第1話 違和感
最初の違和感は、洗剤だった。
真昼はその日、仕事から帰ってすぐ洗濯機を回そうとして、洗面所で立ち止まった。
詰め替え用の洗剤が、満タンになっている。
「……あれ」
思わず声が漏れた。
確か、昨日で切れたはずだった。
最後の一滴を無理やり振って使ったのを覚えている。次の休みに買わなきゃ、と思っていた。
なのに、入っている。
透明なケースの八割くらいまで。
真昼はしばらく洗剤を見つめていた。
買った記憶はない。
昨日、ドラッグストアにも寄っていない。
レシートを確認しようとして、やめた。
疲れているのだと思った。
異動して一ヶ月。
生活リズムも崩れている。
会社ではずっと気を張っているし、帰宅すると何も考えられなくなる。
だから。
自分で補充して忘れたのかもしれない。
そういうことにした。
洗濯機を回す。
古い機械がガコン、と音を立てた。
その間に、真昼はコンビニ弁当を温める。
テレビをつける。
地方局のニュース。
桜の開花がどうとか、熊の目撃情報がどうとか。
ぼんやり見ているうちに、洗濯終了の電子音が鳴った。
真昼はぼんやり天井を見上げたまま動かなかった。
数分経ってから、ようやく重い腰を上げる。
真昼は立ち上がる。
洗面所へ向かう。
そこで、また止まった。
中の洗濯物が、妙にきれいだった。
脱水後はいつも絡まっているはずのシャツが、きちんと畳む前みたいに整っている。
タオルも端へ寄せられていた。
真昼は眉を寄せる。
自分は、洗濯物を取り出したあと、蓋を開けっぱなしにする癖がある。
母親にも何度も言われた。
『洗濯終わったあと、ちゃんと閉めなさい』
でも結局、直らなかった。
だから。
洗濯物が整えられている、この状態が妙に気持ち悪かった。
真昼はゆっくり近づいた。
嫌な感じがした。
説明できない、小さな違和感。
洗濯機を開ける。
柔軟剤の匂い。
濡れたシャツ。
その一番上に、靴下が左右揃えて置かれていた。
きれいに。
揃えて。
真昼は数秒、動けなかった。
自分はこんなことをしない。
絶対に。
スマホを取り出す。
管理会社。
そこまで指が動いて、止まる。
なんて説明するんだろう。
洗剤が補充されていました。
靴下が揃っていました。
そんなことで?
疲れてるんじゃないですか、で終わる気がした。
実際、自分でもそう思っている。
真昼はスマホを伏せた。
代わりに、洗濯物を無理やり取り出す。
ハンガーに掛ける。
窓際へ干す。
その最中、ふと気づく。
カーテンが閉まっていた。
真昼は動きを止める。
朝、開けたはずだった。
今日は天気が良かったから。
部屋に光を入れようと思って。
ちゃんと覚えている。
なのに、閉まっている。
真昼はゆっくりカーテンへ近づいた。
レースカーテンの隙間から、夕方の光が少しだけ漏れている。
指で端を掴む。
開ける。
外には、向かいのアパート。
二階。
誰もいないベランダ。
古い室外機。
風に揺れる洗濯物。
普通の景色だった。
真昼はそのまま窓を見つめた。
もし。
誰かが部屋に入っているなら。
どこから?
玄関は閉まっていた。
チェーンも。
窓も鍵が閉まっている。
じゃあ、何だ。
考えた瞬間。
頭上で、小さく音がした。
ミシ。
真昼は反射的に顔を上げた。
天井。
古い木目。
何もない。
でも。
何かいた。
そんな気がした。
部屋が急に静かになる。
冷蔵庫の音。
外を走る車。
自分の呼吸。
その全部の奥に、もう一つ気配がある。
真昼はその場から動けなかった。
数秒。
あるいは数分。
やがて。
また、ミシ、と小さく天井が鳴る。
古い建物だから。
そう思おうとした。
でも。
その音は、まるで。
人が体重をかけたみたいだった。
その夜、真昼はなかなか眠れなかった。
ベッドに入っても、視線が勝手に天井へ向く。
古い木目。
点検口。
白いシミ。
ただの天井。
それなのに、一度「いるかもしれない」と考えてしまうと、もう元には戻れなかった。
スマホを見る。
午前〇時十七分。
会社のグループチャットには既読だけつけて返信していない。
母親からのメッセージも開いていない。
真昼はスマホを裏返し、布団を頭まで被った。
静かだった。
山形の夜は、静かすぎる。
東京なら、もっと色んな音が混ざっていた。
車。
人。
酔っ払い。
遠くのサイレン。
でもここでは、音と音の間が広い。
だから、小さな音まで聞こえてしまう。
ミシ。
真昼は目を開けた。
今、鳴った。
上。
真上。
息を止める。
しばらく沈黙。
何も聞こえない。
古い建物だから。
そう思う。
思おうとする。
だが。
数秒後。
コツ。
今度はもっと小さい音。
真昼はゆっくり布団を下ろした。
暗い部屋。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。
天井は見えない。
なのに、視線だけが上へ引っ張られる。
「……気のせい」
小さく呟く。
声に出さないと、本当におかしくなりそうだった。
真昼はベッドから起き上がった。
喉が渇いていた。
キッチンへ向かう。
床板がギシ、と鳴る。
冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水。
口をつける。
冷たい。
その時。
頭上で、微かに布の擦れる音がした。
真昼の動きが止まる。
音も止まる。
沈黙。
真昼はゆっくり顔を上げた。
キッチンの天井。
そこにも、小さな点検口がある。
普段は意識したこともない。
でも今は、それが妙に暗く見えた。
真昼はペットボトルを置く。
視線を逸らせない。
何かいる。
そう思った瞬間。
ガタン。
突然、上で大きな音がした。
「っ!?」
真昼は反射的に後ろへ下がった。
ペットボトルが倒れる。
水が床へ広がる。
そのまま、静寂。
何も聞こえない。
真昼は荒い呼吸のまま立ち尽くしていた。
心臓が痛いくらい鳴っている。
しばらくして。
上から、小さく咳が聞こえた。
ゴホ。
人間の咳だった。
真昼はその場に座り込んだ。
全身の力が抜ける。
怖い。
でも。
同時に、“何か正体不明のもの”ではないことに、少しだけ安心してしまった。
それに気づいた瞬間、真昼はぞっとした。
怖い。
ちゃんと、怖かった。
警察を呼ばなければいけない。
管理会社へ連絡するべきだ。
分かっている。
分かっているのに。
真昼は濡れた床に座り込んだまま、動けなかった。
頭の上には、人がいる。
天井裏に。
たぶん、ずっと前から。
それは異常なことのはずだった。
なのに。
咳を聞いた瞬間。
真昼は少しだけ安心してしまった。
化け物じゃない、と思った。
人間なんだ、と。
そのことが、たまらなく気持ち悪かった。
真昼は両手で顔を覆った。
もう、何も考えたくなかった。
今から警察へ電話して、何を説明するのか。
どうして今まで気づかなかったのか。
もし本当に人がいたら、どうなるのか。
考え始めると、息が詰まりそうだった。
朝になったら管理会社へ電話しよう。
真昼はそう決めた。
決めて。
そのまま布団を頭まで被った。
天井裏に、人がいる。
その現実だけが、静かに部屋へ沈んでいった。




