神村紗智子の策謀
能上京介に惚れてる、腹黒乙女のお話です。
神村紗智子は溶けかけたアイスラテの氷をストローでつつきながら、にんまりと微笑んだ。
あまりにも腹黒さが滲み出る笑みなのだが、たとえその腹の内を奥底まで知っていたとしても誰もが美しいと感嘆する、そんな黒み帯びた深く紅い薔薇のような微笑みだった。
紗智子本人だって、自分の美貌がどれ程のものなのか分かっている。
分かっていないのは、あの『能上京介』と眼前にいるこの男ぐらいだろう。
能上京介とは、言わずと知れたキャンパスの王子。
法学部きっての抜群の頭脳と、秀麗な美貌。爽やかな物腰なのに、笑顔だけが気さくでくしゃくしゃっと崩れるギャップが堪らない。
実は紗智子はずっと彼を狙っている。もう、5年越しだ。
初めて会ったのは地元の予備校。現役国公立文系コースのトップクラスで一緒だった。
今まで自分よりも優秀な人間を見たことがなかった紗智子は、京介の存在に驚いた。
明らかに自分よりも優秀で、しかも驚くほどの美形。
驚きが嫉妬となり、それがいつしか恋に変わるのに時間はかからなかった。
紗智子は自信満々に京介にアプローチする。だが、京介の反応はつれなかった。
「めんどい」
紗智子は瞬間顔を真っ赤にし、言葉もなくくるりと踵を返した。
信じられない信じられない信じられない!
この私を振るなんて。他でもない、この、私をよ?
その日から始まったのだ。神村紗智子の涙ぐましい策謀の日々が。
だがしかし、紗智子は男から言い寄られこそすれ、自分からアプローチした経験がなかった。
男の気を引くためにはどうすればいいのか分からない。
仕方なく、紗智子は相談することにした。
そう、それがこの目の前で真夏だというのにホットコーヒーにこれでもかと砂糖を入れてミルクも入れて、いやそれってコーヒーというよりコーヒー牛乳じゃね?と思われるようなシロモノをちまちま啜っている男──草島悠也。
紗智子の幼馴染みで、腐れ縁。
幼稚園から何故かずっと一緒のこの男は、現在紗智子と同じ国立大の工学部3年。
理系のオタクというステレオタイプにまんまハマる外見と、猫背の冴えない男。
そもそもそのうっとうしい前髪がいけない。
幼稚園や小学校の頃は女の子に間違われるほどの可愛らしい顔立ちだったというのに、紗智子ですらもうここ何年もまともに顔を見たことがない。
ボサボサの前髪をすだれのように顔に垂らして、その表情を伺わせない。ファッションだってキモイダサイ地味の三重苦。
それでもずっと一緒の幼馴染み。しかも紗智子に対して唯一歯に衣を着せぬ毒舌で、本音を語ってくれる貴重な男だから手放せない。
多分、悠也は紗智子のことを迷惑に思っているはず。
知っているけど、それでも悠也しか友達がいないし。
だから今日も紗智子は悠也相手に、愚痴と京介への想いと罠に填める策謀を語る。
悠也は黙ってそれを聞いていたが、一言「無駄だな」と切り捨てた。
「はあ? 無駄? それってどういう意味よ?」
「莫迦だと思っていたが、やっぱり莫迦だな。救いようがない。能上京介がそんな程度の手に引っかかる訳がないだろう」
「分からないじゃない。やってみなくちゃ」
「だから莫迦だって言うんだ。無駄に決まっている。しかもあいつには恋人がいる」
「へ? 恋人?」
「そうだ。今度大学祭に連れて来るって惚気ているともっぱらの評判だ」
「嘘!」
「信じないのなら構わない」
悠也はそう言い捨てて、席を立つ。
「ま、待ってよ!」
コーヒー牛乳は既に空。猫舌の悠也がこのスピードで飲み干したということは、もうここには用がないという無言の印。
紗智子は慌てて手を伸ばすも、悠也はするりとそれをすり抜け、悠然とカフェテリアを立ち去って行く。
──能上京介に彼女ができた……
紗智子はその言葉に呆然とした。
どういう訳かは分からないが、悠也は情報通だった。
普段人付き合いがいい方ではないし、大学内での行動を見ても紗智子以外とは必要以上に接することはない。
それなのに、悠也は紗智子が何を聞いても答えてくれたし、大学内の人物関係などにも詳しかった。
特に紗智子が気になる京介情報には精通していて、その情報の信憑性は高い。
ということは、京介に恋人が出来たという話は本当なのだろう。
急に紗智子は心細くなった。しかも、側には悠也がいない。紗智子が呼び止めたというのに、紗智子を置いて行ってしまった。
紗智子は知らず知らず視界が歪んでいくのを感じた。
それが涙だと気づいたのは、通りがかった紗智子の信奉者Aの慌てっぷりからだ。
紗智子にとって、京介と悠也以外の男は皆、へのへのもへじにしか見えず何度言われても名前が覚えられないので信奉者Aとしか言いようがないのだが、まあそのAくんが横でしきりに紗智子の気持ちを盛り上げようと話しかけてくるので、それを聞くともなしに聞いていた。
紗智子の涙を悠也のせいだと勘違いしたらしく、悠也へ報復を加えると言い出した。
ちょっと待った。なんで報復?
「やめてよ!」
「なんで止めるんだ? さすが紗智子さんは優しいね」
「そうじゃないの!そうじゃないんだってば」
「あなたを悲しませるような男を許せと仰るんですか?」
なんでそうなるの?
たしかにこの涙は悠也の言葉がきっかけだけど、決して悠也のせいじゃない。
いやむしろ、悠也は紗智子のことを思って言っていれたにすぎない。
それなのに、悠也に危害が及ぶ?
そんなのダメ。絶対にダメなの!
「お願い、そんなこと止めて。悠也は悪くないの!」
ところが、紗智子が言葉を重ねれば重ねるほど信奉者Aの敵愾心を煽り、火に油を注ぐ結果になる。
「そんな優しさがあなたの美点であるけれど、それが決して良い結果を生むとは限らないんですよ?」
何を言っているんだろう?
どうしてそんな結論に達するというのだ?
──だから悠也に莫迦だって言われるんだ。
またじわりと涙が浮かぶ。
「紗智子さん、気にしないで下さい。決して悪いようにはしませんから」
「やめて!」
なんでそうなる?
もう、コイツは紗智子の言葉を聞こうともしない。
紗智子が庇うからだと教えてくれる人間は、紗智子にはいない。
そういう本当のことを教えてくれるのは悠也だけだからだ。
紗智子がどれ程言葉を尽くしても、思い込んだ信奉者Aは悠也への報復の誓いを覆さなかった。
何故そこまでしなくちゃいけないのか理解出来ないのだが、信奉者Aはそれが紗智子のためだと言う。
悠也への暴力? いやがらせ? どちらにしても止めなくちゃ。
それに悠也にも警告せねば。
そうだ!
紗智子は慌てて立ち上がる。
これからの講義は、休講ばかり。時間はあった。
悠也を探しに行かなくては!
紗智子は焦ったが、ふと、悠也が普段どのような生活を送っているのか全く知らないことに気がついた。
とりあえず携帯を鳴らす。
──不在。
仕方なく、紗智子は話がある旨メールを送っておく。
紗智子は悠也からの返事を待った。待った。待った──
だが、待てど暮らせど返事がない。いつもこんなことはなかったのに。
悠也は口こそ悪いし態度だってそっけなかったが、紗智子が頼んだときは必ず聞いてくれたし、メールの返事をすっぽかしたことはない。電話の着信があったら、必ず折り返してくれていた。
なのに――
じわり、とまた涙が浮かんで来る。
悠也に嫌われてしまった──
今まで幼稚園の頃からずっと紗智子は悠也を振り回して来た。
大概が紗智子のわがままで、悠也はそれを重々承知していても、最後には溜め息を吐きつつ付き合ってくれていた。というのに。
そう言えば、いつも悠也が紗智子の側に来てくれた。紗智子から悠也の元に行ったことがない。
そうだ、紗智子から悠也を探してみよう。
そして謝るのだ。彼を疑ったことを。
で。工学部──
工学部は、紗智子の文学部校舎から離れた、大学敷地内の奥の方にある。1号棟から10号棟まで分かれており、さらに研究実験棟、また建築や土木など独自の校舎を持つ学科もある。
案の定、紗智子は迷ってしまう。
「困った……」
なんだか、気のせいか文学部校舎とは空気も違うように思える。
そういや、悠也の学科って?
自分がいかに悠也に無関心でいたのか気づいてしまう。学科も分からないなんて……と軽く落ち込む。
とりあえず、目についた校舎に入ってみる。
校舎そのものは文学部校舎とあまり変わらないように思えたが、入ってみると何かが違う。
すれ違う人が違う。薬品の匂いがするし、どこかよそよそしく感じる。
「うーん」
そういや悠也の友達も知らないんだった。
紗智子はどうしたらよいのか分からなくなって、手近な空き教室に入って座る。
悠也はどこに行ったんだろう? 本当に紗智子のこと嫌いになってしまったんだろうか。
また携帯を取り出してみるも、返事は入っていない。
そのうち、紗智子はうとうととしてしまい、いつしかそのまま寝入ってしまっていた。
どこかでくすくすと女の子が笑う声がする。
囁き返す低い男の声。
「……ん?」
紗智子は目をこすりこすり顔を上げる。
いつの間にか眠っていたようだった。
「……だ、め……っ……あっ……」
密やかな、でも甘ったるい女の声。
そんな艶っぽい声なんて聞いたことのない紗智子は慌てる。
「……や……っん」
「――黙って」
男の声に聞き覚えがあった。
紗智子は慌てて立ち上がり、その瞬間ガタッと机にぶつかってしまって大きな音が教室内に響いた。
紗智子の目に飛び込んで来たのは、あられもない格好をした見たことのない女の子と、どこかで見たことある顔。
「きゃあっ!」
紗智子の姿を認めて、慌てて抱擁を解いた女性はバタバタと身繕いをしながら教室を出て行った。
残されたのは、紗智子と──
「ゆう……?」
懐かしい呼び名が口をついた。
久しぶりに見る、幼馴染みの素顔がそこにあった。
憮然とした表情で髪を掻き上げると、悠也は固まったままの紗智子の元に、シャツのボタンを全開にしたまま近づいて来た。
「覗き見の趣味がある訳?」
「そんな……」
煙るようにくすんだ瞳を細め、眉根に皺を寄せ悠也はその紅い唇を尖らせた。
色素の薄い肌と瞳は昔のままで、女の子のようだと言われた顔には男性的な鋭角さが加わっていた。
──綺麗。
紗智子は、思わず悠也の素顔に見蕩れた。
京介のことをずっとかっこいいと思ってきたが、悠也は美しかった。
女性を思わせる繊細さを残しつつ、男性ならではの力強さが混在している、そのバランス。
先ほどまでの情事の余韻を残しており、その色香は匂い立つほどだ。
まだ生娘の紗智子を翻弄するほどの艶に頬が赤くなる。
「何してんの? こんなとこで」
「ゆうを探しに……」
「俺?」
紗智子はこくりと頷いた。
「何、まだ喧嘩が足りないの?」
「ちが……」
なんてことを言うんだろう?
そんなにも怒らせてしまったんだろうか。
「わ、私……ゆうに謝ろうと」
「サチが俺に謝るだって?」
莫迦にしたような口調に悲しくなる。
そんなにも、そんなにも、許せないの?
ゆうのことを疑ったこと……
「それに、なんかゆうに危害を加えるっていう人がいて」
「俺に?」
悠也は眉をひそめたまま、紗智子を覗き込むようにして見つめる。
その瞳に吸い込まれそうになる。
慌てて目をそらすと今度ははだけたままの滑らかな肌に目が行ってしまう。芸術品のような繊細な曲線を描く鎖骨、扇情的な胸板。色白の肌に赤い痣のような鬱血痕が散っている。
「誰?」
「知らない……私が泣いてたら勝手にゆうのせいだって勘違いして、報復するって」
「……泣いてたの?」
悠也の声に不穏な色が混じる。
「私のせいなの。違うって何度も言ったのに、ゆうのせいで泣いてる訳じゃないって言っても全然聞いてくれなくて」
「サチ、泣いてたの?」
悠也の声が、怖い。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
また、涙が溢れ出す。
もう、どうしたらいいのか分からない。
悠也に嫌われると思っただけで、嵐の中の小舟のように身の置き所が無くなってしまう。
「ゆうに嫌われたって気付いたの! ゆうのこと疑うようなこと言ったから!」
化粧が剥げることも忘れ、紗智子はぽろぽろと泣き始める。
その瞬間、視界が真っ暗になった。
身体中に感じるぬくもり。
「……え?」
悠也に抱きしめられているって気づいたのは、暫くしてから。
「サチ、泣くな」
まるで身を切るような切なさの混じった声が耳元に落ちて来る。
「ゆ、う……?」
紗智子の声を受けて、ぎゅっと抱擁がきつくなる。
温かさに身体中が蕩けていく。なんて心地いいんだろう?
でも──
悠也の体臭と共に感じたのは、甘い香り。
さっきまで悠也は可愛い女の子と抱き合っていたのだ。きっと、彼女。
いつも紗智子を優先してくれた優しい悠也だが、彼女がいたのだ。全く、知らなかった──
「ごめん……もういいよ」
紗智子は身じろぎして、悠也の抱擁から抜け出した。
「ごめん、甘えちゃダメだよね。今までもごめん。彼女がいるなんて知らなかったから」
「ちが……」
「今まで本当にごめんね。いつも甘えてばかりで迷惑かけて来た。迷惑だって知っていたけど甘えてた。彼女に悪かったね、いつも勝手に呼び出したりして」
紗智子は悠也から半歩、身を引く。
「もう、連絡しない。甘えない。彼女を大事にね」
今日はなんて日なんだろう。
ああ、私は悠也のこと──好きだったんだ。
自分の鈍さに腹が立つ。
いつから悠也が彼女と付き合っていたんだか知らないが、避けられたというのにのこのこ探しに来るから、こんな現場に出くわすことになるんだ。
恋を自覚した瞬間に失恋か。相変わらず、不毛だ。
「ゆうのこと好きだったみたい。ごめん!」
叫ぶように言った瞬間、踵を返して逃走する。
「はあ?」と大きな疑問符のついた声を上げている悠也が何かを言っているが、走り去る足音で聞こえない。
涙が溢れる。やっぱり悠也は正しい。紗智子は救いようのない莫迦だ。
その後、自慢の俊足を思う存分発揮した紗智子は、あっという間に学外に逃走。
普段足萎えの悠也が敵うはずもない。
あっという間に電車に乗って帰宅したが、自室に籠ってわんわん泣いてる紗智子は気づいていない。
紗智子の携帯の着信履歴をびっしり埋めた悠也の名前と、数秒毎に送られて来るメールの数々。
研究作業を無断ですっぽかしたため悠也の周りは大混乱となり、そして紗智子に遅れること30分後煩いほどに自宅の呼び鈴が鳴らされることになることを。
- Happy End? -