02
6歳になり、ようやく長い時間立って話したりしばらく踊っていられるように肉体が成長したアンブロシアーナは昨晩からひどく緊張していた。
おそらく最後に自分が魔導書を使ったことで、彼はいくつもの世界線で共に過ごした記憶を失っただろう。
これは正真正銘の初対面となってしまう。
アンブロシアーナが馬車……もとい竜車の窓から外を見ると、これまで見たことがないほど人々に歓迎されていることに気が付き口元が綻ぶ。
本物のドラゴンを見て目を輝かす少年たちに恐怖の念はなく、花を掲げながらこちらに手を振ってくれる民衆にアンブロシアーナは笑顔で手を振り返した。
門を越え、王宮の中に着いてもアンブロシアーナに悪意の視線を向ける者はいない。魔王軍の若い騎士団長がドラゴンを止め、その鼻先をよしよしと撫でている間にアンブロシアーナは地面にふわりと着地した。
歓迎されている。王と、初めて見る王妃自らカーペットの先で笑顔を浮かべているのに安堵して歩き出す。あの意地悪だった方の王妃はこの世界線では側室のままのようで、姫たちも脇に並んで頭を垂れていた。
――ジギのお母様、元気そうで良かった。
今の王妃はジギとフリードリヒの母親だ。手紙を貰うまで名前も知らなかったが、ひと目その美しい黒髪と少し鋭く整った目鼻立ちを目にすればあまりにもそっくりですぐにわかってしまう。
思わず見惚れてしまったアンブロシアーナに、王妃は眉尻を垂らして優しい笑顔を浮かべて両手を伸ばした。
ぎゅうっと抱きしめられたアンブロシアーナは大きく口を開けて狼狽した。良い香りがして、なんだか少し照れくさい。
それでもすぐ愛しさを感じて思わずはにかんで抱きしめ返すと、王妃も嬉しそうに声に出して笑い頬ずりをした。
「嗚呼、魔王陛下、あなた様にお会い出来る日が待ち遠しくて待ち遠しくて……本当になんて可愛らしいのでしょうか、わたくしの命の恩人は」
「わ、わたしも、会ってみたいとずっと思っていました」
落ち着いた声は確かに女性のものだが、どこかジギの声を思い出させる。
「これこれ、王妃よいい加減にするのだ。どうか妻の非礼をお許し頂きたい。妻は自らの命だけでなく我が子もあなたに救われた故、毎日毎日いつ会えるのかと楽しみにしておったのです」
「我が子、ですか?」
「魔王陛下への手紙に書かせていただいた双子のことです。我が子第6王子と第7王子は双子なのです」
知っている。双子がいると知っていて手紙の返事を書いたのだ。恐らく王妃の元の目的は秘密裏に双子の弟を亡命させることだったのだろうが、想像以上に多くの人間が魔人の国の薬草に救われてしまった今、魔に近いとされる双子を忌み嫌うこともまたタブーと化して来たのだろう。
「彼らを会場にて待たせております。さあさあ参りましょう、皆あなた様をお待ちしております」
6歳だからか、王妃が優しく手を繋いでくれる。自分の母にして貰った時と同様に手を繋いだまま歩くと不思議と緊張よりも楽しい気持ちが大きくなる。
時々見上げた王妃は凛と美しいが、目が合うと前に何度かジギが見せてきた柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
「まるで夢でも見ているよう」
その王妃の言葉に紛れもなく彼女がジギの母親なのだと改めて実感する。ダンスホールからは楽しげな声や楽器の音が聞こえてきた。
「皆様ご静粛に。両陛下、そして魔人の国のアンブロシアーナ魔王陛下のご到着にございます」
誰かの声に一斉に静まり返る会場。部屋の中央には少年と少女が仲良く手を繋いで立っていた。
――あれは9歳のフリードリヒとエレンだ! 小さくて可愛いな。
朗らかな笑顔を浮かべるフリードリヒに、この頃から外面がいいのか穏やかに儚げに笑みを浮かべている上品なエレアノーラ。王妃に促されて正面に立つと、二人は丁寧にお辞儀をした。
「僕は第6王子フリードリヒです。こちらは僕の婚約者のエレアノーラ。あなた様のお越しをお待ちしておりました」
「はじめまして、アンブロシアーナです。よ、よろしくお願いします」
大人しくしているエレアノーラを見ているとつい緊張してしまう。そして何よりフリードリヒと同様にジギもここにいるのだと思うと胸がドキドキと大きく鳴って苦しい。
違う生活をしているジギはどんな少年だろうか。9歳のジギは目の前のフリードリヒと同じような背丈なのだろう。きっと可愛らしくて格好良くて素敵な少年に決まっている。
「いた、アンブロシアーナ様」
フリードリヒと同じだが、ほんの少しだけやんちゃそうにも聞こえる声に振り返る。
「ジギ! あなたときたら、ここで待っていてと言いましたよね! 母の言いつけを守らぬ悪い子! 王子としての自覚を持ちなさい!」
それまで落ち着いていた王妃がアンブロシアーナの母親や他の子を持つ母親たちと変わらない声をあげる。
叱られた黒髪の少年ジギはふんと鼻で笑ってわざとらしく肩をすくめてみせた。
「いつまでたってもいらっしゃらぬので迎えに行こうと思ったのですよ。母上のことです、てっきり大切なお客様を連れて城の中を迷っていらっしゃるのかと」
「こら! 皆様の前でお尻を叩かれたいのですか!」
――ジギが叱られてる……
「フリッツ、あなたは兄なのですから弟をしっかり注意しなさい」
「も、申し訳ございません、母上」
「情けない奴」
並べて見ると二人は全く違って見える。確かに顔貌はそっくりではあるが、ジギの方がほんの少し生意気そうで目付きが悪いようにも見えた。
仲の良い親子と兄弟を見ていると胸の中がほっこりと温まって幸せな気持ちになる。
ジギの黒曜石のような双眸がアンブロシアーナを捉える。母と兄を相手に釣り上がっていた眉尻が下がってゆるゆると柔らかくなっていくのに思わず頬が熱くなる。
相手は9歳の少年だというのに、自分の肉体が6歳だからかアンブロシアーナは年下のようで年上の彼を前にしてドキドキと胸が高鳴ってしまう。
記憶が無いであろう彼に、3歳下の小さな魔人の少女へ興味など抱いてもらえるだろうか。
そんな小さな不安ごとすくい取るように、少年は片膝をついて座りアンブロシアーナの手を握った。
「あっ、あの、ごきげんよう。わたしはアンブロシアーナです……あなたの名前を、教えてくださいますか?」
「はい、アンブロシアーナ様」
すっと顔を上げた少年の熱に浮かされているような瞳が揺らぐ。アンブロシアーナはいけないとわかっていながらも期待を抱いた。
「俺は……俺の名はジークフリードです」
「ジークフリード……あなたはジークフリードというのね!」