第1話 異世界から帰還した翌日
朝。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、俺の顔を照らしていた。
鳥の声が聞こえる。
遠くから車の走る音も聞こえてきた。
俺はゆっくりと目を開け、見慣れているはずなのに、ひどく懐かしい天井を見上げた。
隼人「……夢じゃ、ないんだな」
小さく呟いてから、身体を起こす。
そこは俺――皆川隼人の部屋だった。
机の上には教科書やノートが置かれ、本棚には漫画や小説が並んでいる。壁には学校の制服が掛けられ、充電器につながれたスマートフォンが机の隅に置かれていた。
何も変わっていない。
本当に、何一つとして変わっていなかった。
それも当然だ。
この世界では、俺がいなくなってから一日程度しか経っていないのだから。
隼人「二十年、か……」
俺は自分の両手を見る。
若い。
どう見ても十六歳の少年の手だった。
だが、この手で何本の剣を握ってきただろう。
十六歳だった俺は、ある日突然、異世界へ召喚された。
そこは《リント王国》と呼ばれる国が存在する、剣と魔法の世界だった。
勇者として召喚された俺に与えられた使命は、魔王を倒すこと。
最初は何も分からなかった。
剣の振り方も知らなければ、魔物との戦い方も知らない。
ゴブリン一匹を前にして、本気で死ぬかもしれないと思った。
それでも戦った。
剣を学び、魔物と戦い、ダンジョンへ潜り、仲間と出会った。
傷ついたことなど数え切れない。
何度も死にかけた。
小さな魔物の討伐から始まった戦いは、やがて魔王軍との戦争へ変わった。
そして――二十年。
俺は仲間たちとともに魔王城へ攻め込み、最後には魔王を討ち取った。
十六歳だった俺は、本来なら三十六歳になっている。
ところが魔王討伐後、俺の前に現れた女神は、とんでもないことを言った。
女神『魔王討伐、お疲れ様でした! それでは約束通り、隼人さんを元の世界へ帰還させます!』
ずいぶん軽い調子だったのを覚えている。
俺としては、二十年越しの悲願を達成した直後だったのだが。
隼人『帰れるのか? 本当に?』
女神『もちろんです。ただし、そのまま帰してしまうと大変でしょう?』
隼人『大変?』
女神『隼人さんの世界では二十年経ってしまいますから』
その言葉を聞いた瞬間、俺は何も答えられなかった。
二十年。
父さんは五十八歳。
母さんは五十七歳。
姉さんは三十八歳で、妹だって三十三歳になっている。
俺の知っている家族とは、何もかも変わっているはずだった。
ところが女神は笑った。
女神『ですから、ご褒美その一です』
隼人『その一?』
女神『地球側の時間を調整します。隼人さんが召喚された翌日くらいに帰れるようにしておきますね』
隼人『……そんなことができるのか?』
女神『女神ですから』
とんでもない力の無駄遣いだと思った。
だが、俺にとっては何よりありがたい褒美だった。
そして目を覚ました俺は、十六歳の姿で日本へ帰ってきていた。
昨日、家族と再会した。
父さんも。
母さんも。
姉さんも。
妹も。
二十年前と――俺にとっては二十年前と、ほとんど変わらない姿でそこにいた。
母さんの顔を見た瞬間、何も言えなくなった。
父さんに肩を叩かれた瞬間、涙が出た。
家族にしてみれば、俺がいなくなったのは一日程度。
けれど俺にとっては、二十年ぶりの再会だったのだ。
隼人「……帰ってきたんだよな」
改めてそう呟いた。
剣を持つ必要はない。
魔物を警戒する必要もない。
夜中に敵襲が来ることもない。
眠っている間に魔族が襲撃してくる心配もない。
平和な日本だ。
ベッドから降りようとした、そのときだった。
廊下から足音が近づいてくる。
俺の身体が反射的に動いた。
重心を落とし、右手を腰へ。
だが、そこに剣はない。
隼人「……はは」
思わず苦笑した。
二十年の習慣というのは恐ろしい。
足音だけで戦闘態勢に入ってしまう。
直後、部屋のドアが勢いよく開いた。
祥子「お兄ちゃん! 起きてる!?」
飛び込んできたのは妹の祥子だった。
十三歳。
中学生。
俺の記憶にある姿とほとんど変わらない。
隼人「ああ。おはよう、祥子」
祥子「おはよう……って、なんでそんな嬉しそうなの?」
隼人「妹がおはようって言いに来たからな」
祥子「何それ。気持ち悪い」
隼人「ひどいな」
そう返しながらも、笑ってしまう。
こんな会話すら懐かしかった。
祥子「お母さんが朝ご飯できたって。早く来て」
隼人「ああ。すぐ行く」
祥子「あと、お姉ちゃんが待ってるよ」
隼人「姉さんも?」
祥子「昨日からお兄ちゃんの様子がおかしいって、ずっと気にしてる」
隼人「……まあ、そうなるよな」
十六歳の高校生が突然、三十代のような落ち着きを見せ始めれば当然だろう。
しかも昨日の俺は、家族を見た瞬間に泣いた。
家族からすれば、一日ほど行方不明になって帰ってきただけ。
俺からすれば二十年ぶりの帰宅。
その差を説明するのは簡単ではなかった。
着替えて一階へ下りる。
階段を下りているだけなのに、妙な感覚があった。
昔の俺なら何も考えずに歩いていた。
だが今は、階段の幅、天井までの高さ、曲がり角の死角まで無意識に確認してしまう。
隼人「……完全に職業病だな」
もう勇者という職業からは解放されたはずなのだが。
リビングへ入る。
知子「隼人、おはよう」
隼人「……母さん」
知子「なに?」
隼人「いや。おはよう」
母――皆川知子。
三十七歳。
俺が知っている母そのものだった。
キッチンから漂ってくる味噌汁の香りに、胸の奥が熱くなる。
テーブルには白いご飯、焼き魚、卵焼き、味噌汁が並んでいた。
たったそれだけで、俺は動けなくなった。
祐美子「隼人?」
姉の祐美子が、不思議そうに俺を見る。
祐美子「どうしたの?」
隼人「……いや」
祐美子「また泣きそうな顔してるけど」
隼人「二十年ぶりだからな」
祐美子「昨日も食べたでしょ?」
隼人「俺にとっては二十年ぶりなんだよ」
祐美子「……昨日からそれ言ってるよね」
姉さんが困ったような顔をする。
無理もない。
まだ全部を説明できていないのだから。
父さんもすでに席についていた。
皆川亮太、三十八歳。
《株式会社アストラル・リンク》の社長だ。
父さんの会社が何か新しいことを始めているらしいことは、異世界へ召喚される前にも聞いていた。
だが俺にとっては二十年前の話なので、正直ほとんど覚えていない。
亮太「隼人」
隼人「ん?」
亮太「飯を食ったら、昨日の話をもう一度聞かせてくれ」
隼人「異世界のこと?」
亮太「ああ」
父さんの表情は真剣だった。
亮太「正直、まだ信じ切れてない」
隼人「そりゃそうだ」
亮太「だが、お前が嘘をついているようにも見えない」
知子「私もよ」
母さんが味噌汁を置きながら口を挟む。
知子「昨日から隼人の動きを見ていたけど……明らかに以前と違うもの」
隼人「動き?」
知子「さっきも私がキッチンで皿を落としそうになったとき、振り返る前に反応してたでしょう?」
隼人「音がしたからな」
知子「それだけじゃないわよ」
さすがホワイトハッカー。
というのは関係ないかもしれないが、母さんは昔から観察眼が鋭い。
祐美子「というか、本当に異世界に二十年いたの?」
隼人「ああ」
祥子「魔法もあった?」
隼人「あった」
祥子「ドラゴンは?」
隼人「いた」
祥子「本物!?」
隼人「本物」
祥子「勇者だったの?」
隼人「一応な」
祥子「魔王は!?」
隼人「倒した」
祥子「お兄ちゃんすごっ!」
妹だけ順応が早い。
祐美子「祥子、簡単に信じすぎ」
祥子「だって本当だったら格好いいじゃん!」
隼人「まあ、格好いいことばかりじゃなかったけどな」
戦争だった。
物語の勇者のように、魔王を倒して終わりという単純な世界ではなかった。
多くのものを失った。
それでも俺は生き残った。
そして帰ってきた。
知子「とりあえず食べましょう。せっかく作ったんだから」
隼人「ああ」
俺は席についた。
箸を持つ。
味噌汁を一口飲んだ。
隼人「…………」
知子「隼人?」
隼人「うまい」
知子「普通のお味噌汁よ?」
隼人「俺には二十年ぶりの母さんの味なんだ」
母さんが何も言わなくなった。
姉さんも、祥子も静かになる。
父さんだけが、小さく息を吐いた。
亮太「……本当に二十年だったんだな」
隼人「ああ」
そのときだった。
突然、リビングの空間が淡く輝いた。
隼人「――っ!」
俺は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
反射的に家族の前へ出る。
亮太「隼人!?」
知子「何、この光!?」
白い光。
魔力反応。
間違えるはずがない。
隼人「全員、下がって!」
武器はない。
それでも俺は家族を背に庇った。
光がさらに強くなる。
空間が歪んだ。
そして。
光の中から、一人の少女が姿を現した。
長い髪。
整った顔立ち。
見慣れた旅装。
俺が二十年間、何度も見てきた姿。
隼人「…………え?」
俺は固まった。
少女がゆっくりと目を開く。
俺を見つけた瞬間、その顔に笑みが浮かんだ。
シルフィア「隼人様!」
少女は迷うことなく俺へ駆け寄った。
そして、そのまま胸へ飛び込んでくる。
隼人「シルフィア!?」
シルフィア「はい!」
俺は慌てながらも彼女を受け止めた。
温かい。
幻じゃない。
隼人「なんで……お前がここに?」
シルフィア「女神様がお送りくださいました」
隼人「女神が?」
その言葉で思い出した。
女神『ご褒美その一です』
そうだ。
あの女神は確かに言った。
その一、と。
隼人「まさか……」
嫌な予感がした瞬間、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
女神『隼人さん。ご褒美その二です!』
隼人「やっぱりお前かああああ!」
家族全員が目を丸くしている。
もちろん女神の声は俺にしか聞こえていないらしい。
そんな家族を前に、シルフィアは俺から離れると、ドレスではなく旅装の裾を整えた。
そして王女らしい優雅な所作で一礼する。
シルフィア「突然の訪問、失礼いたしました」
亮太「え、あ……はい」
知子「あなたは……?」
シルフィア「申し遅れました」
シルフィアは微笑んだ。
シルフィア「シルフィア・リントと申します。異世界《リント王国》第一王女です」
祥子「王女様!?」
祐美子「ちょっと待って」
姉さんが額を押さえた。
祐美子「なんで異世界の王女様がおうちに来るの?」
シルフィア「はい。それは――」
俺は止めようとした。
隼人「シルフィア、ちょっと待――」
遅かった。
シルフィアは満面の笑みを浮かべた。
シルフィア「私が隼人様の妻だからです」
沈黙。
リビングから、完全に音が消えた。
祥子「…………」
祐美子「…………」
知子「…………」
亮太「…………」
そして数秒後。
祐美子「はあああああああああああっ!?」
姉さんの叫び声が、皆川家いっぱいに響き渡った。
祐美子「隼人! あんた昨日まで十六歳だったよね!?」
隼人「今も十六歳だ」
祐美子「そういう意味じゃない!」
祥子「お兄ちゃん、結婚してたの!?」
隼人「異世界ではな」
知子「ちょっと待って。お母さん、情報を整理するから」
亮太「……俺も整理させてくれ」
父さんは頭を抱えていた。
無理もない。
父さんたちにとって俺が消えていたのは、たった一日程度。
その一日の間に、息子は異世界で二十年を生き、魔王を倒し、そのうえ王女と結婚して帰ってきた。
我ながら説明だけ聞けば意味が分からない。
そんな家族の混乱など気にする様子もなく、シルフィアは俺の隣で幸せそうに微笑んでいた。
こうして。
魔王を倒して異世界から帰還した俺――皆川隼人の、久しぶりの日本での生活が始まった。
このときの俺はまだ知らなかった。
父さんと母さんが、とんでもない誕生日プレゼントを用意していることを。
そして、そのプレゼントをきっかけに。
魔王を倒した俺が今度は《ミナト》という名のLv1剣士として、剣と魔法の世界へもう一度足を踏み入れることになるなんて――。
まだ、知る由もなかった。




