幸せの赤4
ジークフリードは念の為ダガーを抱いて眠っていたためか、熟睡することはなかった。
初めから、濃霧の向こうに何か得体の知れないものがいそうな気がして、警戒していたからかもしれない。
魔力を認識できない人間のジークフリードは、もう一人と一体とほとんど同時に目を覚ました。
来るな、と言うように金属を擦りつけたような唸り声を出し始めたドラゴンを守るように、ジークフリードはダガーを手に立ち上がる。
ギュゲスルはドラゴンの体をさすって安心させようとするが、今まで見たことの無いほど顔を引きつらせていた。
ピリピリと肌の表面を刺すような威圧感を、ジークフリードは人間の身でありながら魔力だと気付いて眉を潜める。
どう考えても勝ち目が無く、相手の目的次第では皆殺しにされてもおかしくないと、姿を見る前から確信があった。
コツ、コツ、と落ち着いた足音が霧で見えない外側からこちらへ向かって来ている。速度を変えず、まっすぐに、着実に。
「おや、おかしいな。獣人ではないにおいだ。魔人が一人と……これは、なんだろう」
声の後から、急に足を早めたその異形は、異形と言うにはあまりにも普通の姿を持った生き物だった。
薄灰色の髪に赤い瞳。清潔感のある質の良さそうな濃紺の外套の男だった。
「……貴方は」
ジークフリードの言葉に、男はにんまりと笑顔を浮かべたまま、片方の手を口元に当てて肩を揺らし始める。
「いえ、そう、失礼のないように、そうですね、私はそこのドラゴンをいろいろと、ね、虐めていた憎い憎い獣人さんを、懲らしめてやろうと、ふふふ、そう、懲らしめてやろうとね、ここに来たんですよ。いかんせん、そう、霧が薄い日は、ふふふ、太陽が苦手なものでね、この、薄暗い崖下ですら、ね」
気味の悪い男に、ジークフリードはダガーを一度下ろすが警戒は解かない。
「ならもう大丈夫だ。あの獣人は皆連行した。俺たちはこのドラゴンの番が戻って来るまで世話をしている」
「ええ、ええ、そうですね、すっかり、傷も癒えてね、ふふふ、フヒッ、良かったね、まあ、そんなに怒らないでくださいね、私はドラゴンにはもう危害を加えませんから。あ、そう、魔人さんにも、危害は加えませんよ。ただ、ヒヒッ、少しお腹が空いてしまって、獣人さんは、本当にここにはもういないのでしょうか、そうですね、仕方がありませんね、残念です」
「余計なことをしてしまったなら悪かった」
ドラゴンよりも獣人に強い執着を持っているかのような男の瞳が、ジークフリードの体の輪郭をなぞっている。まるで視線で舐められているようにすら感じ、吐き気のようなものを感じたジークフリードは、ゆっくりと片足だけ少し後ろへずらした。
いつでも、すぐに一歩を踏み出せるようにしたジークフリードに、男が肩を揺らして笑う。抵抗に気付いていながら笑っている、その不気味さにもジークフリードは表情を変えることはない。
捕まえた獣人の一人が、魔人に従わされていた、最初にドラゴンを弓で射ったのは魔人だと言っていた記憶が蘇る。罪を逃れたいでまかせか、何かの勘違いかともとれた発言だったが、魔人に敵対しているのだろう魔人を目にして、あれが真実であったと気付く。
「ヒヒヒッ、良いですね貴方、貴方の匂い、実に甘美です」
「へえ、変わったご趣味をお持ちで」
ジリジリと足元で土と砂利が擦れた。すっかり手に馴染んだダガーの柄は汗で肌とさらに密着している。
勝てるのか? という問すらも抱けない。敵うはずがないという自覚があった。
「ジギピッピ、その人、吸血鬼だ」
ドラゴンの呻き声の中にギュゲスルの声が混じる。
吸血鬼。その言葉にあろうことか、わずかに喜びに似た感情を抱いたジークフリードに、吸血鬼の男がまた楽しげに大きな声で笑いだした。
「そうです、そうです、私は吸血鬼。ですから、ええ、わかりますよね、ええ、そうです、そうですとも、私はね、吸血鬼ですから、血が大好きなのですよ。長く生きていて初めて人間が手の届くところにいるのですから、是非とも味見をと!」
――もしこれの体液とやらを飲んだら、俺は魔人になるのか?
どうやってこの場を切り抜けるかという危機感よりも、まるで機会を与えられたような嬉々とした感情。それを抑えるように、忌み子の時代から何度も何度も血を流して皮膚の硬くなった手のひらでダガーを構える。
ジークフリードは何度か人生をやり直している。その時間の中で、何度も努力では得られないものに巡り合ってきた。
悔しさばかりの人生だったが、それでも得られたものがたくさんある。それを守るために、また得なければならない力があった。
――一定量の体液ってどのくらいだ? 飲んだら、その後どれくらいの時間で魔人になる?
ただダガーを相手に突き立てることだけを目標に、殺すことは次の目標にして動く。
いつも相手の足元から崩させて、腕を捩じ伏せて確保することばかり意識しているジークフリードは、なぜか胸に高鳴りのようなものを感じた。
魔人でも、人間と同様に体術を苦手とする者は多くいる。
肌の表面を焼くような威圧感のわりに、吸血鬼はジークフリードが連続して突き出すダガーを避け、防ぐ事で精一杯のようだった。
後退していく吸血鬼を追うように、洞窟の外へと足を進めていく。
ドラゴンが何度も何度も叫び声をあげているのが、洞窟を出てもはっきりと耳に届いた。
長い爪でジークフリードを引っ掻こうとする吸血鬼の攻撃を避け、姿勢を低くする。地面についた左手に体重を乗せ、足で吸血鬼の下腹部を蹴り上げた。
月明かりが雲と濃霧で妨げられて、目で見える情報の少ないジークフリードは吸血鬼とあまり距離を空けないように、低い姿勢のまま、またすぐに吸血鬼の方へ飛び出す。
ダガーを振り上げ、急所であろう首を狙って切っ先で線を描くも、吸血鬼は寸でのところで避けてしまう。
「食前の運動は素晴らしいものです。ある種のスパイスだ。ですが、もう十分です」
吸血鬼が一度後ろに大きく飛んで霧の中に消える。ジークフリードは足音を聞き逃さまいとするが、ドラゴンの悲痛な叫び声で吸血鬼の気配が掻き消されてしまった。
まさか洞窟に戻ったりはしていないだろうか。
振り返り、かろうじて見える洞窟へ向いたその刹那、さっきまで向いていた方向……今のジークフリードにとっての背後から、まるで生気の感じられない冷たい手が伸びてきて、ジークフリードの顔面と胴体を掴んだ。
後ろから抱きしめられるような状態で、ジークフリードはダガーを後ろに向かって突き立てるが、何度同じ動きをしても吸血鬼の皮膚を貫く感触がない。
衣服は確かに裂いているのに、その向こうの肌は柔らかいようで硬い。
吸血鬼の息遣いを耳元で感じ、爪の先が自分の皮膚に軽く刺さっている痛みに眉を寄せる。細く弱そうな体のどこからそんな力が湧いているのか、ジークフリードは情けなくも身動き一つとれなかった。
「はあ、夢のようです。まずは首筋から頂きましょうか」
尖った歯の先端が首筋に触れたその時、洞窟からギュゲスルが飛び出してきた。
「来るな!」
リザードマンはてっきり運動神経が良く戦闘能力にも長けていると思っていた頃が、少し懐かしくも感じる。
「ジ、ジギピッピを放せ! 放せよ!」
敵に立ち向かう時、決してやってはいけないバタバタと鈍い走り方に、何より目を瞑って突進をするという行為。
片腕にジークフリードを捕らえたまま、吸血鬼が掴みかかってきたギュゲスルの顔面を叩いた。地べたに転がったギュゲスルの涙を浮かべた大きな瞳に、ジークフリードは何とか彼だけでも逃してやらねばと再びダガーを握る手に力を込める。
「トカゲの血は好まないんです、消えてください」
「ギュゲスル、逃げろ、こいつの目的は俺だ」
「嫌だー! やだよジギピッピぃ! やだー!」
緊迫した状況だというのに、相変わらず笑いを誘ったり周りを和ませないと生きられないギュゲスルが吸血鬼の足にまとわりついて、ガジガジとその足をかじり始める。
「ええい、鬱陶しい!」
吸血鬼の男の片腕がジークフリードを離し、ギュゲスルの長い尾を掴む。
その隙にジークフリードはなんとか吸血鬼の腕から逃れ出て、地べたの砂を掴み、その蒼白い顔に向かって投げつけた。
「人間、トカゲ、殺す、殺す、殺す殺す殺す――」
砂の入った両目をガシガシと腕で拭う吸血鬼が、ギュゲスルの尾を乱暴に振り上げたその刹那、ジークフリードはボロボロ涙を流している勇敢な親友の体を引っ張って走り出した。
「あ、ジギピッピ、格好いいなぁ……ギャッ!」
ギュゲスルの悲鳴も無視し、ジークフリードは彼を連れて吸血鬼から距離を置く。
吸血鬼は、手に持った物が酷く暴れるのに気を取られて、目を瞑ったまま苛立ち、尾を地面に叩きつけようと手を振り上げる。しかしその軽さに勢いが余ってバランスが崩れた所で、今の状態を察して雄叫びを上げた。
「おのれ! おのれぇ!」
「ジギピッピ! どうしよう! 僕の尻尾が切れてるよ!」
「すまん……」
トカゲが外敵から逃げ出す時に、己の尾をほんの一瞬で切り取る。それと同じように、ギュゲスルの尾も少し引っ張っただけで簡単に切れた。
こうして上手く時間を稼げはしたが、このまま逃げ切れるはずもない。
しかしジークフリードは冷静さを取り戻すにつれ、ギュゲスルが飛び出してきて時間を稼ごうとした理由に薄々気付き始めていた。
洞窟の中のドラゴンの声がただ怖くて悲鳴を上げているのではなく、自らの位置を誰かに教えるように、一定の大きさ、一定のリズムで鳴いているのだ。
そしてその期待に答えるように、霧で見えない上空から、大きな翼がはためく音が降り始めた。
「あ! ジギピッピ、説明忘れてた。アン様の気配がね」
気配というのは魔力の事も含んでいる。それを感知できない人間のジークフリードのことをギュゲスルは思い出し、説明をしようとしたその刹那――
ゴウ、と風を切り、まるで稲妻が大地に突き刺さったかのように、何か眩しい閃光が二人と吸血鬼の間に落ちた。
その衝撃で霧がはけ、視界がみるみる広がる。
大地に窪みができ、砂利で小さなクレーターができた中に、まばゆく輝く炎の髪を揺らめかす妖しげな少女が立っていた。




