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外伝二『新たなる挑戦者――No.13の後継者』(後編)

* * *

放課後。桜ヶ丘高校。グラウンド。


夕陽が校舎の影をグラウンドに長く伸ばしていた。部活動の生徒たちは既に引き上げており、広大なグラウンドには人影がない。


――いや、一つだけあった。


グラウンドの中央に、石動姫華が立っていた。


漆黒のゴスロリドレス。フリルとレースとリボン。腰まで届く黒髪。厚底レースアップブーツ。学校のグラウンドに、あまりにも不似合いな出で立ち。


それゆえに、嫌でも目を引いた。夕陽に照らされた黒いドレスが、周囲の茶色い土の上で異彩を放っている。ビスクドールのような白い肌が、オレンジ色の光に染まっている。


校舎の方から、三つの人影が歩いてきた。


悠真を先頭に、環奈と紅音が左右に並んでいる。


姫華の紫の瞳が、三人を捉えた。


「お待ちしていましたわ、榊原悠真さま」


姫華の声が、グラウンドに響いた。甘く、高く、しかし芯の通った声。


悠真は姫華の五メートル手前で足を止めた。


「石動姫華。現No.13」


「ええ。あなたの席を引き継がせていただいた者ですわ。以後、お見知りおきを」


姫華は優雅にスカートの裾を摘んで、カーテシーの礼をした。ゴスロリドレスのフリルがふわりと広がる。


悠真はポケットに手を入れたまま、姫華を観察した。小柄。華奢。だが、立ち姿には隙がない。異能者としての自覚と自信が、全身から滲んでいる。


姫華の大きな瞳が、悠真の背後の二人を捉えた。


「そちらが遠山紅音さまと、氷室環奈さま。噂は聞いておりますわ。万象の簒奪者と、異能を持たない才媛。なかなか面白い取り合わせですこと」


「あなたが新しいNo.13?」紅音が一歩前に出た。二人の視線が交差する。「ずいぶん派手な格好ね」


「派手ではなくてよ。これがわたくしの正装ですわ」


姫華はティアラ型のヘアアクセサリーに手を触れた。


「さて。挑戦状をお受けいただけたということは、逃げる気はないと解釈してよろしくて?」


「逃げるわけないだろ」


悠真はポケットに手を入れたまま、一歩前に出た。


「始めるか」


姫華の唇が、にぃ、と弧を描いた。


「では——ご覚悟を」


姫華の右手が、掲げられた。


重力牢獄グラビティ・ジェイル≫——発動。


見えない力が、グラウンドの空気を歪めた。


最初に異変を感じたのは紅音だった。身体が、突然重くなった。


いや、「重くなった」という表現は正確ではない。身体そのものの重量が変わったのではない。重力が変わった。足元から、圧倒的な力で地面に引きずり込まれる感覚。


通常の重力加速度は9.8m/s²。それが——一瞬で数倍に跳ね上がった。


「っ——!」


紅音の膝が折れた。立っていられない。視界が暗くなる。血液が下半身に集中し、脳への血流が途絶えかける。


G-LOC。高G環境下で起きる意識消失。戦闘機のパイロットが急旋回時に経験する現象。それが、地上で、立ったままの状態で起きている。


紅音の意識が、暗転した。


ぐらり、と。小柄な身体がグラウンドの土の上に倒れた。プラチナブロンドの髪が砂に広がった。


「紅音!」


環奈が叫んだ。駆け寄ろうとして——環奈の足も、止まった。重力は感じない。だが、悠真が片手で環奈を制していた。


「下がっていろ、環奈。お前に重力をかけられたら、俺には守れない」


環奈は唇を噛んだが、頷いてグラウンドの端まで後退した。


悠真は倒れた紅音を一瞥し、それから姫華に視線を戻した。


姫華は右手を掲げたまま、得意そうに微笑んでいた。


「あらあら、万象の簒奪者さまが一撃でダウンですの? もう少し粘ると思っていましたのに」


「……俺じゃなく、いきなり紅音を狙うか」


悠真の声に、初めて硬質な響きが混じった。


「だって、お仲間が横から介入してきたら面倒ですもの。先に退場していただきましたわ。ご安心くださいまし。失神させただけですわ。後遺症はございませんの」


姫華はくるりと一回転した。フリルのスカートが広がって、黒い花のように舞った。


「さて、悠真さま。わたくしがこの場所を指定した理由、お分かりになって?」


姫華は両手を広げ、グラウンドを示した。


「放課後のグラウンド中央。周囲に何もない。建物も、車両も、人も。あなたの虚数演算が操作できる変数が、極端に少ない場所ですわ」


悠真は黙っていた。


姫華の分析は正しかった。雨貝との戦いでは、アーケード商店街の店舗や、車両や、ケーキを持った少女まで操作して勝利した。環境変数が多いほど、≪虚数演算≫の選択肢は広がる。逆に、変数の少ない場所では手数が限られる。


「さらに」


姫華は人差し指を立てた。黒いネイルが夕陽を反射して光る。


「わたくしの異能には、確率操作は通じませんわ!」


満面のドヤ顔。


「重力はニュートンさまが発見した絶対普遍の物理法則! 万有引力定数Gは宇宙のどこでも一定! 確率の揺らぎなど、重力の前では無意味ですわ!」


姫華の声がグラウンドに響いた。自信に満ちた、朗々とした声。


「確率操作で重力を『発生しない確率100%』にすることは不可能! なぜなら重力は確率事象ではなく、質量が存在する限り必ず発生する決定論的な力だから! 量子レベルの不確定性は重力には適用されない! 少なくとも、人類の物理学の範疇では!」


環奈がグラウンドの端で呟いた。


「……彼女、頭はいいわね」


悠真も、内心で認めた。


確かにそうだ。姫華の分析は正確だった。≪虚数演算≫は確率を操作する異能であり、確率事象でないものには直接干渉できない。重力は決定論的な物理法則。「重力が発生しない確率」というものは存在しない。質量があれば重力は発生する。それは確率ではなく、必然だ。


さらに、姫華の異能には発声トリガーも発動モーションも見当たらない。赤羽や簑島のように「声を封じる」戦法は使えない。念じるだけで重力場を生成している。初動を狙って崩すこともできない。


だが——それでも。


虚数演算イマジナリー・カリキュレーションをもってすれば、いくらでもやりようはある。


「言いたいことはそれだけか?」


悠真の声は、平坦だった。


姫華の目が鋭くなった。大きな瞳が、戦意で燃えている。


「榊原悠真……最強の異能者! わたくしの異能チカラで、無様に失神あそばせ!」


姫華の右手が悠真に向けられた。


重力牢獄グラビティ・ジェイル≫——全力発動。


悠真の周囲の重力が、跳ね上がる。通常の十倍。九十八m/s²。体重六十五キロの悠真が、六百五十キロの重さで地面に押しつけられる。


その瞬間——


虚数演算イマジナリー・カリキュレーション≫。


悠真が操作したのは、重力ではなかった。


グラウンドの砂利だった。


「グラウンドの土壌に含まれる微細な砂粒が突風によって巻き上げられる確率」——百パーセント。


「巻き上げられた砂粒が石動姫華の瞳に侵入する確率」——百パーセント。


グラウンドに、突風が吹いた。


乾いた土と細かい砂利が、旋風のように舞い上がった。姫華のゴスロリドレスのスカートが大きく膨らみ、フリルが暴れた。


そして——砂粒が、姫華の大きな紫色の瞳に、容赦なく飛び込んだ。


「きゃっ……!」


反射的に目を閉じた。


ほんの一瞬。だが、悠真にとってはそれで十分だった。


≪虚数演算≫——第二段階。


「一瞬目を閉じた石動姫華が、目を開けた時に榊原悠真を見失う確率」——百パーセント。


姫華が砂を払い、目を開けた。


悠真がいない。


一秒前まで目の前にいたはずの少年が、消えていた。


「……っ!? どこ……!?」


姫華は周囲をきょろきょろと見回した。グラウンドの中央。だだっ広い空間。隠れる場所なんてない。なのに悠真の姿が見えない。


それは確率操作の結果だった。悠真の姿は消えていない。ただ、姫華の視覚情報処理が、悠真の存在を「認識しない」方向に歪められている。砂埃で一瞬視界が途切れた隙に、認知の確率を書き換えた。


姫華が必死に悠真を探している、その背後から——


悠真が、姫華の背中に密着した。


両腕が、姫華の身体に回された。


後ろから抱きしめる形。悠真の胸が姫華の背中に触れ、悠真の腕が姫華の胸の前で交差した。


その腕が——姫華の胸の膨らみを、下から押し上げるような位置に。


ゴスロリのブラウス越しに伝わる、柔らかな弾力。推定Dカップ。


「きゃあああっ!!?」


姫華の絶叫が、グラウンドに響いた。


顔が一瞬で真っ赤に染まった。耳まで。首まで。ティアラが揺れ、ラインストーンが夕陽を乱反射させた。


「ちょ、ちょちょちょっと! どこ触ってますの!!」


「動くな」


「今は戦闘中ですわ! セクハラしてる場合じゃなくてよ!!」


姫華はじたばたともがいた。だが悠真の腕はびくともしない。格闘技術で鍛えた腕力と、最適なポジショニング。姫華の小柄な身体では振りほどけない。


「落ち着け。これでわかっただろ、お前の異能の弱点」


悠真の声は冷静だった。耳元で囁くような距離。姫華の耳が、さらに赤くなった。


「……弱点、ですって?」


「お前の≪重力牢獄グラビティ・ジェイル≫。さっき紅音を攻撃した時、観察させてもらった」


悠真の声は冷静だった。背中に密着した姫華の体温を感じながらも、頭脳は完全に戦闘モードだった。


「紅音に重力をかけた時、周囲の土埃の舞い上がり方でわかった。紅音を中心に、半径約二メートルの円状に重力場が発生していた。つまり――お前の異能は、効果範囲をピンポイントで絞ることができない。対象を中心とした、ある程度の範囲に重力場を展開する仕組みだ」


姫華の顔から赤みが引いた。代わりに、青白い緊張が浮かんだ。


「さらに、お前が紅音に重力をかけた時、視線が紅音に固定されていた。視認した範囲にしか重力場を展開できない。今、お前の背後にいる俺は——お前の視界の外だ」


悠真は言った。


「そして今、俺はお前の背中にぴったりくっついている。この距離で≪重力牢獄≫を発動したら、俺だけじゃなく――お前ごと、潰れる。二メートルの効果範囲を精密に制御してお前だけ除外することは、できないだろう?」


姫華の唇が、悔しそうに震えた。


「で、でもっ……!」


姫華は声を絞り出した。


「これでは、わたくしにくっついて異能の発動を封じたというだけで、ただの時間稼ぎみたいなもの! あなたが離れた瞬間に、わたくしの重力牢獄グラビティ・ジェイルはあなたを押しつぶしますわ!」


「本当にそう思うか?」


悠真の腕が動いた。


姫華の胸元から腕を外し、代わりに——細い首に、腕を回した。


「ひゃっ……!」


姫華が変な声を出した。首に回された腕の感触。悠真の体温。鼓動。


「あまりやりたくはないが」


悠真の声は静かだった。


「このまま、お前を締め落とすことができる。裸絞め。頸動脈を圧迫すれば、五秒で意識が飛ぶ。お前が俺を重力で失神させる前に——お前の方が先に失神する」


姫華の呼吸が止まった。


首に回された腕の力は、まだ弱い。締めていない。だが、その気になれば一瞬で締まることを、姫華の身体が本能的に理解していた。


「チェックメイトだ。さすがに、負けを認めた方がいい」


沈黙がグラウンドに落ちた。


「う~~~~!」


姫華は悔しそうに唸った。紫の瞳が潤んでいる。悔しさと、恥ずかしさと、認めたくない敗北の予感で。


そして——追い打ちが来た。


グラウンドの端で倒れていたはずの紅音が、むくりと起き上がった。


土埃を払いながら、何事もなかったかのように立ち上がる。プラチナブロンドの髪に砂がついているが、赤い瞳は明確な戦意を湛えていた。


姫華の目が、限界まで見開かれた。


「ななななっ、なんでっ……!? 失神したはずなのに、もう起き上がれますのっ!?」


紅音は髪についた砂を手で払いながら、涼しい顔で答えた。


「重力の異能だって気づいたから、すぐに万象の簒奪≪オムニ・テイク≫で対G訓練を受けた戦闘機パイロットの才能をコピーしたの」


紅音は歩きながら続けた。


「G-LOCに対する耐性技術。抗Gストレイニング・マヌーバ。下半身の筋肉を収縮させて血圧を維持し、脳への血流を確保する。パイロットが九Gまで耐えるための技術よ。コピーして即座に発動して、そのままやられたフリをして倒れた。重力の影響を最小限に抑えながらね」


姫華の顔が、絶望に染まった。


悠真を倒すどころか、紅音すら倒せていなかった。完璧に決まったと思った先制攻撃が、実は完璧には決まっていなかった。


「万一、悠真がやられちゃったら、隙を突いて攻撃しようと思ってたけど……」


紅音は悠真を見て、肩を竦めた。


「必要なかったみたい」


「俺がやられるわけがないだろ」


悠真は当然のように言った。


元No.13に密着されて身動きできない。しかも倒したはずのNo.7が平然と立っている。二対一の上、悠真はその気になればすぐにでも姫華を絞めて落とせる。


どう考えても、完敗だった。


「………………降参ですわ」


姫華は小さな声で呟いて、悠真の腕の中で、がっくりと肩を落とした。


悠真は腕を解いた。姫華は解放された瞬間、三歩飛び退いて、両手で自分の身体を抱いた。顔は真っ赤。涙目。


「こっ……この屈辱、忘れませんわ……!」


姫華は悠真を指差した。紫の瞳が、悔しさと怒りと羞恥で燃えている。


「榊原悠真! 遠山紅音! いつかリベンジさせていただきますわよ!」


完璧なまでの、敗者の捨て台詞。


姫華はゴスロリドレスの裾を翻して、グラウンドから走り去った。厚底ブーツが土を蹴る音が遠ざかっていく。途中で一度だけ振り返り、「覚えてらっしゃいっ!」と叫んで、校門の向こうに消えた。



グラウンドに、三人が残された。


夕陽が最後の光を放ち、空が茜から藍に変わり始めている。


「……行っちゃったね」


紅音が姫華の去った方向を見て、ぽつりと言った。


「元気な子だったわね」


環奈がグラウンドの端から歩いてきながら、苦笑した。


「ところで悠真」


「ん?」


「あの子に後ろから抱きついたの、本当に戦術的な必要性があったの?」


環奈の声に、氷点下の温度が混じった。


「異能を封じると同時に、絞め技で詰ませるため。それ以外にどんな理由があるんだ」


「……そう。ならいいわ」


環奈はそっぽを向いた。いいわ、の語尾が微妙に尖っていた。


「悠真ってば、わたしの時もそうだけど、女の子との距離感おかしいよね」


紅音が腕を組んで、ジト目で悠真を見た。


「紅音の時って何だ」


「訓練フロアで転ばせて……その、スカートめくったでしょ」


「あれは確率操作の副産物で――」


「副産物で済ませないで」


二人のヒロインに挟まれて、悠真は居心地悪そうに首の後ろを掻いた。


確率操作で世界を歪められる天才が、美少女二人の詰問から逃れる確率は――たぶん、ゼロだった。



「……帰るか」


悠真は鞄を拾い上げた。


「帰りにアイス買ってよ、悠真」


「暑かったから、私も欲しいわ」


「はいはい……」


三人は校門を出て、夕暮れの道を歩き出した。


いつもの配置。悠真が真ん中。環奈が左。紅音が右。


まだ騒がしくて、退屈しない日常は、続いていきそうだった。


新しい挑戦者が現れた。きっとまた来る。「覚えてらっしゃい」と言い残して去ったゴスロリの少女は、約束を守るタイプだろう。


それでいい。


悠真は夕陽を見上げて、小さく笑った。


世界は、今日も面白い。そして、きっと明日も、明後日も。

退屈じゃない日常は、終わらない。


新しい挑戦者が現れ、新しい物語が始まる。


騒がしくて、危なっかしくて、少しだけ温かい日常は、ずっと続いていくだろう。


これからも、ずっと――


外伝二『新たなる挑戦者――No.13の後継者』 了

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