最終弁論
「その日の朝、彼女はピーナッツパンを食べていました」
弁護人の低い声だけが、静かな法廷に響いた
弁護人の優しい視線が被告人席に座る彼女に注がれる
彼女は俯いたまま何も見ようとしない
「彼女は確かに、ピーナッツパンを買って、実際に食べました。そのことに争点はありません。だがしかし、ピーナッツパンを食べることに、何の罪があると言うのでしょうか? 自分の働いたお金で、ちゃんと買ったピーナッツパンです。税込160円です。これは弁護側証拠第十二号でも明らかです。ちっとも贅沢品なんかじゃありません。贅沢三昧の暮らしもせずに、地に足をつけて、真面目にやってきたんです。どんな嫌な仕事でも断らずに、そう断らずに。確かに若い時には失敗した事もありました。誰でもそういう事はあります。それは、むしろ彼女が普通の人間なんだと、そう語っているようです。その日の朝も、普通にピーナッツパンを買って、普通にピーナッツパンを食べていました。何が問題あると言うのですか? 問題があるとしたら被害者の方です。彼女や、同僚や、女性たちの人格を蹂躙し、軽視し、接触を強要した。実にけしからんことです。もちろん、理不尽に命を奪われない権利は誰にでもあります。もちろん被害者にもあります。彼女が被害者の命を理不尽に奪ったのであれば、もちろん罰せられるべきだと、私は思います。でも、その日の朝、彼女はピーナッツパンを食べていました。ただ、それだけのことなんです。確かに彼女は被害者のアレルギーは知っておりました。ピーナッツパンを食べながら、その事が頭をよぎったかも知れません。でも、彼女はピーナッツパンを食べていた、ただそれだけなんです。有形力を行使したのは、むしろ被害者ではないでしょうか? 果たして、未必の故意があったと言えるのでしょうか? 彼女と被害者による接触があった直後に被害者が倒れたからといって、本当に彼女が原因なのでしょうか? その因果関係には飛躍があると言わざるをえません。分かっている事実はただ一つです。その日の朝、彼女はピーナッツパンを食べていました。これ一点です。疑わしきは被告人の利益に。以上です。」
鎮まり返った法廷に、エアコンの強い空調音だけが響き渡っていた。
暑い8月の出来事だった。




