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42.予想外の敵と逃走

 クエストを終えた頃には、森の外れにはすでに夕暮れの気配が漂っていた。


 依頼の目的だった魔物を討伐し、あとは街へ戻るだけ。

 今日のところは、これで終わりだ。

 そう思っていた。


 森を抜けようとした、その時だった。

 ドン、と地面を踏み砕くような音が響いた。

 続いて、低い唸り声。


 私は足を止めた。

 ユノも同時に振り返る。


 木々の隙間から姿を現したのは、巨大な魔物だった。

 先ほどまで相手にしていた狼型の魔物とは、明らかに違う。


 四足で歩いているにもかかわらず、その体躯は私たちを圧倒している。太い脚が地面を踏むたび、土が僅かに沈んだ。


 こちらを見つけた魔物が、ゆっくりと頭を上げる。

 私は、その姿を観察した。


 大きさ。

 足の長さ。

 こちらとの距離。

 森の地形。

 そして、街までの方角。


 判断に必要な情報を拾っていく。

 結論は早かった。


 勝てない。


 正確には、勝てるだけの情報がない。

 私とユノは戦闘職ではないもの冒険者ではある。


 とはいえ、先ほどの戦闘を見る限り、あの巨体を正面から相手にするのは危険すぎる。

 しかも、相手の能力も分からない。


 そんな状況で戦うのは、勝負ですらない。

 ただの賭けだ。


「ヴィオレさん……」


 隣から、ユノの声が聞こえた。

 その声には、先ほどまでの余裕がない。


 彼女も同じ結論に辿り着いているのだろう。

 私は魔物から視線を逸らし、ユノを見る。


 ここで私が「逃げる」と決めるのは簡単だ。

 だが、それでは意味がない。


 先ほどの戦闘で、私はユノの戦い方を見た。

 攻撃を急ぎすぎる癖。


 敵の攻撃を受けてからの反撃が得意なこと。

 そして、私の指示を理解し、それを実行できること。


 だが、それだけでは足りない。

 仲間として行動するなら、私の指示を待つだけでは困る。


 重要な場面では、自分で考えて決断できなければならない。

 私は、ユノに尋ねた。


「君は、どうしたい?」


「……え?」


「戦うか、逃げるか。私はどちらでも構わない」


 ユノが困惑したように私を見る。


「でも……ヴィオレさんが決めるんじゃ……」


「君を信用しているから聞いている」


 自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。


「私は君の戦い方を見た。君は、状況を見て自分で考えられる。ならば、最後の判断まで私が奪う必要はない」


 魔物が唸り声を上げる。

 時間はない。


「もちろん、君の判断に私も責任を持つ。君だけに押し付けるつもりはない」


 私は魔物を一瞥する。


「ただし、一度決めたなら迷わない。それだけは約束してくれ」


 ユノはしばらく黙っていた。

 やがて、魔物と森の奥、そして街へ続く道を順番に見る。

 その視線が少しずつ落ち着いていく。


「……逃げます」


「理由は?」


「今の私たちじゃ、あれを倒すのは無理です」


 ユノはそこで一度言葉を切った。


「でも、ただ走って逃げるんじゃありません」


 私は黙って続きを待った。


「この森、さっき通ってきた時に、途中で道が二つに分かれてましたよね」


「ああ」


「右の道は街道に繋がっています。でも、左は森の奥へ続いていて……途中に大きな岩場がありました」


 私は地形を思い出す。

 ……確かにユノのいう通りあったはずだ。


「私たちは、あそこまで逃げます」


「岩場に?」


「はい。あそこなら道が狭くなってました。あの大きさなら、追ってきても私たちと同じようには動けないはずです」


 ユノは魔物を見ながら続ける。


「そこで一度、木々の間を使って距離を取ります。そのあと、街道側へ抜ける」


「……なるほど」


「途中で追いつかれそうになったら、私が引きつけます。ヴィオレさんは、先に街道へ」


「それは却下だ」


「え?」


「君一人で引きつけるのは危険すぎる」


 私は少し考えた。


「私が後ろから周囲を確認する。君は前を走れ。魔物が近づいたら私が知らせる」


「でも、それだとヴィオレさんが……」


「君が決めた作戦だ。なら、最後まで二人でやる」


 ユノが目を見開く。


 私は魔物へ視線を戻した。


「行くぞ」


「……はい!」


 次の瞬間、魔物が地面を蹴った。


 私たちは同時に走り出した。


 ◆


 最初の分岐を、ユノは迷わず左へ曲がった。

 予想通り、魔物も追ってくる。

 だが、直線ではこちらの方が不利だ。


 距離は少しずつ縮まっている。


「もう少し!」


 ユノが叫ぶ。

 その先に、岩場が見えた。

 道幅が急激に狭くなっている。


 ユノはそこへ入り込むと、すぐに横道へ身体を滑り込ませた。


 私は後ろを振り返る。

 魔物が追ってくる。

 だが、巨体が岩場へ入った瞬間、その動きが明らかに鈍った。


 肩が岩にぶつかり、進行方向が僅かにずれる。

 ユノが選んだ場所は正しかった。

 そのまま私たちは岩場を抜け、木々の密集した場所へ入る。


 ここから先は、一直線ではない。

 ユノは木々の間を縫うように走った。

 魔物は速度を落とさざるを得ない。


 大きな身体が、一本の木を避けるたびに進路を修正している。

 少しずつ、距離が開いていく。


「このまま街道へ!」


 ユノが前を向いたまま叫ぶ。


「右!」


 私は叫び返した。

 直後、左側の木々が大きく揺れた。

 魔物が先回りしようとしていた。


 ユノは咄嗟に進路を変える。


 だが――。


 足元の根に引っ掛かった。


「きゃっ!」


 身体が前へ投げ出される。

 魔物の影が迫った。

 私は反射的にユノの腕を掴んだ。


「こっちだ!」


 強引に引き寄せる。

 その直後、巨大な爪が目の前を通過した。

 地面が抉れる。


 私の左腕にも鋭い痛みが走った。

 袖が裂け、血が滲む。


「______っ!?」


「ヴィオレさん!」


「___走れっ!!!」


「でも……!」


「今はいい!」


 私はユノを立たせ、そのまま前へ押し出した。

 ユノは一瞬だけ私の腕を見た。

 それから、唇を噛みしめる。


「……絶対、街まで戻ります!」


 今度はユノが私の手を掴んだ。

 そのまま、全力で走り出す。

 木々を抜けた先に、街道が見えた。


 人の声がする。


 魔物もそこまで追ってくることはなく、やがて森の中へと姿を消していった。

 どうやら、逃げ切ったらしい。

 私たちは街道脇でしばらく息を整えた。


「……戻れた」


 ユノが呟く。

 私は頷いた。


「ああ」


 作戦は完璧ではなかった。

 途中で予想外の動きもあった。

 それでも、ユノは状況を見て判断し、修正し、最後まで私たちを街へ導いた。


 少なくとも、先ほどまでの彼女とは違う一面が見えた。


 ◆


 街へ戻った後、私たちは人通りの少ない場所で足を止めた。

 ユノは、私の腕に残った傷を見て眉を寄せる。


「……やっぱり、怪我してます」


「大したものではない」


「そう言って放っておく人が一番危ないんですよ」


 そう言うと、ユノは少し躊躇うように視線を逸らした。


「……実は、まだ言ってなかったことがあります」


「何だ?」


「私のインディペンデンス・スキル……ISのことです」


 私は僅かに眉を動かした。

 ユノがそれを持っているとは知らなかったが、私も持っているから不思議なことではないだろう。


「『天使の息吹』っていうISです」


 ユノは私の傷口へ手を添える。


「自分の息を吹きかけたところを、少しだけ回復させられます。まだランクEなので、本当にちょっとだけですけど」


 そう言って、傷口へそっと息を吹きかけた。

 淡い光が傷を包む。

 先ほどまで残っていた痛みが、少しずつ和らいでいく。


「……なるほど」


 私は回復していく傷を見ながら呟いた。

 ユノはそのまま俯いた。


「……隠してて、ごめんなさい」


「なぜ謝る?」


「ISって、普通のスキルとは違うじゃないですか。珍しいものですし……」


 ユノは指先を握る。


「知られたら、利用されるかもしれないって思ってました」


「……」


「だから、今まで誰かと組んでも、あまり話してなくて」


 その言葉に、私は何も言わなかった。

 隠す理由としては、十分理解できる。


 能力が知られれば、その能力を利用しようとする者が現れる。

 それは、この世界でも現実でも変わらない。


「私は気にしない」


「……本当に?」


「ああ。君が隠していたことより、今こうして話してくれたことの方が重要だ」


 ユノが顔を上げた。

 目が合う。

 その表情には、僅かな驚きが浮かんでいた。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。

 私はそのまま、先ほどの出来事を思い返す。


 ユノは自分で判断した。

 逃げると決め、その方法まで考えた。

 途中で予想外の事態が起きても、完全に動けなくなったわけではない。


 そして最後には、私の傷を治してくれた。

 まだ未熟だ。


 だが――。


「ユノ」


「はい」


「やはり君の判断は正しかった」


「……」


「私は君を信用している。だから、あの場で判断を任せた」


 ユノの目が僅かに揺れた。

 そして、ゆっくりと笑った。


「……そっか」


 その笑顔には、先ほどまであった緊張がなかった。


「ヴィオレさんがそう言ってくれるなら……私、もっと頑張れそうです」


 私は軽く頷いた。

 その時の私は、彼女がどれほど深くその言葉を受け止めていたのかを知らなかった。

 ただ、少なくとも今日の出来事で、一つだけ分かったことがある。


 ユノは、指示に従うだけの人間ではない。

 自分で考え、決めることができる。

 当たり前なことかもしれないが、それをピンチの中でも判断できる人は限られる。


 そして私は――。

 そんな人間を、これからも傍に置いておきたいと思い始めていた。


「……ヴィオレさん」


「何だ?」


 ユノは少しだけ迷った。

 それから、静かに口を開く。


「私……昔から、あんまり人を信用するの、得意じゃなかったんです」


 その言葉に、私は黙って耳を傾けた。


「だから、このゲームを始めた時も……最初から誰かを頼るつもりなんて、なかったんです」


 ユノは遠くを見るように、街の向こうへ視線を向ける。


「でも、ちょっとだけ……話してみたいことがあります」


 ユノは一度だけ、私を見る。


「私が、どうしてこのゲームを始めたのか」


 その声は、いつもの明るさとは違っていた。

 私は急かさなかった。


 ただ、彼女が話し始めるのを待った。


 ――この時、私はまだ知らなかった。


 ユノがこの世界へ来た理由が、私の想像していたものとは大きく違っていたことを。


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