第1話-硝子の箱庭
この宇宙には、果てがある。
無数の星々と、その周囲を巡る惑星。
そこで生まれ、暮らし、文明を築く人間たち。
そのすべてを、途方もなく巨大な硝子の壁が包んでいる。
閉ざされていても、そこで生きる者たちにとっては本物の世界だ。
国があり、航路があり、魔力を技術として扱う魔術がある。人々は星から星へ渡り、時には争い、時には手を取り合いながら生きている。
人間たちは、この世界をこう呼んだ。
硝子玉の宇宙。
そして、人間や一つの惑星だけでは扱えない異常が起きた時。
宇宙の秩序を維持するために動く組織がある。
惑星監理局。
その日、監理局が対処していたのは、一基の衛星兵器だった。
◇
衛星兵器の外殻が、内側から膨れ上がった。
装甲が裂ける。
折れ曲がった金属板が、鱗のように重なり合う。
本来は同じ標的へ向くはずの砲門が、ばらばらに蠢いた。獲物を探す目のように回転し、周囲の無人観測機へ次々と照準を合わせていく。
機体を走る魔力導線は、もう兵器の回路ではない。
青黒い光を送り続ける血管だった。
魔力災害による生命化。
兵器として造られた構造物が、周囲の魔力と物質を取り込み、自らを維持する魔力生命体へ変わろうとしている。
変貌は、まだ完了していない。
だからこそ、今ここで止めなければならなかった。
完全に生命として成立すれば、周囲の設備を食い、取り込み、さらに巨大な身体を作り始める。
その進路上には、有人惑星があった。
衛星兵器の砲門が、一斉に光った。
次の瞬間。
数百条の砲撃が、宇宙空間を埋め尽くした。
その中央へ、青白い光が飛び込む。
小さな少女だった。
淡い緑色の長い髪。
左側でまとめられたワンサイドテールが、彗星の尾のように大きくなびいている。
「いっぱい撃ちすぎ!」
レトは叫び、身体を捻った。
頬のすぐ横を光線が抜ける。
背中を反らす。
胸元を狙った砲撃が、髪先を焼きながら通過した。
上下左右の感覚などない宇宙空間で、レトは一直線には飛ばない。
急加速。
直角に近い方向転換。
螺旋を描き、反転し、砲撃の隙間へ身体を滑り込ませる。
砲門が追う。
照準が重なる。
逃げ道を潰すように、前後左右から光が迫った。
「そっちは、むりっ!」
レトが右手を振る。
真正面から迫っていた太い光線が、彼女へ触れる寸前で横へ折れた。
砲撃を止めたのではない。
レトと光線の間にある空間を、ごく僅かにずらした。
光は少女の身体を外れ、別の砲撃へ激突する。
白い閃光。
爆発の中を、レトはさらに加速した。
十二本の硝子短剣が、その周囲へ生まれる。
透明な刃の内部に、青白い高熱が揺らいでいた。
「いって!」
レトが腕を振り抜く。
短剣が散った。
正面から突き刺さるものは一本もない。
衛星兵器の上下へ。
背後へ。
砲塔の死角へ。
レト自身とは異なる軌道を描き、巨大な兵器の周囲を縦横無尽に飛び回る。
一本が迎撃光線を受けた。
硝子の刃が砕ける。
だが、飛び散った破片は青白い熱を放ちながら砲塔へ降り注ぎ、表面を走る魔力導線を焼き切った。
別の短剣が、その亀裂へ飛び込む。
内部で弾けた。
装甲の一部が内側から吹き飛ぶ。
衛星兵器が大きく身を震わせた。
開いた傷口から、黒い魔力が噴き出す。
周囲に浮かんでいた破片が一斉に引き寄せられた。
「食べちゃだめ!」
レトが軌道を変える。
破片の濁流へ突っ込んだ。
硝子短剣が次々に旋回し、吸収されようとしていた金属塊を細かく切り刻む。
レトはその間を擦り抜け、衛星兵器の外殻すれすれを飛んだ。
装甲が視界いっぱいに広がる。
砲門が至近距離で開いた。
「近いっ!」
砲撃。
レトは横へ跳ねるように軌道を変えた。
一発目を避ける。
二発目は身体の下。
三発目が進路を塞ぐ。
レトの瞳が大きく見開かれた。
「もうっ!」
左手を握る。
レトの正面にある空間が、硝子の板のように軋んだ。
砲撃の進路がずれ、少女の脇を通過する。
熱が頬を掠めた。
レトは顔をしかめたが、止まらない。
そのまま衛星兵器の側面を駆け抜けるように飛び、追従する砲門を短剣で切り裂いていく。
一基。
二基。
三基。
背後で爆発が連なる。
『レト、対象の軌道変動を確認』
通信から職員の声が届く。
『有人惑星側へ落下を開始しています』
レトの動きが、一瞬だけ止まった。
衛星兵器がゆっくりと傾いている。
崩壊した推進器から魔力を噴き出しながら、人間の暮らす惑星へ落ち始めていた。
「だめ!」
レトの声が宇宙へ響く。
「そっちには、行かせない!」
衛星兵器の砲門が、惑星へ向いた。
残された砲塔に光が集まっていく。
レトは両腕を広げた。
周囲を飛び回っていた硝子短剣が、一斉に軌道を変える。
上方。
下方。
左右。
前後。
衛星兵器を囲む座標で、硝子の刃たちが静止した。
砲撃が放たれる。
レトが手を叩くように、両腕を閉じた。
短剣同士を結ぶ青白い光。
線が面になる。
面が閉じる。
巨大な衛星兵器を包み込む、多面体の硝子空間が宇宙に現れた。
惑星へ向けて放たれた砲撃は、その内側で軌道を折られた。
一度。
二度。
無数の硝子面に反射し、外へ出ることなく衛星兵器自身へ突き刺さっていく。
装甲が爆ぜた。
兵器が暴れる。
巨大な身体が落下しようとするたび、周囲の空間が軋み、その位置を押し戻す。
それは一体の敵を斬るための魔術ではない。
衛星兵器を含む宙域そのものを隔離し、内部の物質も魔力も、まとめて処理するための術式。
戦略級。
レトは荒い息を吐いた。
額に浮いた汗が、小さな粒となって宇宙へ散る。
「もう動いちゃだめ」
多面体の内側で、衛星兵器が咆哮するように震えた。
「人の星に、落ちないで!」
レトが両手を強く握った。
巨大な硝子空間が、一斉に収縮する。
装甲。
砲門。
動力炉。
周囲から集めた破片。
生まれかけていた魔力循環。
すべてが青白い硝子へ閉じ込められ、無数の断面へ分割された。
次の瞬間。
多面体が砕ける。
音のない宇宙で、青白い光だけが広がった。
衛星兵器だったものは、ひとかけらも残らなかった。
惑星へ落ちる残骸も。
魔力生命体として再生する中核も。
光が薄れたあとには、静かな宇宙だけが残った。
『対象の完全消失を確認』
通信が告げる。
『魔力災害反応、低下。任務完了です』
レトは肩を上下させながら、先ほどまで衛星兵器があった場所を睨んでいた。
何も残っていない。
有人惑星にも異常はない。
全部、止めた。
「……よし!」
険しかった表情が、一気に崩れる。
レトは両手を上げた。
「終わったー!」
『帰還してください』
「うん! お兄さんに言ってくる!」
『先に帰還手順と医療検査です』
「分かってるもん!」
少し不満そうに答えながらも、レトは周辺宙域をもう一度確認した。
残留魔力。
落下物。
再生反応。
どれもない。
任務終了。
レトは青白い光を引いて、惑星監理局へ帰還した。
◇
帰還認証。
魔力残滓の除去。
装備確認。
医療班による一次検査。
レトは必要な手順を、かつてない速さで終わらせた。
医療班職員が測定器を外した瞬間には、もう扉へ向かっている。
「レトさん、廊下は走らないでください」
「走ってないよ!」
「今から走る顔をしています」
「早歩きにする!」
レトは廊下へ飛び出した。
向かう先は一つだった。
局長室。
認証扉が開く。
「お兄さん!」
執務机の向こうで、ジェレミー・クリエットが顔を上げた。
次の瞬間には、レトが机の横まで来ている。
「ただいま!」
「ああ。おかえり、レト」
ジェレミーは立ち上がり、飛び込んできた小さな身体を受け止めた。
局長室の扉が静かに閉じる。
廊下へ聞こえたのは、ほんの短い声だけだった。
「わたし、ちゃんとできたよ」
「ああ」
「すっごく飛び回ったの。短剣でズバッてして、最後に全部ぎゅってした!」
「報告書には、もう少し正確に書け」
「お兄さんにはこれで分かるでしょ?」
少しだけ間があった。
「分かる」
「えらかった?」
「任務は完遂されている」
「それ、えらい?」
もう一度、短い沈黙。
「えらい」
それから先は、外には聞こえなかった。
◇
しばらくして。
局長室を出たレトは、すっかり元気になっていた。
淡緑の髪を揺らしながら、惑星監理局の廊下を歩いていく。
歩いている。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
曲がり角の先から、一人の職員が現れた。
両腕には、大きな資料箱を抱えている。
箱の中には紙の資料と複数の記録媒体が詰め込まれ、職員の足取りは明らかに重い。
レトは足を止めた。
「職員さん、それなに?」
職員も立ち止まる。
「情報班の保管資料です。ロジーさんが分類を終えたものを、資料庫へ運んでいます」
「ロジーの?」
レトの目が輝いた。
箱の側面には、細かな分類番号が並んでいる。
公開資料。
制限資料。
経過記録。
再審査予定。
ロジーの字らしき大きな注意書きも貼られていた。
順番ぜったい崩さないで!
レトは箱を覗き込んだ。
「いっぱいある」
「ええ。少し欲張って持ちすぎました」
職員は抱え直そうとした。
その前に、レトが両手を伸ばす。
「手伝う!!」
「ですが、レトさんは任務帰りでは」
「もう元気!」
「重いですよ」
「わたし、衛星兵器より強いよ!」
比較の基準が規格外だった。
職員が返答に困っている間に、レトは資料箱を受け取った。
ずしりと腕へ重さがかかる。
レトは一瞬だけ沈んだが、すぐに胸を張った。
「ぜんぜん重くない!」
「今、一度沈みましたよ」
「床が近づいてきただけ!」
「床は動いていません」
箱の側面には、別の注意書きがある。
精密記録媒体在中・床置き禁止
レトはそれを読み、真剣に頷いた。
「ちゃんと運ぶね!」
「では、資料庫までお願いします。私は残りを運びますので」
「任せて!」
レトは資料箱を抱え、廊下を進んだ。
角を一つ曲がる。
直線通路を抜ける。
そして、資料庫へ続く区画の前で足を止めた。
そこには、職員証を認証部へかざして開く扉があった。
レトは扉を見る。
壁面の認証部を見る。
両腕で抱えた資料箱を見る。
職員証は、腰のホルダーに入っている。
両手は塞がっている。
レトは、しばらく扉の前に立っていた。
自動で開く気配はない。
少し近づく。
やはり開かない。
レトは資料箱を抱え直し、扉へ向かって言った。
「開いて!」
扉は反応しない。
「荷物持ってるの!」
認証灯は赤いままだった。
「見たら分かるでしょ?」
扉は答えない。
レトは、じっと認証部を見つめた。
レトは人間ではない。
硝子玉の宇宙を逆行していた、高熱と膨大な魔力を宿す硝子の彗星。
その魔力と硝子質から、レトは自然発生した。
人間の言葉も、道具も、規則も知らなかった頃。
世界にあるものは、レトにとってすべて同じようにそこにあった。
動くもの。
動かないもの。
光るもの。
鳴るもの。
触れると反応するもの。
レトは、自分の出自と同じ、ものいわぬ物体に囲まれて生きていた。
人間の社会で暮らすより、もっと昔の旧い記憶。
今では、物に意思がないことも当然のこととして知っている。
認証部へ職員証をかざさなければ開かないことも分かっている。
それでも、困った時や慌てた時には、先に声をかけてしまう。
硝子の彗星から生まれた感覚は、人間から教わった知識より、少しだけ早く動く。
「わたし、ちゃんと運んでるんだよ」
レトは扉へ訴えた。
「床に置いたらだめなの。だから開いて」
認証灯は赤い。
「ねえ……!」
レトの頬が膨らむ。
片手を離せば、資料箱が傾く。
腰の職員証を取ろうとして身体を捻る。
箱の中で記録媒体が、かすかに鳴った。
「わっ」
レトは慌てて抱え直した。
「大丈夫?順番、崩れてないよ」
今度は資料箱へ言う。
それから、もう一度扉を見た。
戦略級の魔術を扱う戦闘班員は、認証扉の前で完全に動けなくなった。
「開いてよ~!!」
「ずいぶん難しい作戦のようですね」
背後から声がした。
レトが振り向く。
副長が立っていた。
いつもの薄い笑みを浮かべ、資料箱と認証扉を見比べている。
「副長!」
「はい」
「この扉、開いてくれない」
「認証を行いましたか?」
「できないの。手、いっぱいだから」
レトは資料箱を少し持ち上げて見せた。
副長は認証部の横にある非常用認証口へ、管理権限を持つ認証キーをかざした。
赤かった認証灯が青へ変わる。
短い作動音。
扉が左右へ開いた。
レトの目が輝く。
「開いた!」
「よかったですね」
「副長、すごい!」
「通常業務です」
レトは資料箱を抱えたまま、扉を通り抜ける。
扉の中央を越えたところで、少しだけ足を止めた。
閉じ始める扉へ顔を向ける。
「……ありがと」
とても小さな声だった。
副長は聞こえていたが、何も言わなかった。
扉が静かに閉じる。
レトは何事もなかったように歩き出した。
その背中へ、副長が声をかける。
「ところで、レト」
「なに?」
「帰還したら、ロジーのところへ行く約束だったのでは?」
レトの足が止まった。
数秒。
資料箱を抱えたまま、ゆっくり副長を見る。
「あ」
完全に忘れていた顔だった。
「ロジー、待ってる?」
「おそらく」
「怒ってる?」
「少なくとも、あなたの遅刻時間は秒単位で記録されているでしょうね」
「たいへん!」
レトは走り出そうとした。
「資料を先に置いてください」
「そうだった!」
「走らないでください」
「早歩き!」
レトは資料箱を抱えたまま、資料庫へ向かって全力で早歩きを始めた。
つい先ほど、有人惑星へ落下しかけた衛星兵器を破壊した少女は。
その日の次なる任務として。
ロジーに会いに行くため、大急ぎで資料を片づけることになった。




