蜘蛛女
一体、君の美しさで幾人の男の人生を狂わせてきただろうか
日本古来から沸々と精製されたような漆の豊かな髪を垂らした
血の気のないその肌はまるで白磁のようで
爛々と燿る切れ長の目のあたりには泣き黒子
如月の椿の艶色を唇に湛え
口を開くは悪魔の囁き、或いは快感を伴う罵倒
細長い首筋の、項の咽返る香りは今宵も拝めるだろうか
しなやかな脚で蹴られ踏み躙られ
計り知れず残虐の性でも甘んじて受け入れてしまう
とりわけ一糸纏わぬ君は観る者を跪かせ或は崇め足を舐める者だっているだろう
君はまた、したり顔でそんな醜男を心底嘲笑するだろう
君の美しさは狂気であり、凶器だ。
時は昭和四十六年。
戦後から数十年が経ち未だに世相は激動の連続であったが、その中でも人々の暮らしは豊かになり街には活気が溢れていた。
その都会の喧騒を固めたような、目が潰れそうに派手なネオンと煙草の臭いが巻く夜の新宿の繁華街にひっそりと佇むホテルの大きなベッドの上で彼女は男と一緒にいた。
「貴美江・・貴美江・・」
がたいのいい男は汗ばみながら息を荒げ、狂ったように何度も名前を呼び果てていった。
上に乗っている貴美江はアイシャドウの凍るような目で情けない男を見つめていた。
「あら、早かったわね」
酒焼けして色めく声で先に果ててしまった彼を責めた。
男は顔を腕で隠した。
「やめてくれ、こんなに見つめられると自分が恥ずかしい」
彼女はにんまり笑って男の腕をのけて顔を近づけた。
「なによ、本当は嬉しいくせに」
筋肉質な彼の体に、豊満な胸が擦りつけられるように当たった。
興奮した男は思わず彼女の嫋やかな体を抱きしめた。
貴美江の髪から漏れるムスクと金木犀を混ぜたような体臭がさらに彼を絶頂の快楽へ突き落した。
満足した男は極楽にいる気持ちで大いびきをかいて寝た。
貴美江はその無防備な寝顔を鼻で嗤い、シャワールームで汗を洗い流すことにした。
火照った体を冷ましてくれる三十八度のシャワーは男の穢れを薄めてゆく。
髪を掻き分け、恍惚の表情で顔を濡らした。
さっぱりした貴美江は聖女のような白い肌にタオルを巻きふと全身鏡を目にした。
すると鏡に映る自分の姿に驚愕し顔を青くした。
(迂闊だったわ・・気をつけていたのに)
鏡に映るそれは長い髪は乱れ、苔生した岩のような醜女の顔だった。
腫れぼったく恨めしそうな目で見つめている醜女に貴美江は奥歯を噛みしめ、化粧台に置いていた口紅を鏡に投げつけた。
「この阿婆擦れ!お前なんか野良犬に臍を引き千切られて死んじまえ」
快楽の後の微睡みを引き裂くような金切り声が聴こえたので男は驚いてすぐさま貴美江の部屋に入った。
「どうした!泥棒か!?」
粉々になった鏡の前で小刻みに震えて佇んでいた貴美江は彼の気配を感じた途端、まるで別人のようににっこりと微笑んだ。
「なんでもないわ。いつものことよ」
「そうか・・ヒステリックはほどほどにしてくれよ」
こうしてそれから何事もなく一夜は過ぎていった。
次の日、男はホテルの鏡の破片が全身に刺さって死んでいた。
「またか!何度殺したら気が済むのだ」
遺体を前に刑事は激怒した。
そう、ここ三か月前から成人の男が立て続けに怪死しているのだ。
当時、監視カメラは普及されておらず、とりあえず男が同伴した女の顔を覚えているというホテルの従業員の証言を元にモンタージュを作った。
すると必ず他の殺人の目撃者の証言と同じ女の顔になるのだ。
「この女は一体誰なんだ」
「すみません遅くなりました」
頭を抱えている現場の空気を割るように若い刑事が能天気に遅れて現場に着いた。
「新堂君、何時だと思っているのだ」
青筋を立てて怒る先輩刑事に軽く謝り新堂は横たわる遺体を眺めた。
「おや?口の中が光っている。何だろう」
「おい、触るなよ」
彼は先輩の話も聞かずに遺体の口から固い筒状のものを取り出した。
それは海外ものの高級な口紅だった。
「こんなものを入れられて、これはさぞ苦しかったろうに」
先輩はすぐさま彼の手から口紅を取り上げた。
「君はなぜいつも勝手なことをするのだ」
「すみません、僕は昔からこんな性分なもので」
こう見えて彼は人並み外れた勘と執着心に定評があり、おかげで交番勤務時代に検挙率九割という驚異の数字を叩いた敏腕の警察官である。
今回この功績を認められ県警本部に異動となり、早速この連続殺人の捜査を担当することになったのだ。
「またあの蜘蛛女がホシのようだ」
肩まで伸ばした髪を掻き上げ、先輩から貰ったモンタージュを見て「相変わらずべっぴんな顔をして」と呟いた。
まだ未公開の事件であるが、この容疑者の美貌と殺人の残忍さに捜査をしている刑事の間では蜘蛛女という名前で通っている。
一通りの現場検証が終わり、家に帰ることにした。
更衣室で制服を脱ぎながら新堂は一番親しい先輩に話しかけた。
「男なら是非一度この蜘蛛女にお目にかかりたいものですね。あの顔にはこう、男の本能を燻らせるものを持っているような気がします」
水筒の水を飲み先輩は応えた。
「そりゃ私も同感だが、そう言ってお前さんには彼女がいるだろう?」
「彼女は特別ですよ。僕はあんな高慢そうな女には興味はないもので」
「そうか、お前みたいないい男には釣り合っていると思うがね」
「冗談はよしてください」
二人はこう言って豪快に笑った。
鼻歌を唄いながら新堂はアイボリーに変色してあちこちヒビが入った外壁のアパートまで自転車を走らせた。
ギシギシと撓る木造の階段を上り203号室のドアを開けようとした。
「あら、おかえりなさい」
恋人の百合子が彼の気配に気づき先にドアを開け、ひょっこり顔を出した。
新堂は彼女の可愛らしい仕草に失笑した。
「やあ、ただいま。元気してたかい?」
決して美人ではないが素直で愛嬌のある娘だ。
そんな彼女に一目惚れした新堂はこのボロアパートでひとつ屋根の下で暮らしている。
百合子はコンロの火を消して鍋のものの味見をした。
部屋中にほくほくとした煮物の匂いがした。
「今晩は肉じゃがを作ったの」
部屋着に着替えた新堂は
「晩ごはんはまだ早いだろう?」
白い歯をむいて笑う彼に目を輝かせた。
「また聴かせてくれるの?」
新堂は窓辺に座り、橙に沈む夕日に照らされながらフォークギターを掻き鳴らした。
そしてまだ手に入れたばかりの平和の歌を口ずさんだ。
百合子は幸せそうに彼の歌を聴いた。