23 微笑み
二人は倉庫から車へ。一也は綾乃の肩を抱く形で歩いていき、助手席へと座らせ車を走らせてた。空はまもなく朝を迎えようとしていた。街は昇ってくる太陽の光に包まれて背の高いビルがその表面を白く輝かしている。先ほどまで暗い室内の中にいたせいもあってか、一也の目にはそれが痛いほど鮮明に映っていた。窓からかすかに聞こえてくる風の音が、一也には妙にはっきりと聞こえていた。
不意に綾乃の目のことが脳裏を掠めた。『綾乃の目にはこの情景が映らない』そう思うとなぜだか急に胸が苦しくなった。隣に座っている綾乃が途方もなく哀しげに思えてきた他のだ。
「眠いなら寝てもいいんだぞ」
一也は隣に座っている綾乃に言った。それが車に乗ってから初めて口を開いて出た言葉だった。
「はい。でも、全然眠たくないんです」
「そうか・・・。腹は減ってないか?」
「え?」
「いや、あんなこと起きた後だ。疲れて腹でも空かしてるんじゃないかと思って・・・」
一也がそう言うのを聞いていた綾乃は口を押さえ、くすくすと笑い始めた。
「な、何笑ってんだ?」
その様子を横目で見ていた一也はなぜか落ち着かなかった。
「あ、すいません。でも、一也さんがそんなに私のこと心配してくれるなんて思わなかったから、なんかおかしくて・・・」
一也は綾乃の言葉に動揺して、対向車線へ飛び出しそうになってしまった(!)。
「ば、バカ言え。俺がお前のこと心配する必要がどこにあるってんだ!」
「そうですよね・・・」
綾乃の表情が暗くなるのを見た一也は慌てた口調で、
「おい、別にお前がどうなってもいいってわけじゃないぞ。確かに少し、少しくらいは心配してたかもしれない。だが、さっきのはただ単純に『腹減ったんじゃないかなぁ』と思って聞いただけだ。あー、でもそれも勘違いするな。別にお前に健康になってもらおうとか思ってるわけでもない・・・・」
一也がぶつぶつと言い訳を言っているのを聞いて綾乃は口を押さえて笑いをかみ殺した。
「笑うな!」
笑う綾乃に一也は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「すいません」
謝る綾乃。しかし、その口元ははまだ微笑んだままだ。
「全く、なにがそんなに面白いんだ?」
一也の問いに、綾乃は間を置いてゆっくりと答えた。
「面白くて笑ってるわけじゃないんです。私、嬉しいんです。今までの一也さんの声って全てを拒絶するような、そんなものを感じていたんです。でも今の一也さんの声は、暖かい優しい声なんです。私、それが嬉しくて・・・・」
綾乃はそう言って照れたように顔をしかめた。
「か、勝手に言ってろ。俺は何も変わってない」
「・・・はい」
しばらくの間、車内は静寂が支配していた。二人とも伝えたい想いはたくさんある。しかし、それを口に出そうか迷っているようだった・・・。その沈黙の時間を破ったのは一也だった。
「今からお前の屋敷に向かう」
一也の言った一言に綾乃は驚きを隠せなかった。その証拠に綾乃の肩が小さくビクついた。
「俺はお前を殺そうとしてあの屋敷に侵入した。金子の襲撃さえなければ、誘拐擬いのことなんてしないはずだった。だが、今の俺はお前を殺さない。殺したくないんだ。だから、もうお前と一緒にいる理由はないんだ・・・・」
ハンドルを握り朝日が照らす道路から視線を外すことなく一也は言った。その言葉に嘘がないといえば嘘になるであろう発言。一也はわかっていた。仲介屋である哲を裏切り、殺しの世界から外れかかっている今の立場がとても危険なものでるという事実を・・・。その危険に自分が負けるときが来るかもしれない。そう考えるとこれから先、綾乃を元いた環境に戻すことが何より安全だろうと一也は考えたのだった。
しかし、そんな一也の苦渋の決断を綾乃はすぐさま吹き飛ばした。
「一也さんって、嘘つくの下手なんですね」
そう言う綾乃の表情は先ほどと同様、にこやかな笑みがこぼれていた。
「お、俺は本気だ!」
「だって、そうじゃないですか。一也さんさっき私のこと必要だって言ったばかりなんですよ」
綾乃にそう指摘され、一也は反論することが出来なかった。
「それに・・・私にも一也さんが必要なんです」
小さな声で続きを言う綾乃。その頬は朱に染まっていた。
「お前・・・・」
「私、後悔しません。一也さんと一緒なら・・・・」
それから先、二人はほとんど会話を交わさなかった。だが、そこには冷たい空気など存在しなかった。車内には暖かい空気が二人を優しく包んでいた・・・・。
すっかり朝を迎えた頃、一也は車を止めた。そこは一也の家がある住宅街、良助のことも考え戻ってきたのだった。「ここで待ってろ」綾乃にそう言って車を降りた。
一也は自宅の前まで行くとその衝撃的光景に目を見開いた。自宅には黄色いテープが張られ警官が立っている。・・・・と、一也は予想していたのだが、今目に映っている光景はそんな予想を粉々に打ち砕くものだった。
「コッラァ!貴様らみたいな若造に家を詮索されてたまるか、この馬鹿者どもがぁ!」
そう叫びながら竹箒を振り回しているのは叔父の良助である。家の前に立って警官たちをバッタバッタとなぎ払っている。一也は慌ててその場へと駆けつけて良助を抑えた。
「じいちゃん!」
「おお、帰ってきたか!」
良助は興奮してすっかり息が上がっている。
「警官相手になんてことしてるんだい。捕まっちゃうよ!」
「なに言ってるんじゃ?そんなことだからお前は彼女の一人も出来んのじゃ!」
「訳の判んないこと言ってないで、ほら落ち着いて!」
一也の必死の説得が何とか応じたのか、良助はなんとか落ち着いた。
虎二たちの襲撃で誰かが警察に通報したのであろう。死体の処理と操作で警官が来ることは当たり前のことだ。しかし、さすがの一也もまさか警官相手に良助がケンカしていたとは思いもしなかった。
おとなしくなった良助をお隣の田中正美の家へと押し込んで、一也は警官たちを家へと通した。銃などは万が一のことを考え全て車のバックの中だ。いくら捜査したところで一也が殺し屋などという証拠や手がかりは見つけることは出来ないだろう。
警官たちが手際よく家中に転がっていた死体を次々と運び、黄色いテープで家を囲まんでいく。一也の家はあっという間に警官たちでいっぱいになった。数人の警官からいろいろと質問されたが適当に答えて、一也は車へと戻っていった。戻ってみると綾乃が「何かあったのですか?」と心配そうな表情で一也に言ってきた。一也は「何でもない」と言って車を良助の居る田中正美の家の前へ移動させた。
「よし。降りるぞ」
一也は車を止めて綾乃の返事を待った。
「・・・・どこに行くんですか?」
不安でいっぱいの表情で綾乃は一也に見た。いや、綾乃の瞳には一也の姿は映っていない。それでも綾乃は一也の姿を求めていた。
「安心しろ。まだお前の家じゃない」
その言葉に綾乃は安堵の表情を浮かべた。それを見た一也もどこか安心した表情で車を降りると助手席の扉を開けた。
「ほら、気をつけろ」
綾乃を車から降ろすと一也は田中宅のチャイムを鳴らした。
「ここはどこですか?」
「俺の家の隣だ」
「え?」
「心配ない。ここの住人は安全な人だ」
一也がそう言い終わると玄関から田中正美が出てきた。
「一也さん、中で良助さんが待ってるわ」
「どうも」
そう言って中に入ろうとした一也は、正美が驚いたように綾乃を見つめているのに気が付いた。
「おんやまぁ・・・・」
一也はいやな予感がした。脳内で警報ベルが鳴る。
「良助さーん!大変よぉ!」
「ちょっと待って!」
一也がそう叫んだときにはもう遅かった。愛する正美の声に良助が勢い良く飛び出して来たのからだ。
「なんじゃ正美さん?大声出して」
「ほらほら、見てくださいよぉ」
「ん?・・・・むはぁ!ま、正美さん、わしはボケちまったんじゃろうか!」
「そんな急にボケるもんじゃありませんよ」
「じゃあ、目だけボケてしまったんじゃろうか?」
「なに言ってるんですか。私にもちゃぁんと見えてますよ」
二人の様子を見て一也はため息をついた。二人がここまで驚いている理由は一つ、一也の後ろに立っている綾乃の存在に他ならない。
「このぉ若造が!ついにカノジョが出来たか!」
良助が大声でわめいた。
「おめでたいわねぇ。良助さんよかったじゃないか、何とか死ぬ前に一也さんの晴れ姿が見れそうで」
正美が涙ぐむ。
「ちょっと待ってくれよ!」
一也は暴走し続ける二人を止めようと声を上げるが効果なし。
そして、綾乃は・・・。
「・・・・」
良助たちの発言に頬を赤くしていたのだった。
良助と正美、二人の暴走を何とか止めることの出来た一也は綾乃と共に居間のコタツ足を入れて座っていた。老人二人組みは台所でお茶を入れたり茶菓子を用意したりと急がしそうに動いていた。
正美家の居間は遠野家とほぼ同じ大きさだった。コタツとテレビ、そして大きな仏壇が置いてあるので一也は自分の家にいるのではと錯覚してしまいそうだった。
一也は綾乃のことを二人に『友達で盲目者。彼女とは最近知り合った関係で、上司の娘』とデタラメ含みで説明した。本当のことを言ってしまったら二人とも驚いて心臓発作でも起こしかねないだろう。元より、一也が殺し屋だということは良助ですら知らぬことなのだ。
綾乃のことと一緒に、一也は自分がここに来た理由も説明した。間を空けると良助が綾乃にいろいろと質問し始めるからである。「一也は友達だと言っとるが、本当はいい関係なんじゃろ?」とか、「綾乃さんはわしの初恋の人によう似ちょる」などなど・・・。これでは時間がいくらあっても足りない。一也は良助を黙らせ、なんとか自分の言いたいことを告げたのだった・・・。
「じゃあ、しばらく帰ってこないんじゃな?」
良助がお茶をすすりながら言った。
「うん。彼女の両親、つまり僕の上司が海外に出張に行くんだ。彼女一人なったら色々と大変だろうってことで、帰ってくるまで僕が面倒を見るよう命令されたんだよ。本当は僕の家が良かったんだけど、あの有様だからね。上司が別荘を貸してくれるって言ったから、お言葉に甘えることにしたんだ」
「私はいいと思いますよ」
正美はにっこりと笑いながら、答えに渋っている良助に詰め寄った。
「良助さん、もしかしたら一也さんのお嫁さんになるかもしれない人なんだからそのくらい大目にみてもバチは当たりませんよ。向こうに行って間違いの一つや二つあったほうが結婚する可能性だって増えるじゃない」
なんてこと言ってるんだこの人は!・・・一也は内心穏やかじゃなかった。
「それもそうじゃなぁ。正美さんさえいいと言うなら・・・」
渋々ながらも承諾する良助。
「それじゃあ、宜しく頼むよ。小母さん、じいちゃんのこと宜しくお願いします」
「いえいえ、気にしないで下さいな」
一也は一礼してその場から立ち上がり綾乃に手を貸して立たせてあげる。その様子を見た良助と正美も立ち上がった。
「おいおい、見送りなんて――」
「ええじゃろ、別に。それに、お前のことなど心配しとらん!」
「じゃあ、誰の心配を?」
「もちろん一也の未来の花嫁さんにじゃよ!」
一也はあきれてもう何も言えなかった。
良助たちの下を後にし、二人を乗せた車が行き着いた場所。そこはあの大きな屋敷、春日崎邸だった。車のエンジンを切って、一也が綾乃の表情を横目で見る。その表情はどこか緊張していた。そう、綾乃はここがどこなのか気づいていたのだ。
「降ろすぞ」
「本当に、本当に戻ってきたんですね・・・・」
そう言って綾乃の表情が一段と険しくなっていく。
「ここで暮らしてる時、義父の言いつけで私は何もさしてもらえませんでした。外に出ることなんて許してくれなかった・・・ここは私を閉じ込めていた鳥籠なんです。でも、一也さんが私を自由にしてくれました。私に、多くのモノを見せてくれました」
そう言って綾乃は一也のほうに顔を向けた。声と気配で予測したのだろう。しかし、映るはずのないその瞳で、綾乃は一也をじっと見つめたのだった。
「一也さん、約束してください。もし私がまた閉じ込められても必ずまた迎えに来てくるって」
「・・・気が向いたら、な」
照れ隠しの表情で、一也は外に出て助手席の扉を開けた。綾乃の小さな手を取って車から降ろした。そして、目の前の門に付けられた防犯カメラの前まで綾乃の手を引き連れて行った。
「すぐ、戻ってきますね」
「ああ、行ってこい」
カメラの映像から綾乃の帰りを知った屋敷の使用人たちが慌ただしく出てきた。その中に芳江と真二の姿もあった。
「お嬢様!」
「その声は、芳江さんですね。今まで心配かけて申し訳ありませんでした」
「いいえ、今こうして戻ってこられたんです。私はそれだけで十分ですよ」
芳江は綾乃の手を強く握り締めて、涙ながらにそう言った。
「中へ入りましょう。私、お義父様に話があるんです」
「はい」
「それと、あの方のことは・・・・」
綾乃の言葉に芳江は困った表情になりながらも、
「わかりました。なにも言いません。他の者にも私から言っておきます」
「・・・ありがとうございます」
綾乃と芳江、そして他の使用人たちが屋敷へと戻っていく中で、ひとりだけその場に残ったまま動かない男がいた。真二だ。
真二は無言のまま、車に寄りかかって立つ一也をじっと睨みつけた。
「俺に、何か用か?」
一也の声に真二は、ぐっと力の篭った声で答える。
「俺はあんたを許さない。認めもしない。例えお嬢様がなんと言おうとな!」
大声でそう叫んだ真二は走って屋敷の中へと消えていった。それを待っていたのか、門が自動で動き出し、道を閉ざしたのだった。
屋敷に戻った綾乃は真直ぐ自分の義父の待つ部屋の前へと向かっていった。しばらくの間、屋敷にいなかったからとはいえ、頭の中の地図を忘れることはなかった。
「お嬢様」
後ろから付いて歩く芳江が口を開いた。
「止めないで、芳江さん」
制止の声かと思い、先に言葉を出す綾乃。しかし、芳江の返事は意外なものだった。
「はい。止めません」
「え?」
「あの方には愛想が尽きました。今日をもって私は自主退職させてもらいます」
「芳江さん・・・・」
「ですから、遠慮せずに言ってしまいなさい。あの人と一緒に行くつもりなんでしょ」
芳江の言葉に驚きつつも、綾乃はそれに心が温かくなって小さく微笑んだ。
「なんだか芳江さんったら、まるで私の本当のお母さんみたい」
「あら、嬉しい。じゃあ今度は私の娘になるかい?」
「ええ、喜んで」
二人は本物の親子のように笑い合い。そして、芳江は綾乃を義父である宗雄のいる部屋へと送り出した。
部屋に入ると宗雄の歓喜の声が飛んできた。
「綾乃!戻ってきたんだな、本当に良かった!」
「お義父様、長い間の勝手な外出申し訳ありませんでした」
冷淡な声で綾乃が言う。
「今日はお別れを言いに来ました」
「な、なんだと!」
「家を出ます。あなたの鳥籠のようなこの家から出て行くと言ったんです」
今までの弱気だった綾乃からは想像も付かないような強い口調に、宗雄は動揺して言葉も出ない状態だ。
「あなたに引き取られ、ここまで育ててくれたことは本当に感謝します。ですが、私はあなたのペットでも何でもない。私は、人として私を必要としてくれる人の下へ、そして私にとっても必要な人の下へ行きます。どうか、お元気で」
それだけ言って部屋を出ようとした綾乃に、宗雄は走って追いつきその手を乱暴に掴んだ。
「離して!」
「ふざけるな!貴様は私の物だ。そんな勝手、許して堪るか!」
異常とも言える目つきで綾乃を見る宗雄は、あきらかに常軌を逸していた。二人の叫び声に気が付き芳江が割って入るが止まらない。その時だった。
「いい加減にしやがれ、この変体野郎!」
宗雄の顔に強烈なパンチが見事に決まりその場で派手に倒れる。
「真二君!」
芳江が驚きの声を上げた。真二は一也と別れた後、急いでここに駆けつけたのである。
「岡本さん?」
目の見えない綾乃は何が起きたのかわからないようで、困惑の表情だ。
「お嬢様・・・いや、綾乃さん」
真二はそんな綾乃の前に立ち、思い詰めた表情で話し始めた。
「俺、君のことが・・・好きだ。初めてここに来て君と会ってから、ずっと、好きだった」
「岡本さん・・・・」
真二の告白を受けた綾乃は一瞬驚きの表情をしたが、すぐに困ったような表情へと変わってしまった。
「はは、そんな顔しないでよ。俺だってバカじゃない、君の気持ちはわかってるつもりだ。君が誰を選ぶのか、君が必要としているのは誰なのかってことも、十分わかってるから・・・」
明るい声で微笑みながら言う真二に、綾乃は肯いた。
「岡本さん、ありがとうございます。私、とっても嬉しいです」
それは綾乃の正直な気持ちだった。盲目の自分を普通の女の子と同じように好きになってくれた真二に対しての、本当の気持ちだった。
「あいつ、外で待ってたよ。早く行ってきな」
「はい」
満面の笑みを見せて廊下を歩いて行く綾乃の後ろ姿を見ながら、真二もまた満足気に微笑んでいたのだった。
綾乃は芳江に手を引かれながら玄関へと戻ってきた。独りでも大丈夫だと言う綾乃を制し、芳江はここまで付いてきたのだった。
「行くんだね・・・」
「はい」
「・・・そう」
綾乃の答えに芳江の声は震えた。そして、抑えていた気持ちが溢れ出した。彼女は綾乃を後から思いっきり抱きしめた。綾乃の求めているもの、それは芳江にも痛いほどわかっていた。それ故に、行くなという本心を飲み込んでいる。そう、芳江も真二と同じなのだ。
「芳江さん・・・」
「なんか、本物の娘を見送る気分だわ」
涙ながらに言う芳江を、綾乃は振り返りその盲目の瞳でじっと見つめる。
「言ったじゃないですか。私のお母さんは芳江さんだって」
綺麗な笑顔だった。
芳江はその笑顔を見て、綾乃の気持ちが本物だと言うことを知ると同時に、この数週間でこんなにも強くなっていたのかと感心した。もう、泣き虫な綾乃はどこにもいない。
「ありがとう。それじゃあ、お母さんからクリスマスプレゼントよ」
そう言って綾乃に掴ませたのは新品の杖だった。
「さぁ、自分の足で行っておいで。あの人が待ってるわよ」
「ありがとう。本当に、ありがとう」
綾乃は玄関の扉を開けて、杖をその手に自分の足で歩き始めた。
機械音が鳴り響くのを聞いて、一也が目を上げると自動で門が開き、その向こうに綾乃の姿が確認出来た。その手には新しい杖が握られたいた。
ゆっくりと足下を確認しながら歩いてくる綾乃の姿に、一也の胸は不規則に鼓動を動かし、徐々にではあるが高鳴りを増していった。これから生活に不安がないわけではない。いつ金子のようなプロの殺し屋に命を狙われるかもわからない。まさに危険な逃避行となるだろう。しかし、一也はそれでも嬉しかった。そして、一也の脳裏に、綾乃の見せた表情が蘇る。
俺も、あいつになら・・・・。
その時、誰かが一也の後方からぶつかった。一也の視線が揺れて視界から綾乃の姿が消える。手を背中に回す、鋭い痛みと共に自分の背中にある突起物に触れた。ナイフだ。
「くっ!」
振り返るとそこには根塚が地面に座り込んでいた。その口から震えた声が一也の耳に飛んできた。
「仲間の、虎の兄貴の仇だ!」
銃を取り出し構えるも背中から来る激痛で狙いが定まらない。放たれた弾丸は地面を小さく抉った。逃げ出す根塚。追うことなど出来なかった。
力なくその場に尻餅をつく一也。痛みが薄れてゆくように感じた。血が流れすぎて感覚が鈍くなってきた証拠だ。
くそ、油断したか・・・・。
言葉にせず呟いた。一也はため息をしてうな垂れた。
「一也さん」
綾乃がすぐ傍まで来ていた。しかし、一也の場所が判らず手探りで探している。何度も手を伸ばしては、その手は空を掴むばかりだ。
「一也さん、どこですか?」
一也はその手を掴もうとするが届かなかった。
「一也さん、どこ?・・・一也さん!」
一也を求める手が繰り返し空を切る。歩み出たその足に一也の体が触れる。一也はその感覚すら鈍く感じてしまっていた。
「一也さん!」
言葉が出ない。意識が遠くなって、視界は徐々に黒で染まっていく。綾乃の声も次第に聞こえなくなっていった。
『綾乃・・・・』
一也は声にならない声を口にした。綾乃の顔が見たかった。その手を取ってあげたかった。脳裏に死という言葉が浮かび上がってくる。自分が今まで他者に振りまいていたもの、それが己に迫り来る現実に一也は直面していた。死ぬのが怖いわけではなかった。殺し屋として生きてきた限り、その覚悟は常に持っていた。だから死ぬのは怖くない。
それなのに、今の一也はまだ生きたいと願っていた。まだ死にたくないと心から願っていたのだ。
『そんな顔するなよ』
綾乃の顔をほとんど霞んだ視界が捉えた。
涙を浮かべる綾乃の顔に手を伸ばした。届かない。それでもよかった。
『・・・・ありがとう・・・・』
伝えたかった想い。それが声にならないまま、唇から零れた。
消えてゆく意識の中で、一也は確かに微笑んでいた・・・・。
おわり。
「微笑み」を最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。初投稿作品ともあって至らぬ点が多々あったと思います。しかし、メッセや評価してくださった方々や読者の皆様には本当に感謝の気持ちしかありません。
次回作も執筆中なので、またよろしくおねがいしますね。