10.歴史書
ラピスが去ったあと、第三書庫の奥へと足を踏み入れる。
薄暗い書架の合間に差し込む光の筋の中を、微かな塵が音もなく漂っていた。
背表紙の革を指先でなぞりながら目的の棚を探すと、分厚い羊皮紙の束を革で綴じた古書の列が現れた。
視線を走らせて探すうち、意外なほどあっさりとラピスの言っていた一冊に行き当たる。
『ユーラシア初期年代記』
背表紙に打たれた金箔の文字を確かめ、その重厚な一冊を引き抜いた。
両手にずしりとした重みが伝わってくる。
長椅子まで運び、丁寧にページを繰る。
乾いた羊皮紙が擦れ合う音とともに、数百年分の歴史が立ち上ってきた。
刻まれていたのは、かつてこの大平原を吹き荒れた血と鉄の記憶だった。
群雄が割拠し、土地と資源を巡って際限のない殺戮が繰り返された時代。
その泥沼の戦乱に終止符を打ったのは、圧倒的な武力を誇る覇王ではなく、名も知られぬ一人の調停者だったという。
『王は剣を収めよと乞うたのではない。ただ、互いの血で濡れた土地の真ん中に、誰も侵すことのできない不干渉の街を一つ設けることを提案した』
初代ユーラシア王は、諸侯それぞれの保身と野心を見抜いた上で、利害の調整を根気強く重ねていった。
力による平定ではなく、「交易と対話のための絶対的な安息地」という共通の利益を示すことで、誓約を結ばせたのだ。
それこそが現在の首都ノヴァ・パトリアの起源であり、不戦地域としてのユーラシア王国の始まりだった。
「……見事な手腕だ」
ページを追うたびに、胸の内側で静かな熱が揺れる。
力で屈服させた国は、より強い力によっていずれ滅びる。
だが、誰もが理不尽に侵されないための「土台」として築かれた仕組みは、幾つもの時代の荒波を越えて、今なお機能し続けている。
自分が目指す理想の国家像の原型が、確かにここにあった。
だが、周辺諸国に関する記述を求めてさらにページを繰っていくと、指の動きがふと止まった。
『東方の月夜に浮かぶ孤島』『南方の陽光を戴く領主群』『西方の不吉なる連邦』
そこに記されているのは、曖昧な伝承と、未踏の蛮地としての漠然とした素描だけだった。
現在プレイヤーたちが治めているという大国の名や、正確な勢力図、政治形態についての記録は、どこにも見当たらない。
考えてみれば当然のことだった。
かつてこの世界で生きていたNPCたちの視点で綴られた歴史書に、後から異界より訪れたプレイヤーが急ごしらえで打ち立てた国家のことなど、記されているはずもない。
「なるほど……過去の歴史から理念を学ぶことはできても、今この世界でどう立ち回るべきかという答えまでは用意されていないか」
そっと本を閉じる。
初代国王の政治手腕や、法をどう整えるかという発想は、間違いなく今後の大きな糧になるだろう。
だが、この現実と見紛うほど精巧な世界で、具体的にどんな手順を踏めば「国家」としてシステムに認められ、領地を得ることができるのか――その実践的な道筋は、依然として謎のままだった。
一つ息をつき、凝った首を軽く回す。
ふと虚空へ意識を向け、右手の指先で下方向にスワイプすると、半透明のメニュー画面が展開された。
青白く発光するウィンドウの端、これまで灰色に沈んでいた項目に、鮮やかな緑色の光が灯っている。
『冒険者ライセンス:有効(ランクE)』
プロフィールの欄には、いつの間にか新しい項目が加わっていた。
審査に提示されていた「六時間」という時間は、歴史書に没頭している間に、あっけなく過ぎ去っていたらしい。
体感としては一日にも満たないが、集会所を出てからかなりの時間が経過していたことを物語っている。
「……まずはここまでか」
深く息を吐くと、腹の奥からかすかな信号のような感覚が響いた。
空腹感と、脳の芯に沈むような心地よい疲労。
身体機能がここまで忠実に再現されているこの世界では、休息を怠ることもまた、確実にパフォーマンスの低下として跳ね返ってくるだろう。
本を元の棚へと戻し、大図書館の重い扉を押し開ける。
外へ出ると、昼間の穏やかな陽光はすでに姿を消し、首都ノヴァ・パトリアは茜色から濃紺へと移ろう黄昏の光景に包まれていた。
街灯には魔導具のほのかな灯りが点り始め、仕事や探索を終えて戻ってきたプレイヤーたちや、日々の暮らしを営むNPCたちの足音が、忙しなく石畳を叩いている。
ライセンスは手に入った。
明日からは、いよいよ依頼を受けながら、この世界のより深い実情に踏み込んでいくことになる。
そのためにも、まずは今夜の宿を確保しなければならない。
香ばしいパンと炙り肉の匂いが漂ってくる商業区の灯りを目指し、私はゆっくりと歩き出した。




