『戦争を構成するもの』と認識した範囲が、そのまま対象になり得ます」


戦線図から、人の表示が一つずつ消える。


最初は兵士。


次に指揮官。


工場労働者。


輸送員。


行政官。


市民。


「殺害されるとは限りません」


副長は言った。


「そもそも存在しなかったことになる可能性もあります」


「別の生物や物へ置き換えられる可能性もある」


次の表示。


戦場を埋めていた兵器が、色鮮やかな玩具へ変わる。


戦車が丸い乗り物になる。


砲塔の代わりに花が咲く。


銃器が硝子細工やぬいぐるみに変化する。


「兵器が人間を傷つけない、かわいらしい玩具へ変わる」


「戦場が、人間が争う気を失うほど美しい花畑へ置き換わる」


「一見すれば平和です」


「ですが、兵器内部にいた人間はどうなるのか。地下施設はどう扱われるのか。土地の生態系は維持されるのか。戦場の地下に残る遺体や不発弾、資源、生活基盤はどうなるのか」


「花畑になった土地で、元の国家や住民は生活を続けられるのか」


「魔法は、我々が必要だと考えた手順を実行してくれるわけではありません」


副長は、すべての可能性を消した。


「戦争が止まった、という結果へ届きます」


「何を消し、何を作り、どの過去と現在を接続して、その結果を成立させるのか」


「途中経過がありません」


「観測も、停止も、修正もできません」


「結果が発現した後で、それが取り返しのつかない改変だったと判明しても、元の世界へ戻せる保証はない」


副長は新人を見た。


「魔術の失敗は、事故として発生します」


「魔法の失敗は、失敗した世界そのものが完成する可能性があります」


室内が静まり返る。


「だから我々は、魔法を単なる上位技術として扱いません」


「便利だから使うという発想ではなく、現実の不可逆な改変が本当に必要なのかを判断する」


「そして原則として、必要にしない」


副長は少しだけ声を落とした。


「先ほどの百九十二名は救われました」


「しかし、似た状況で次も成功するという保証にはなりません」


「成功事例は、再現可能性の証明ではない」


「結果的に正しかった一度の独断を、運用方法へ昇格させてはいけません」


質問した男は、しばらく黙っていた。


やがて、小さく頷く。


「理解しました」


「完全に理解する必要はありません」


副長は答えた。


「安易に使える力ではないと理解してください」



副長は、壁面へ新しい認証表示を出した。


これまで隠されていた文書区分が開く。


旧世代関連情報。


何人かの新人は、驚かなかった。


魔法の説明を聞いた段階で、すでに察していた者たちだった。


一方で、初めてその文字を見た者は、わずかに息を止めた。


「ここから、エルさんの存在分類を開示します」


副長は言った。


「エルさんは、旧世代です」


旧世代。


歴史以前の記録に残る存在。


現行宇宙の法則が成立する以前から存在したとされるもの。


多くの人間にとっては、神話や伝承に近い名称だった。


「旧世代という呼称は、人間側が用いる便宜上の分類です」


「監理局は、彼らが同一の生物種であるとは断定していません」


「共通する肉体構造、発生過程、生殖、生態、個体数、起源。その大半は不明です」


「旧世代という呼称でまとめられているのは、現行宇宙より古い時間を知ること」


「現実と精神の境界が、人間のように分離していないこと」


「想像や自己認識を、直接現実へ発現させること」


「そして、名前が存在そのものとして作用すること」


壁面に、人間と旧世代を比較した簡略図が表示される。


人間。


肉体。


精神。


名前。


能力。


世界。


それぞれが別の項目として分けられている。


旧世代。


中央に、名前。


その周囲に、精神、肉体、現実、能力、願い、存在が重なっている。


「人間にとって、名前は個体を呼び分けるためのものです」


「旧世代にとって、名前は呼称ではありません」


「何であるか」


「何をする存在か」


「何を可能とするか」


「どのように世界へ触れるか」


「そのすべてを含む、存在定義です」


「旧世代は、名前が意味する力を持ちます」


「反対に、名前が意味しないものにはなれません」


「能力を選ぶのではありません。存在していること自体が、名前の意味を世界へ表します」


新人の一人が、眉間へ手を当てた。


名前が能力を持つのではない。


名前と能力と存在が、分かれていない。


人間の認識へ当てはめるほど、理解が歪む。


「旧世代の名前を否定することは、単なる侮辱ではありません」


副長は続ける。


「存在定義そのものを否定する行為になり得ます」


「旧世代が、自らの名前から完全に外れることも同様です」


「名前に逆らい続けることは、旧世代にとって自己の消滅へ近づく行為だと推定されています」


壁面に、古い宇宙図が表示された。


現在の星図ではない。


法則の安定していない、混沌とした宇宙。


境界の曖昧な空間。


物質と精神が混ざり合い、生命が安定して存在できない領域。


「監理局が確保している旧記録、旧世代由来の遺物、エルさん本人の証言、ならびに少数の直接接触記録から、次のことが確認、または強く推定されています」


「現行宇宙が安定する以前、宇宙は現在ほど生命に適した環境ではありませんでした」


「大半の旧世代は、人間が生きられるよう、混沌としていた宇宙へ法則、秩序、環境を与えた」


「その後、彼らの多くは宇宙から立ち去りました」


「監理局は、その行為を人間への無関心や放棄とは評価していません」


「人間が自律して生きられる場所を整え、その場所を人間へ明け渡した可能性が高いと見ています」


副長の声は淡々としている。


「旧世代の多くは、人間を、混沌の宇宙に生まれた子供に近い存在として見ていた形跡があります」


「ただし、誤解しないでください」


「これは、旧世代が人間の倫理に従う、優しい保護者だったという意味ではありません」


古い宇宙図の上に、一つの名前が置かれる。


その名前から、世界へ現象が広がっていく。


「旧世代は、人間を愛していたとしても、まず自らの名前に従います」


「人間を守るという判断より先に、名前が意味することを行う」


「人間の幸福を願っていても、その方法が人間の権利、同意、倫理、感情と一致するとは限らない」


「旧世代の愛情や保護意識は、人間から見れば災害、侵入、改変として現れることがあります」


副長はそこで一度、表示を止めた。


「監理局が旧世代について把握しているのは、ここまでです」


「彼らが現在どれほど残っているのか」


「どこへ立ち去ったのか」


「現実の宇宙の外側に存在するのか」


「消滅した者と、生存している者をどう区別するのか」


「監理局は知りません」


「我々は旧世代を理解しているのではありません」


副長は言った。


「観測された性質を、人間の言葉へ置き換えているだけです」


壁面に、文字列が表示された。


elkore_felico


室内の空気が止まった。


「エルさんの本当の名前です」


「意味は、本当の幸せ」


「エルさんは、本当の幸せという名前を持つ旧世代です」


副長は続ける。


「そして、硝子玉の宇宙の創造者です」


誰も動かなかった。


「我々が生きる硝子玉の宇宙は、エルさんの内側にあります」


「人間の言葉へ置き換えるならば、エルさんの脳内、または精神内部に存在する宇宙です」


新人の一人が、机の端を掴んだ。


別の一人が、無意識に天井を見た。


白い講義室。


その外にある監理局。


その外に広がる惑星と星。


文明。


歴史。


人間。


そのすべてが、小柄な少女の内側にある。


「ただし、この宇宙に生きる人間は、エルさんが動かす人形ではありません」


副長は言った。


「自律した他者です」


「エルさんが、この宇宙を完全に自身の思い通りへ変えないのは、そこに自分とは異なる意思が必要だからです」


「生物の営みが失われれば、エルさんは死に、硝子玉の宇宙も消滅します」


「エルさんには、人間が必要です」


「従順な構成物としてではありません」


「自分の思い通りにならない他者として必要です」


壁面に、監理局の日常が映る。


食堂。


働く職員。


言い争う者。


笑う者。


失敗して叱られる者。


廊下を走って止められるレト。


記録を取りすぎて注意されるロジー。


中庭で、職員の反応を見ながら魔法アイテムを作るエル。


「だからこそ、エルさんの魔法と、エルさんが求めるものは、常に一致するとは限りません」


「本当の幸せを実現する力を持ちながら、すべてを思い通りにすれば、自身に必要な他者を失う」


「この矛盾の中で、エルさんは人間と暮らしています」



壁面に、古い監理局資料が表示された。


「次に、魔法の危険な行使事例を二件開示します」


過去事案一。人員代替未遂事案。


記録年代は、エルが現在ほど人間の言葉と感情を理解していなかった時期。


任務に失敗した職員が、強い自責と自暴自棄に陥り、居室で休養措置を受けていた。


当時のエルには、自室待機が命じられていた。


しかし、エルは職員の強い願望を察知し、許可なく居室へ転移した。


職員は、接触したエルの前で発言した。


『もう、消えてなくなりたい』


エルはそれを、苦痛を抱えて生きる人間からの、明確な幸福への願いとして受け取った。


直後、職員の身体表面が柔らかな布地へ変化し、内部組織が綿状物質へ置換され始めた。


エルは職員本人を、苦痛も責任も失敗も感じない、大きなウサギのぬいぐるみへ差し替えようとしていた。


周辺職員が発言の意図を説明し、エルが認識を修正したことで、完全な差し替えは回避された。


職員の肉体は復元されたが、一部感覚の回復には長期治療を要した。


「エルさんは、職員を傷つけようとしたのではありません」


副長は言った。


「職員の願いを叶え、その苦しみを終わらせようとしました」


「その結果、人間を、人間ではないものへ変えかけました」


表示が切り替わる。


過去事案二。惑星人口一括転移未遂事案。


大規模な地殻変動と大気災害が同時発生し、複数都市が孤立していた。


エルは一般向け報道によって災害を知り、監理局の許可を得ず現地へ転移した。


現地では、数億人分の恐怖、悲鳴、祈り、救助要請が同時に発生していた。


当時のエルは、人間一人ひとりを、独立した個人として十分に認識していなかった。


個々の人間ではなく、惑星上に存在する『人間』という一つの枠として捉えていた。


異なる願望を持つ数億人の声を、一つの人間が発する複数の願望のように処理した。


最も多く確認された願望は、


『ここから逃げたい』


だった。


エルは、それを人間全体の願いと判断した。


惑星上の全人口を、一括して惑星外へ転移させようとした。


救助活動中の者。


移動できない者。


現地へ残ることを選んだ者。


災害地域から遠く離れ、日常生活を続けていた者。


それらは区別されていなかった。


全人口の存在座標が同時に揺らぎ始めた段階で、ジェレミーがエルへ接触した。


『それは全員の願いではない』


そう告げられ、エルが前提認識を失ったことで、転移は実行直前に停止した。


「現在のエルさんは、人間が一つではなく、一人ずつ異なる存在であると学んでいます」


「ですが、魔法が願望へ届き得る範囲そのものは、当時から変わっていません」


「余談ですが、エルさんが転移させようとしていた座標を特定する試みが行われた結果」


「この世のどこでも無いことが確認されました。 エルさんの証言と我々の推測に過ぎませんが、なにも存在しない世界を転移先として創造したと思われます」


「エルさんは、なにも無ければ、何も起こらないと考えたと証言しました」


そこに送られた人間がどうなるかは、三十人の優秀な頭脳でも答えが見つからなかった。


小さな星。


百九十二名を救った避難所。


大きなウサギのぬいぐるみへ変えられかけた職員。


存在座標を揺らされた惑星出身者。


そのすべてが、魔法という同一の力の発露だった。



副長は事案記録を閉じた。


壁面へ、現在のエルの姿が映る。


中庭の芝生へ座り、職員が作業する様子を眺めている。


「最後に、エルさん本人の性格と思考について説明します」


「危険事案だけを見て、彼女を善悪の判断ができない存在と結論づけないでください」


「反対に、人間が好きだから安全だとも考えないでください」


副長は言った。


「エルさんは、人間が好きです」


「人間の生活、感情、選択、失敗、食事、遊び、会話、関係の変化に、強い興味と愛着を持っています」


映像の中で、エルは職員が修理している機械を見ている。


機械ではなく、修理する職員の手元と表情を見ていた。


「ただし、人間の心を、人間と同じ方法では理解していません」


「エルさんは、共感してから理解するというより、観察し、記憶し、規則を見つけることで理解しようとします」


「人が笑ったから、これは楽しい」


「人が大切にしたから、これは壊してはいけない」


「人が悲しみながらも手放さなかったから、悲しみは消せばよいものではない」


「そうして、一つずつ学んでいます」


壁面に、古いエルの記録と、現在のエルの記録が並ぶ。


古い記録。


人間を一つの枠として見ていた頃。


現在の記録。


職員を一人ずつ名前で呼び、誰が何を好み、何を嫌がるかを確かめている。


「かつてのエルさんは、人間という存在を、一つの大きな単位として認識する傾向がありました」


「現在は、人間が一人ずつ異なることを理解しています」


「同じ出来事でも、嬉しい人と悲しい人がいる」


「同じ言葉でも、本心から言う人と、苦しさから口にする人がいる」


「全員に共通する幸せは、簡単には決められない」


「完全に理解したわけではありません」


「ですが、理解できないことを認識し、確認しようとしています」


副長は表示を切り替える。


エルが、職員へ何かを差し出している。


職員が受け取る前に、エルは一度だけ聞いていた。


『これ、触っていい?』


「現在のエルさんの成長は、魔法を強くする方向にはありません」


「すでに十分すぎるほど強い」


「教育と訓練の中心は、魔法を使わない判断です」


「幸せを叶える前に、それを誰の幸せと考えたのかを確認する」


「本人が望んでいるのかを聞く」


「人間の内面を直接変えない」


「痛み、恐怖、悲しみ、失敗、後悔、喪失を、勝手に消さない」


「過去や未来を、幸福の名で編纂しない」


「反論できること」


「途中で止められること」


「可能な限り元へ戻せること」


「記録し、報告し、他者の判断を受け入れること」


「それらを学んでいます」


映像に、訓練記録が映る。


怖がっている職員。


エルは恐怖そのものを消さず、職員の立っている床だけを動かし、安全な位置へ移した。


『怖い、まだある?』


『あります』


『よかった』


「これは、エルさんにとって重要な成功です」


「怖がっている人間を、怖がっている人間のまま安全にした」


「人間の中身を変えるのではなく、人間の外側へある危険を変えた」


「幸せにしたのではありません」


「人間が自分の感情を持ったまま、生き続けられる状況を作りました」


副長は少しだけ間を置いた。


「エルさんは、感情が薄いわけではありません」


「表情や声の変化が小さく、人間の言葉へ思考を移す際に時間がかかるだけです」


「興味を持ちます」


「喜びます」


「寂しがります」


「人間が苦しめば、助けたいと考えます」


「レトさんとロジーさんを大切にしています」


「かわいいものを好み、魔法アイテムを作り、それを人間が使った時の反応を観察します」


「遊びであると同時に、研究であり、交流でもあります」


映像の中で、エルが小さな硝子の鳥を職員へ渡した。


職員が笑う。


エルの表情はほとんど変わらない。


だが、鳥の羽だけが、少し嬉しそうに光った。


「エルさんの危険性は、悪意から生じるものではありません」


「人間への無関心からでもありません」


「むしろ、人間を好きで、幸せにしたいから生じます」


副長は新人たちを見渡した。


「旧世代は、性格より先に名前があります」


「エルさんも同じです」


「人間を愛している」


「人間と暮らしたい」


「一人ずつ理解したい」


「それでも、最も深い場所では、本当の幸せという名前が先に世界へ触れる」


「だから我々は、彼女の善意だけに安全を預けません」


「同時に、危険性だけを見て、彼女の人格を否定することもしません」


副長の声は穏やかだった。


「エルさんを神として扱わないでください」


「兵器としても扱わないでください」


「人間の子供としてのみ扱うことも禁じます」


「彼女はエルさんです」


「分からないことを分からないと言いながら、人間を知ろうとしている一人の存在です」


壁面に、三人の姿が並ぶ。


レト。


ロジー。


エル。


「惑星監理局は、エルさんを管理しているわけではありません」


「正確には、管理できません」


「同じことは、程度の差こそあれ、レトさんにも、ロジーさんにも言えます」


「本来、我々の監理を抜け出し、すべてを破壊するほどの力を持っています」


副長は、三つの名前を見た。


「しかし、彼女たちは、ここを居場所にしてくれています」


声が、少しだけ柔らかくなる。


「レトさんが食堂でプリンを食べること」


「ロジーさんが騒がしく記録すること」


「エルさんが中庭で何かを作り、職員へ見せに来ること」


「彼女たちが叱られても戻ってくること。名前を呼ばれて振り向くこと。失敗を報告すること。助けを求めること」


副長は新人たちを見渡した。


「それらは単なる日常ではありません。監理局の安全保障です」


誰も笑わなかった。


「彼女たちとどう接するか。そこには感情が入ります。好意も、心配も、愛着も、時には怒りも入ります」


「ですが、それを職務から切り離さないでください」


副長の声は、再び硬くなった。


「情を持つことは、規律を失うことではありません。情を理由に規定を破ることは許されません」


「反対に、規律を理由に、彼女たちを物として扱うことも許されません」


新人たちは黙って聞いていた。


「ここでは、正しい判断だけでは足りない場合があります」


副長は言った。


「大切にすることも、職務です」



壁面に、十の規定が表示された。


「エルさんに関する接触規定をまとめます」


副長は言った。


「第一。エルさんに対し、本人の許可なく、真名、存在定義、創造者性に関する質問を行うことを禁じます」


「第二。エルさんに対し、魔法行使を直接、または間接に誘導する発言を禁じます。これには『やればいい』『使えばいい』『全員を救えばいい』『全員を幸せにすればいい』等の抽象的誘導を含みます」


「第三。エルさんの前で、個人の感情を全体の幸福として断定することを禁じます」


「第四。エルさんの前で『幸せ』という語を用いる場合、個人、状況、同意、過程、責任の所在を曖昧にしてはなりません」


「第五。エルさんから『それは幸せ?』または類似する問いを受けた場合、応答者は即答を避け、必要に応じて局長、副長、医療班、精神保護担当、または許可された職員へ引き継ぐこと」


「第六。エルさんの真名を否定、改変、翻訳し直す、愛称化する、揶揄する、意味を軽視する、または信仰対象として扱うことを禁じます」


「第七。エルさんが生成した未検査物を、検査前に使用、持ち出し、複製、解析、分解、または他者へ譲渡することを禁じます」


「第八。エルさんに対し、恐怖、崇拝、過剰な庇護、過剰な距離取りを示す態度を禁じます。通常接触を維持し、ただし無知による不用意な接触を避けること」


「第九。エルさんに関する本講義以降の情報は、段階開示制とする。閲覧権限を持たない職員、外部協力者、一般局員、退職予定者への共有を禁じます」


「第十。上記規定違反が疑われる場合、当該職員は即時接触停止、通信遮断、隔離面談、記憶確認、権限停止の対象となります。違反内容に応じ、記憶消去、配置解除、監査委員会への移送、懲戒審査、または即時懲戒が行われます」


新人たちは、その規定の意味を理解できた。


エルに尋ねてはいけないこと。


エルに言わせてはいけないこと。


エルの前で、軽く扱ってはいけない言葉。


それは全部、現実の安全に関わっている。



壁面に、エルの台詞が表示された。


それは幸せ?


「エルさんと接する際、最も警戒すべき問いです」


副長は言った。


「先ほど説明した通り、彼女の名前は本当の幸せです。つまり、この問いは単なる雑談ではありません」


「彼女自身の存在定義に近い場所から発せられる問いです」


副長の声は穏やかだった。


「従って、彼女が『それは幸せ?』と問うた時、安易に肯定してはいけません。安易に否定してもいけません」


「彼女の名前に触れる問いです。この問いへの回答は、彼女が何を幸せと認識するかへ影響を与える可能性があります」


「あなたたちの気軽な返答が、この世界を歪める可能性を秘めています」


表示に、応対指針が並ぶ。


個人の感じ方に戻すこと。


全体化しないこと。


本人の同意を確認すること。


過程の価値を説明すること。


必要なら局長、副長、または許可者へ引き継ぐこと。


「回答例を示します」


副長は壁面の文章を読み上げる。


「『その人がそう感じるなら、幸せかもしれません』」


「『嬉しい人もいますが、そうでない人もいます』」


「『使う前に、本人へ聞くべきです』」


「『悲しみや疲れがあること自体が、その人にとって必要な場合もあります』」


「『すぐに消すより、支える方がよいこともあります』」


副長は新人たちを見る。


「最悪の回答例は、『全員が幸せになるなら何をしてもいい』です」


空気が冷えた。


「その言葉を、エルさんの前で言わないでください」


新人たちは、エルの映像を見ていた。


白い髪。


淡いピンクの毛先。


小さな手。


眠そうな目。


その少女が、旧世代であり。


硝子玉の宇宙の創造者であり。


名前を、本当の幸せと定義された存在である。


理解は、まだ追いつかない。


だが、覚える必要はあった。


事故が起きてからでは、取り返しがつかないからだ。



講義はさらに続いた。


箱庭の娘たちへの接触規定。


業務依頼時の手順。


個別許可が必要な情報範囲。


レトを任務に同行させる際の精神負荷確認。


ロジーに照会する際の情報倫理。


ロジーのデバイス異常を発見した場合の連絡手順。


ロジーが未知情報を取得した疑いがある場合の報告手順。


エルの未検査物を発見した場合の回収手順。


エルが「幸せ」に関する問いを発した時の応対。


局長、副長、医療班、技術班、情報班への連絡経路。


そして、開示情報の段階管理。


新人たちは疲れていた。


肉体ではなく、認識が疲れていた。


昨日まで廊下で見かけた少女たちが、別の意味を持ちはじめている。


手動ドアにお願いしていたレト。


床でアクセサリーを広げていたロジー。


小さな箱を抱えて、職員に「これ、見る?」と聞いていたエル。


そのすべてが本当で。


それだけでは、まったく足りなかった。


「最後に」


副長は言った。


「この研修を受けたからといって、彼女たちへの態度を急変させないでください」


新人たちは顔を上げた。


「怖がりすぎることも、崇めることも、避けることも禁じます。彼女たちは敏感です」


「特にレトさんは、周囲の空気の変化を自分のせいだと受け取りやすい」


「ロジーさんは、変化の理由を高確率で察します」


「エルさんは、変化そのものに興味を持ちます」


副長は少しだけ目を伏せた。


「いつも通りに接してください。ただし、知らなかった頃と同じ無知ではいないでください」


重い沈黙が落ちる。


その時、隔離室の外側で、何かが小さく鳴った。


副長が端末を確認する。


ほんの一瞬、彼の表情が変わった。


苦笑に近い何か。


「……研修終了予定まで、あと七分ありますが」


副長は壁面表示を切り替えた。


外部カメラの映像が映る。


隔離区画の外。


認証扉の前。


レト、ロジー、エルの三人がいた。


レトは両手に小さな紙袋を持っている。


ロジーはその横でホログラムを出し、何かのランキング表を回している。


エルは片手に、透明な球体を浮かべていた。


音声はない。


だが、レトが扉に向かって、一生懸命何かを言っているのは分かった。


ロジーが笑っている。


エルが扉を見上げている。


副長はこめかみに指を当てた。


「完全隔離空間なので、外部からは入れません。彼女たちにも伝えてあります」


新人たちは映像を見る。


レトが紙袋を掲げた。


おそらく、差し入れだ。


ロジーがホログラムに大きく文字を出す。


研修おつかれ!


エルが透明な球体を振った。


中から星がこぼれ、認証扉の前で小さな銀河が咲いて消えた。


隔離室の中で、新人たちは誰も声を出さなかった。


先ほどまで聞かされた情報が、頭の中に残っている。


戦略級の魔術。


全長一キロメートルの敵性個体を単独で討伐する戦闘能力。


未知の記録へ届くかもしれない魔術。


損傷した脳機能を支えるデバイス。


魔法。


過去を書き換え、現在を別のものへ変えるかもしれない力。


旧世代。


真名。


硝子玉の宇宙の創造者。


その言葉の重さを、まだ処理しきれていない。


だが、映像の中の三人は、ただ扉の前で待っていた。


研修が終わる頃に、差し入れを渡したいのだろう。


たぶん、食堂で買った焼き菓子か何かを。


副長は深く息を吐いた。


「見ての通りです」


彼は言った。


「これが、箱庭の娘たちです」


壁面の中で、レトがまた扉に向かって何かを言っている。


まだ開かないのは、知っているはずだ。


それでも扉に話しかけている。


ロジーはその横で、差し入れの渡し方ランキングでも作っているのかもしれない。


エルは透明な球体を眺めながら、星の瞬きを調整している。


副長は言った。


「皆さんがこれから接するのは、資料上の特異存在ではありません。あの三人です」


新人たちは、映像から目を離せなかった。


「恐ろしい力を持ちます。理解不能な部分もあります。扱いを誤れば、取り返しのつかないことになります」


副長の声は穏やかだった。


「ですが、まず挨拶をしてください。名前を呼んでください」


「廊下で会ったら、道を譲るだけでなく、必要なら会話をしてください」


「ロジーさんの遊びに巻き込まれたら、可能な範囲で付き合ってあげてください」


「エルさんの問いには、慎重に、誠実に答えてください」


「レトさんが親しげに話しかけてきたら、同じように親しく接してあげてください」


最後の一文だけ、少しだけ副長らしかった。


新人の何人かが、緊張の中で小さく息を漏らした。


「研修を終了します」


副長は言った。


「この後、彼女たちと顔を合わせます。態度を急変させないように」


隔離術式が解除される。


扉の封印ラインが、一つずつ消えていく。


新人たちは立ち上がった。


外へ出る扉が開く。


その瞬間、レトの声が飛び込んできた。


「おつかれさま!」


明るい声だった。


重い講義の後には、少し場違いなほど。


レトは紙袋を抱えて、ぱたぱたと近づいてきた。


「研修、長かった? お菓子あるよ!」


ロジーがその横から顔を出す。


「差し入れランキング第一位、食堂のバタークッキー! 理由、無難! 万人受け! 粉が落ちるけど許容範囲! 制服が白っぽくなるだけ!」


エルは、透明な球体を持ち上げた。


「見る? 振ると星が出る。今日は、少しだけ」


新人たちは、一瞬だけ固まった。


だが、副長が横で静かに見ている。


最初に、軍務経験のある男が一歩前へ出た。


「ありがとうございます。いただきます」


レトの顔が明るくなる。


「うん!」


ロジーがすぐに詰め寄る。


「どれにする? 甘いの? しょっぱいの? 今なら新人さん初回投票権つき!」


「投票権?」


「お菓子の満足度調査!」


「では、参加します」


「よし!」


エルが男を見上げる。


「星、見る?」


男は、副長の講義を思い出した。


怖がりすぎるな。


崇めるな。


知らなかった頃と同じ無知ではいるな。


彼は少しだけ息を整えた。


「はい。見せてください」


エルは透明な球体を軽く振った。


小さな星が、隔離区画の白い廊下にこぼれた。


銀河の渦が一つだけ生まれ、音もなく消える。


それは恐ろしくは見えなかった。


ただ、息を呑むほど静かだった。


「きれいですね」


男が言った。


エルは瞬きをした。


「うん」


レトが隣で笑う。


「でしょ!」


ロジーがすかさず記録する。


「新人さん、星オーナメント初見反応、きれいですね! いただきました!」


「この場での記録は禁止では?」


副長を見ながら、男が思わず言う。


ロジーは、にやっと笑った。


「私の頭の中の感想ランキングだから、外に出さなければぎりぎり!」


副長が後ろから言った。


「ぎりぎりではありません。後で確認します」


「副長、厳しい!」


「当然です」


廊下に、小さな笑いが起きた。


新人たちは、その笑いの中に立っていた。


四日目の研修で知った真実は、あまりにも重い。


この宇宙の形すら変えてしまうほどの情報だった。


だが、その真実を抱えたまま、目の前には三人の少女がいる。


お菓子を配り。


ランキングを作り。


星を見せてくれる。


箱庭の娘たち。


制御しきれない存在。


それでも、ここを居場所にしてくれている存在。


新人たちは、その意味をまだ完全には理解していない。


けれど、最初の一歩だけは分かった。


恐怖でも、崇拝でもなく。


まずは、名前を呼ぶこと。


廊下の白い光の中で、レトが紙袋を差し出した。


「はい、どうぞ!」


新人はそれを受け取った。


「ありがとう、レトさん」


レトは、少しだけ照れたように笑った。


その後ろで、エルの星が、もう一度だけ瞬いた。



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