幸せの赤3
竜医のリザードマン、ギュゲスルはジークフリードの数少ない友人の一人だ。
雄のドラゴンは城内で保護をして、今は暖かい厩舎で眠り続けている。しかしそのパートナーの雌の方は抱卵中で、パートナー無しに巣から動かすことは難しいだろうと彼は見解を示した。
城に遣える竜医であるギュゲスルとジークフリードに、アンブロシアーナは雌のドラゴンの様子を毎日見に行って欲しいと言った。いつになく不機嫌そうな顔をする彼女は、捕まえた罪人一人ひとりの身元の割り出しや尋問などを行うのだそうだ。
洞窟に入ったジークフリードは、枯れ草や細い木の枝を集めた巣に座っている雌のドラゴンを見上げると、その美しさに思わず溜息をついた。
昨日見た雄の方は少し紫にも近い紅色の鱗をしていたが、ウーッと唸り声を上げている目の前の雌ドラゴンはアンブロシアーナに少し近い、橙寄りの赤色だった。
朱色のドラゴンの鱗はところどころ、無理矢理取られたように欠けていた。
まだ浅い傷もあり、痛々しい姿に眉をひそめる。
「こんな怪我をしても、お母さんは子供を守っているんだ。多分お父さんは、目の前でこのこをわざといじめられて脅かされて、無理矢理言うことを聞かされたんだね。お父さんの方は食わず寝ずで働かされていたみたいで、とっても疲れてたみたい」
ギュゲスルが鞄の中から薬をいくつか取り出して、染み込ませた布切れを持ってドラゴンに近付く。
「ごめんね、滲みちゃうよねぇ……」
無理に鱗を引き抜かれたような場所や、捲れたように乱れてしまっている場所をギュゲスルが慎重に触れる。
魔力があったとしても、食事と睡眠を取らなければ傷は早くは癒えない。抱卵中のうえ、パートナーがこの場を離れている雌のドラゴンの傷はなかなか癒えないのだろう。
朱色のドラゴンはピピラとは違う、ギャーンというような悲鳴を上げた。金属と金属を擦り合わせたような声に、思わず耳を塞ぎたくもなる。
しかしドラゴンは、卵を自分の体で割ってしまわないよう、されるがままに大人しく動こうとしない。
手早く薬を塗り終えたギュゲスルが次に鞄から出したのは林檎だった。
「ジギピッピもこっち来てくれる?」
「良いのか?」
「あの獣人のせいで、魔力の無い生き物を敵だって思わないようにしたいんだ」
ただ言われたとおりに側に行っただけで、ニコッと笑って「ありがとう!」というギュゲスルに、ジークフリードも笑顔を返す。
それから手渡された林檎を高く掲げてドラゴンの口の方へ寄せた。
「食べないね」
「ああ、食べないな」
ギュゲスルは鞄を漁って、今度は柑橘、干し肉、砂糖菓子をジークフリードに渡して掲げさせるが、ドラゴンは一向に食べようとしない。
「ジギピッピ、こんなにカッコイイのにお婿さんじゃないと嫌だなんて、真面目なドラゴンだね」
「いや、ドラゴンから見たらギュゲスルの方が好みの顔なんじゃないか?」
「うーん、僕は女の子みたいな顔だからなぁ……このこはジギピッピみたいなキリッてしたイケメンが好きだと思うよ。お婿さんもキリッてしたイケメンだし」
ギュゲスルの言葉に、ジークフリードは正直に「わからない」という顔をする。
確かにギュゲスルは可愛いが、実のところジークフリードはリザードマンの性別を顔で見分ける事ができない。
そんなジークフリードの心を察したように、ギュゲスルがにっこり笑って長い舌を垂らして笑った。
「わかんないよね! 僕もね、ほんとはジギピッピとお兄さんの見分けつかないよ!」
「いや……それは仕方ない。多分俺もそうだ」
アンブロシアーナもエレアノーラも、それから母親も、どう見ても同じ顔の自分と兄を見分ける事ができるのかわからない。
今では必要なくなったが、ジークフリードは時々フリードリヒを演じきれなかったことを悔しく思う。
彼になりたいわけではないが、負けず嫌いのジークフリードは兄の真似をして前髪をつまんだ。
それから毎日二人は雌のドラゴンのもとに通い続けた。
ドラゴンがギュゲスルの手から林檎を食べるまでには、およそ3日ほどだったが、ジークフリードの手から食べるまでには1週間ほどかかった。
初めのうちは唸ってばかりのドラゴンだったが、10日が経つと二人を警戒することはなくなった。
14日目、ドラゴンの食事の量も増え、傷が癒えてきたその日の霧はひどく濃かった。
二人がドラゴンのもとを訪れた頃はそこまででもなかったか、治療と食事が終わる頃、洞窟の外はほんの数歩先も見えないほど濃い霧が辺りを包み込んでいた。
何度も通っているため、道や距離感などは記憶していて帰れなくもなさそうだが、もし魔獣に襲われては対応するのが困難だと考えた二人は、霧が薄くなるまでその場で待機することにした。
濃霧の影響か、白煙の森は日が暮れるにつれて寒くなり、吸い込んだ空気で肺を刺されそうなほどだ。
今晩はここで一夜を明かすしかないかと諦めて、ジークフリードは洞窟の周りに落ちていた乾いた枝や枯れ葉を集めて焚き火の準備をする。
手早く魔導石で火をつけ、ついでに拾ってきた枝の表面をダガーで削って串にした。
毎日通っていればこんな日もあろうかと、持ってきていたチーズを挟んだパンを二つ炙ってギュゲスルに手渡す。
硬く、決して美味では無いがこれしか持っていないので仕方がない。
魔人だから数日食べなくても大丈夫だと言いながら、結局受け取って満面の笑みで、まるで馳走でも振る舞われたかのように咀嚼するギュゲスルに、ジークフリードはいつも他者を癒やして回る彼に純粋な尊敬の念を抱いた。
世渡り上手というより、生きる特効薬のような魔人だ。
アンブロシアーナも顔にすぐ感情が出るが、彼女の母親もギュゲスルもころころと表情を変えて見ていて飽きない。
それでいて、どこかの公爵令嬢のように暴れたり珍妙な動き方をしたり、なんでも素手で触って確かめたりもしない。
いつだったか、馬糞を触った後の手を無理矢理嗅がされた時の記憶が蘇り、まだパンを食べきっていないというのに、食欲がみるみる消えていく。
「ジギピッピ? 顔色悪いよ?」
「いや、ちょっと昔の事を思い出しただけだ」
なんとかパンを口に詰め込み、嚥下する。
チーズの臭みと馬糞の臭いはジークフリードの頭の中で渦巻いて、早く焔色の甘い香りに顔を埋めたいと願う。
焚き火を反射してキラキラと輝くドラゴンの鱗は、それとよく似た色をしている。警戒心を解いたドラゴンは、目が合うと喉を「キュルル」と鳴らして頭を傾げた。
「えへへ、お泊りといえば恋バナだよねぇ」
呑気なギュゲスルの言葉にジークフリードはしかめっ面をする。
「ジギピッピは照れ屋さんだね。よしよし、お母さんもお父さんに早く会えると良いね、もう、いつ起きてもおかしくないんだよ」
「そうなのか」
頷くギュゲスルに、なんとなく話が理解できたのか、ドラゴンがまた喉を鳴らす。
長い舌が伸びて、ギュゲスルとジークフリードを順番に舐めると、少し体勢を変えて巣に空いた場所を作った。
「えへへ、ジギピッピ、今日は寒いからお母さんと寝ようって」
「……まあ、そうだな。ギュゲスルはともかく、俺は気付いたら凍死してるかもしれないしな」