幕間2
エリオットとは、もう長い付き合いになる。ジェオラ侯爵家は、前の工場のあった工業地域を見下ろす小高い丘の上にある。下町のディドリー達子供らが揃っておんぼろ校舎の小学校に通う中、今考えれば当たり前だが、エリオットは邸宅に招いた家庭教師と共に勉学に励んでいた。
全く接点のなかった2人だが、ディドリーはエリオットの噂をよく聞かされていた。親父はそういったことは嫌っていたが、陰口を言う人の口に戸は立てられない。興味がなくても、そういう情報は入ってくるものだ。
あそこの侯爵様のお子様って、養子らしいわよ。なんでもどこの馬の骨とも分からない男と駆け落ちした娘の子供なんですって。
いやねぇ。しかも、その男は逃げて、娘は原因がわからない死を遂げたって言うじゃない?
あら、心中したって聞いたわよ。
やだぁ。
くすくすくす…
エリオットの出生についてあることないこと下町で回っていた。刺激のない下町では貴族のスキャンダルは恰好のネタだったのだ。
無垢で残酷な子供はそんなエリオットの存在を揶揄して歌を歌ったり、嫌な奴の代名詞のように名前を使ったりしていた。
当時ディドリーは興味がなかった。気の毒だなぁとはぼんやりと思っても、それよりもシクターをいじる事に興味の大半を持って行かれていた。
出会ったのは、もう少しディドリーが大きくなってからだった。と言ってもまだ小学校に通っている頃、ディドリーは工場の手伝いに精を出していた。役に立ちたいというよりはただシクターが好きだったからだが、ディドリーは毎日工場でシクターをいじっていた。
そしてそんな頃、親父が汚れた工場には余りにも不釣り合いに上品な服装をした子供を連れてきた。
親父に肩を抱かれて工場に顔を出したその子供が誰だか分からなかった。
「親父。それ、何」
「拾った。遊んでやりなさい」
ぶっきらぼうに言った親父は、エリオットをディドリーの側置いて自分は工場の奥へ引っ込んでしまった。
その子供は何も話さず無表情に此方を見つめていた。此方の手先を。
「何見てんの」
返事は無く、じっと見つめる。
「名前は?」
そう聞くと、その子供の顔にさっと警戒の色が浮かんだ。そしてディドリーの顔に目線を向けて睨み付けるようにしてゆっくりと首を横に振った。
「名前。なんて言ったらいいの?」
ふるふると可哀想な位に首を振り続けるその仕草に若干の苛つきを覚えた。
「お前、何なの?口が聞けないの?」
そうわざとキツく言ってやると悔しそうに歯噛みしているのが分かった。
「僕は…エリオット・ジェオラだ」
半ば自棄のような口調で放たれたその言葉は十分にディドリーへ衝撃を与えた。
あのエリオット・ジェオラ。
噂されていたあの子供。
そう思って少し自己嫌悪に陥った。
そしてもう一つの衝撃はその子供が男だったということだ。細い線とくりくりした目がか弱い女の子のようだったから、男だとは微塵も考えなかった。
「お前…男なのか」
エリオットはふんと鼻を笑っていかにも偉そうにディドリーを見下ろした。
その時からだ。エリオットとの腐れ縁が始まったのは。エリオットは自分が貴族だということを激しく嫌い、しかしその態度はどこまでも貴族のものだった。下町は落ち着く、良いところだ、柵がないと繰り返し言ったエリオットのそれは、貴族からの視点だからこその感想に他ならない。何時だってエリオットはディドリーを下に見ていたし、それが当たり前過ぎて何の疑問が覚えていない。ディドリーはそれが嫌で始めの内は何度も衝突した。しかしもうそういう奴だと諦めて、はいはいと受け流すようになってからはかなり良好と言える関係を築けるようになっていた。
それからは週に1度ほど工房に顔を出すようになり、ディドリーの作業をじっと見つめるというのが常になった。素人に作業を見られるのは落ち着かないからこっちから話かければ、顔に出さないものの嬉しそうに言葉を返した。エリオットは感情表現が酷く下手で、しかし同時にとても分かりやすい人間だった。子供の割に大人びて大人しい癖に、よくよく付き合ってみれば誰よりも子供という困った天の邪鬼である。しかも自分に自覚がないから質が悪い。
それでも、エリオットといると気が楽なのは確かなのだ。ディドリーはエリオットの長所も短所の倍程も知っていた。
エリオットが騎士団に入ると言い出したのはそれからそう経たない夏の日だった。
いつものようにエリオットは屋敷を抜け出して工場にくるなり、暗い顔をして入り口の所で微動だにしなかった。
「エリオット?どうした、腹でもくだしたか?」
冗談めかして言ったが、エリオットは暗い空気を背負ったまま小さく首を振った。
「ディドリー…もう、お別れかもしれない」
なんの前振りも脈絡もなく、ポツリと零した。
「なんで」
そう聞いても、エリオットは此方を見ずに掌をぎゅっと握り締めた。
「僕、騎士団に入る事にした。“あそこ”にはもういられない」
“あそこ”というのがエリオットの屋敷だということは容易に察しがついた。けれど何が起きたのかを聞くつもりはなかった。きっと聞いても自分には理解できないだろうし、貴族のゴタゴタなんて聞きたくはない。
「騎士団の団長が、この間の剣技大会にいらっしゃって、僕に声をかけて下さったんだ。僕はきっと騎士団の役にたつだろうって」
エリオットは嬉しそうにするでもなく、淡々と述べた。
「良かったな」
ディドリーはシクターの作業に視線を戻した。
「だがな、あの大会は貴族のボンボンばかりが参加しているお遊びでしかない。あんなので優勝するのは当然だ。団長はあんなので僕の何を見たというのだろうか」
エリオットは他と比べて自分が優れていることを理解している。傲慢になっている訳ではなく、それをただ事実として受け入れているのだ。
それを傲慢と捕らえる者も少なくはないのだが。
「なにか感じる所があったんだろ」
エリオットの視線を後頭部に強く感じた。エリオットはその答えじゃ満足出来ないらしい。少しの間黙り込み、口に手を当てて思案する。
「兎に角、僕は騎士団に入る。お前とはもう会えるか分からない」
後頭部に突き刺さる視線に熱が帯びる。エリオットの真剣さがいやでも伝わってきた。
疑問があったままで、軽く入ってしまっていいものなのか?なぜ騎士団に。
騎士団の噂はいくらでも入ってきている。いずれも良い噂なんてものは殆どない。国との癒着だとか、貴族の権力誇示の為の機関だとか。そもそも、国の分裂は騎士団が原因だという声もちらほらと聞く。
何もそんな所に自ら進んで身を置かなくても。
そんな考えを読んだかのようにエリオットは言った。
「行く場所がない」
エリオットは自嘲するように卑屈な笑みを浮かべた。
「騎士団か、乞食になるかだったら、騎士になるのは当然だ」
なら…
ディドリーは言いかけた言葉を飲み込んだ。言っても仕方がない。うちの経済状況じゃエリオットを養うことは難しい。エリオットをうちに受け入れる事はできない。
「それに、団長は出来た人だよ。彼は庶民出身なんだ」
それは、自分自身に言い訳をしているようにも聞こえた。
「後悔しないのか?」
「しないさ。騎士団で登り詰めればいい話だ」
「なら、いい。話はそれだけか?」
エリオットはさも可笑しそうに吹き出した。
「らしくないぞ、ディドリー。いつもみたいに冗談の一つでも言ってみろよ」
笑ってはいるのに、楽しそうには見えなかった。眉根に寄せられた皺がなかなかとれないからかもしれない。
しかし、そうだ。いつもだったらエリオットのいうとおり、ふざけたことの一つでも言うところだった。
「いやよー、あんまりしんみりするからよ。感動のお別れしなきゃかなってな?でもなー恋人でもないのになー俺には難しい話は分かんねえよ」
俺は笑って見せた。エリオットはほっとしたような顔をした。
これでいい。
俺はいつもこうだ。道化を演じ、重さから逃げる。
真面目に、必死になることは俺には重い。
俺は、これからもきっとそうだ。
きっと、仮面を脱ぐことは出来ない。