第十二章『原初の設計者――盟主の真実』(後編)
ニュースが世界を揺るがした。
小惑星2024-XR7。直径約八百メートル。地球に接近中。
NASAをはじめとする各国の宇宙機関が一斉に発表した。だが、衝突の確率は極めて低い。地球との最接近距離は約十八万キロメートル。月の距離の約半分。近いが、衝突はしない。限りなく低い確率。
専門家は言った。「地球への影響はない」と。
社会は落ち着いていた。人々は日常を続けた。
時田も、気にしていなかった。
だが。
小惑星は、予測を裏切った。
軌道が変わった。ほんのわずかに。天文学者たちが首を傾げるほど微小な軌道変化。しかしその微小な変化が、累積して、小惑星を地球衝突コースに乗せた。
気づいた時には、遅かった。
世界がパニックに陥った。各国政府が緊急声明を出し、株式市場が暴落し、暴動が起き、人々が祈り、泣き、叫んだ。
時田は——時間を戻した。
小惑星が接近する前まで。まだ誰も危機に気づいていない時点まで。
そして、別のアプローチを試した。各国の宇宙機関に匿名で警告を送った。軌道計算のデータを提供した。迎撃ミサイルの開発を促した。
だが、何をしても、小惑星は地球に衝突した。
時間を戻した。別のアプローチ。
衝突。
戻した。別の手段。
衝突。
何十回。何百回。時田は繰り返した。あらゆる手段を試した。政治的介入。技術的解決。軍事的対応。全て試した。
全て、失敗した。
小惑星は、必ず地球に衝突する。どの時間軸でも。どの世界線でも。あたかも——衝突することが、定められた運命であるかのように。
『なぜだ。なぜごく低確率の事象が、確実に発生する?』
時田は、何百回目かの時間遡行の果てに、立ち止まった。
おかしい。確率的にあり得ない。専門家が「衝突しない」と断言するほど低い確率が、毎回、百パーセントで実現する。自然現象では説明がつかない。
何かが、確率を操作している。
時田は調べ始めた。時間遡行の利点を活かし、あらゆる情報源にアクセスした。各国の機密情報。軍事データベース。諜報機関の内部文書。
そして——見つけた。
ペンタゴンの最深部。合衆国統合参謀本部議長の目にしか触れない、最高機密ファイル。
【COSMIC TOP SECRET ― EYES ONLY】
【OPERATION: GRAY GHOST】
ファイルを開いた。
写真が一枚。教室で居眠りしている平凡そうな少年の盗撮写真。
そして、能力の概要。
≪虚数演算≫。現実の確率そのものを演算で歪める異能。
時田の手が、震えた。
ファイルの記述は続いていた。合衆国が長年にわたって蓄積した、この少年に関するデータ。行動パターン。心理プロファイル。能力の推定範囲。
そして——NSAが傍受した、ある通信記録の断片。
少年が、誰かに向かって呟いた言葉。
「つまらない」
たった五文字。
だが、その五文字の意味を、時田は正確に理解した。何百回もの時間遡行を経て、あらゆるアプローチを試して、全て失敗した。その果てに辿り着いた結論。
この少年が——榊原悠真が、小惑星の衝突確率を百パーセントにしていた。
≪虚数演算≫。確率操作。この異能なら、天体の軌道にすら干渉できる。小惑星が地球に衝突する確率を、ゼロから百に書き換える。物理法則を捻じ曲げるのではなく、確率そのものを書き換える。
なぜか。
理由は、ペンタゴンのファイルに記されていた。NSAの分析官たちが何年もかけて導き出した、凍りつくほど単純な結論。
「対象は、現在の世界を『退屈』と認識している。退屈を解消するための手段として、大規模な確率操作を行う傾向がある」
退屈だから。
つまらないから。
面白くないから。
それだけの理由で、一人の少年が、地球を滅ぼそうとしている。
時田は、ペンタゴンのファイルを閉じた。
手の震えが、止まらなかった。
止める方法を考えた。手っ取り早いのは、少年を倒すこと。少年が死ねば、確率操作は解除される。小惑星は本来の軌道に戻り、地球を逸れていく。
だが——無理だ。
時田の異能は時間遡行。戦闘能力は皆無だ。時間を戻せるだけ。少年に近づいて攻撃することはできない。仮にできたとしても、確率操作で「攻撃が成功する確率」をゼロにされれば、何もできない。
では他の異能者に倒させるか。時田はこの時点で、自分以外にも異能者が存在することを知っていた。ギャラクシー・チップの回収を通じて、世界各地で異能に目覚めた人間のリストを作り始めていた。
だが、冷静に考えれば、これも難しい。
退屈だからという理由で小惑星を地球にぶつけるような人間だ。確率操作のスケールが桁違いだ。天体の軌道を変えるほどの演算能力。そんな相手に、どんな異能者が挑んでも勝てるとは思えない。
仮に勝てたとしても、だ。
仮に少年を殺したとしても、それで世界は救われるのか?
時田は考えた。何百回もの時間遡行で鍛え上げられた思考力で、徹底的に考えた。
そして、一つの結論に辿り着いた。
少年を殺す必要はない。
少年を退屈させなければいい。
退屈だから地球を壊す。ならば、退屈じゃなければ壊さない。
シンプルな論理。バカバカしいほど単純な解法。
だが、それこそが唯一の答えだった。
あらゆる手段で、あの少年を——面白がらせる。退屈させない。興味を引き続ける。飽きさせない。
その方法は。
時田は、長い長い思考の末に、計画を立てた。
異能者を集める。少年に匹敵するような、ユニークで、強力で、個性的な異能者たちを。彼らを組織し、少年の世界に介入する。敵として。味方として。ライバルとして。どんな形でもいい。少年が「面白い」と感じる刺激を、絶え間なく供給し続ける。
そのために必要なもの。資金。人脈。技術。情報。権力。
全てを一から構築する必要があった。
時田は、時間遡行で戻れる限界まで、大きく過去に戻った。
全てがリセットされた。異能で築いた資産も、収集したギャラクシー・チップも、構築した人脈も、全て元通り。ゼロからのやり直し。
だが時田には、何百回もの時間遡行で蓄積された知識と経験があった。どの株が上がるか。どの馬が勝つか。どの政治家が権力を握るか。どの企業が成長するか。全て知っている。
時田は再び大金を稼いだ。今度は、ただ金を稼ぐだけが目的ではなかった。
ギャラクシー・チップを回収した。宇宙人の技術を掌握した。その技術を使って、人間には作れないはずの装置を開発し、政財界の要人に提供した。見返りとして、深い繋がりを築いた。天叡結社≪エデン・オルド≫の始まりだった。
異能者を探した。時間遡行で得た情報を元に、世界中の異能者を一人ずつ特定し、接触し、スカウトした。
久能昌。電子を支配する天才ハッカー。
遠山紅音。あらゆる才能を複製する少女。
雨貝ハルキ。異能を無効化する不動の壁。
鬼嶋十夜。あらゆる武器を生成する元傭兵。
簑島秀一。言葉で人を操る言霊遣い。
蟻塚洋一。不運を幸運に変える男。
一人、また一人。十三の椅子を埋めていった。
そして——最後の一人。
榊原悠真。
No.13。序列の最末席。
時田は悠真を結社に招いた。最も近くで監視するため。そして最も効果的に「退屈させない」ため。
結社という箱庭の中に、悠真の興味を引く異能者たちを集めた。悠真に挑戦者を提供した。悠真に居場所を与えた。
だが、それだけでは足りなかった。
悠真は突然、結社を辞めた。「弱い方についたほうが面白そうだから」と。
時田の心臓が縮み上がった。
悠真が退屈し始めたのではないか。結社に飽きたのではないか。次は何をする。また小惑星をぶつけるのか。
しかし——時田は悠真の行動を注視し続けた。久能の監視網を通じて。
そして、見た。
普通の高校に通い始めた悠真。平凡を演じる日々。テストでわざと平均点を取り、体育で手を抜き、空気のように過ごす。
そこに現れた、一人の少女。確率論で悠真の仮面を剥がした才媛。
そして追いかけてきた、もう一人の少女。怒りと執念を燃料に走ってきた、結社の仲間。
悠真は——笑っていた。
結社にいた時には一度も見せなかった笑み。穏やかで、どこか楽しげで、生きている実感の滲む笑み。
時田は理解した。
悠真を退屈させないものは、異能者の戦いだけではなかった。
友人。恋。日常。普通の高校生活。平凡であることの贅沢。
不確定な未来を、自分の足で歩くこと。
それが、榊原悠真の退屈を治す、本当の薬だった。
だから時田は、悠真のNo.13の席を保留にした。いつでも戻れるように。結社という選択肢を残しておくために。悠真が日常に飽きた時、もう一つの世界がまだここにあると示すために。
だから時田は、十三席に悠真への刺客を命じた。小惑星が最接近する時期に合わせて。悠真を退屈させないための、最後の大イベントとして。
だから時田は、環奈と紅音を守れと指令に明記した。あの二人は悠真の退屈を満たすキーパーソンだ。もし二人に何かあれば、悠真の心は——世界は——壊れる。
だから時田は、「生きて帰れ」と指令書に書いた。天叡結社十三席は悠真のためのエンターテインメント装置だが、大切な仲間でもあった。世界を救うために集めた仲間だ。誰一人、死んでほしくなかった。
全ては——定められた運命の時に、備えるため。
小惑星2024-XR7が地球に最接近するその瞬間、悠真が退屈していなければいい。世界が面白いと感じていれば、悠真は小惑星の確率を操作しない。地球は、救われる。
* * *
時田礼司は目を開けた。
青空が、眼前に広がっていた。
雲ひとつない、五月の空。
時田はコートの内ポケットから、小さな端末を取り出した。天文データのリアルタイムモニタリング画面が表示されている。
小惑星2024-XR7の軌道。
白い点が、青い点——地球——の傍を通過している。
最接近距離、約十八万キロメートル。
通過。
小惑星は、地球を逸れていった。
時田の手から、端末が滑り落ちた。屋上のコンクリートの上で、小さな音を立てた。
膝が折れた。
「………………」
時田礼司は、高層ビルの屋上で、膝をつき、両手を地面について、空を見上げた。
涙が、頬を伝った。
何百回もの時間遡行。何百回もの失敗。何百回もの絶望。その果てに作り上げた計画が、今、結実した。
小惑星は地球に衝突しなかった。
悠真は——退屈していなかった。
あの少年は今、普通の高校に通い、友人と笑い、美少女二人にお弁当を作ってもらい、テストでわざと平均点を取り、放課後にクレープを食べに行き、遊園地でお化け屋敷に入り、アーケード商店街でケーキと車を使って序列第二位を倒し、充実した日々を送っている。
退屈とは、正反対の日常。
「…………ははっ」
時田は笑った。涙を流しながら。
「終わった……終わったんだ……」
声が震えていた。安堵と疲労と、名前のつけられない感情で。
何百回もの人生を繰り返した。何百回も世界の終わりを見た。そしてようやく——初めて——世界が終わらない未来に辿り着いた。
時田は空を見上げた。
小惑星の白い点は、もう見えなかった。
青空だけが、どこまでも広がっていた。
「……榊原悠真」
時田の呟きは、ビルの屋上を吹き抜ける風に溶けた。
「お前が退屈しない世界を作ることが、俺の……俺の全てだった」
風が涙を乾かした。
時田はゆっくりと立ち上がった。膝に力が入らず、二度よろめいた。何百回もの時間遡行に耐えてきた身体が、限界を告げていた。
だが、もう時間を戻す必要はない。
この時間軸が、正解だ。
この世界が、答えだ。
時田は端末を拾い上げ、ポケットにしまった。
青空を背に、屋上の扉に向かって歩き出した。
もう、夜空の星を怯えながら見上げる必要はない。
第十三章『面白くない、でしょ?――虚数演算の真実』 に続く
――原初の設計者≪アーキテクト・ゼロ≫
その名の意味を、今、明かそう。
彼は世界を設計した者ではなかった。
世界が壊れないように、設計し直した者だった。
何百回もの時間遡行の果てに、一人の少年のために組織を作り、仲間を集め、
「退屈させない世界」を設計した者。
その全てが、今日、報われた。
小惑星は去った。世界は救われた。
一人の少年が「面白い」と笑い続けたから。




