幸せの赤5
ジークフリードの中で、アンブロシアーナはどちらかというと引っ込み思案で泣き虫だ。
前魔王のケラウノストとはもちろん、自分と比べても小さく華奢な体は、引っ張ると簡単に腕の中に収まるし、一度抱き締めてしまえば逃げる事もない。
アンブロシアーナ自身がどうかはわからないが、ジークフリードにとって彼女が魔王だなんて実感はまだあまり無く、いつまでも、人間にすら怯えて周りの様子を伺っていた姿が瞼の裏に焼き付いていた。
そんなアンブロシアーナが赤い炎を纏った片手で吸血鬼の腕を受け止めているその様子に、ジークフリードは手に持っていたダガーの切っ先をだらんと地面に向けて、瞬きすらできずにいた。
彼女が変わったということを理解していても、その圧倒的な魔王としての強さを目にしたことはあまり無かった。
ボコボコと沸騰したように吸血鬼の腕の皮膚が暴れ、蒸気を上げて爆散する。
自分の切れた尻尾を何度も見て「ヒエ〜」などと言っているギュゲスルと対照的に、吸血鬼は腕一本無くなったところで動じず、アンブロシアーナに蹴りを入れようと体勢を変えた。
しかし足がアンブロシアーナに到達したところで一切効果などなく、衝撃は掻き消された。その次の瞬間には白く細い指が吸血鬼の喉元に食い込み、勝敗がついていることをジークフリードは目で理解する。
「腕はまた生えてくるかもしれないけど、頭はそうじゃない。大人しく帰ってくれるのなら、今日は見逃します」
「……わかりました。帰りますので、どうか放してください。もう、魔人を傷付けはしないと誓います」
少しの沈黙の後、アンブロシアーナは吸血鬼を開放する。
それから、まるで逃げるように夜闇に溶けて消えていく吸血鬼を見送り、ジークフリードはアンブロシアーナに駆け寄ろうと一歩を踏み出した。
アンブロシアーナの顔は冷たいまま、ジークフリードを見据えている。
静かな怒り、威圧感のようなものを感じたジークフリードは足を止め、その氷柱のように冷たく鋭い瞳に見つめられ、思わず息を止めた。心臓がまるで耳元で鳴っているかのよう煩く、首や背筋に嫌な汗が噴き出した。
「どうして」
アンブロシアーナの小さな声と眼差しに、息だけでなく心臓まで止まってしまいそうだ。
小さくて愛おしい手のひらがこちらに向けられたその次の瞬間、ジークフリードはパチパチと爆ぜる音と肉の焦げる臭いに、我に返って素早く前へと飛び出した。
振り返れば、自分のいたすぐ後ろ側の地面に煤の山ができ、まだ布切れとわかる部分は赤く燃えている。
全く気配を感じることもないまま、ジークフリードは背後からあの吸血鬼に狙われていたのだと気付いた。あの吸血鬼は、最後まで人間を襲わないとは言っていなかったのだ。
危うく血を吸い付くされる羽目になるところだったが、アンブロシアーナのおかけでそうならずに済み、ほっと息を吐いてまた愛おしい妻に視線を向けた。
一度情けをかけて見逃した相手に裏切られたアンブロシアーナの瞳には涙が溜まり、自分を助けてくれた小さな手が震えていることに気付く。
「アン」
怖かったのだろうか。それなら申し訳がない。自分の弱さ故にアンブロシアーナを傷付けたのだと思い、ジークフリードはその震える手を握る権利など無い気がしてただ見つめる。
空を旋回していた赤い雄のドラゴンが洞窟の前へ降り、それまで聞いていた金属を擦り合わせたような声とは違う優しげな声が響いた。
「あー良かった! 僕、もう血を抜かれて干物にされちゃうかと思ったよ! 尻尾は手遅れだけど」
ジークフリードとアンブロシアーナの張り詰めた沈黙を、ギュゲスルがのほほんとした声で破り、先の窄まった残念な短い尻尾をプリプリと振る。
「お父さんドラゴンありがとうね! それからアン様も! ほらほらジギピッピもちゃんと言わないと」
「あ、ああ……俺が不甲斐ないばかりに、悪かった」
ジークフリードが謝ると、アンブロシアーナは瞳いっぱいに涙を浮かべたまま、「ううん」と首を横に振った。
洞窟の中で再会を果たしたドラゴンの番は、しばらく互いの額や頬を擦り合わせていた。
アンブロシアーナが世話をしていた雄の方はもうすっかり人に慣れてしまい、外敵の多い森よりも魔王城の敷地内の厩舎に戻りたいようだった。
それを承諾したのか、雌が素直に抱えていた3つの卵のうち1つを夫に託す。
お腹のあたりで両前足に抱えたドラゴンの卵に、アンブロシアーナはこそこそと髪を櫛で梳き、キラキラと輝く赤い毛髪を一本乗せる。
炎の魔人の髪があれば、移動中も温かいのだろうとすぐに想像はつくが、ジークフリードは目を瞬かせてその櫛を持っているアンブロシアーナの正面に入り「それは何だ」とあえて問う。
「さ、さっき、お風呂入ってちゃんと洗ったから、汚くは、ないと……思う……」
「いつもどこでも綺麗に決まってる。それは髪だよな? 温かいのか? 俺も欲しい。欲しすぎてどうにかなりそうだ」
「ジギピッピ、一緒に住んでるんだから、いつでも取れるんじゃないの?」
「いいや、アンから渡される事に意味があるんだろ」
「さっすがジギピッピ! 言う事が違うよねぇ」
「あ、あげないよっ!」
アンブロシアーナが残りの2つにも髪を乗せると、片方を雌のドラゴンが髪も落とさないよう両前足でしっかり抱える。それから、雌のドラゴンはじっとジークフリードを見つめた。
「ジギピッピに運んで欲しいみたいだよ」
「……俺か? だが竜医のギュゲスルが持った方が」
「帰ったらその髪貰えるじゃん」
「そうだな。わかった」
食事も睡眠も満足に取り、力のある雄のドラゴンの背にギュゲスルとジークフリードが乗る。
アンブロシアーナは背が小さく3人の中では最も軽いが、雌のドラゴンには卵だけを持たせて自分はとどまった。
「わたしはピピラを呼ぶから、二人は先に帰ってて。おつかれさま!」
アンブロシアーナの言葉に何の疑いもなく、ジークフリードとギュゲスルは頷いた。
上空へ上がると、再びもやもやと広がった霧でほとんど見えない地面の、アンブロシアーナのいる場所だけかすかに明るく見える。
それはジークフリードが大切に抱えた卵の上の、ほわりと温かい髪と同じ色だった。