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プロローグ 味噌汁

 帰宅すると、味噌汁の匂いがした。


 玄関の鍵を開ける前から、もう分かっていた。ドアの隙間から漏れるような匂いではない。古い木造アパートの薄い壁と、わずかに歪んだ玄関扉と、どこか甘い雪国の湿気を通して、味噌と出汁の匂いが廊下まで滲んでいる。  

 佐伯真昼は、鍵を差したまましばらく動かなかった。

 右手にはコンビニの袋。中身は、明太子おにぎりと、野菜ジュースと、値引きシールの貼られたチキン南蛮弁当。


 買わなければよかった、と思った。


 どうせ、あるのだから。


 鍵を回す。


 カチャ、と小さな音がして、ドアが少しだけ重く開いた。


 五月の山形の夜は、東京よりも静かだった。駅前には人もいるし、車も走っている。それでも、このアパートの二階の廊下まで来ると、街の音は急に遠くなる。かわりに聞こえるのは、どこかの部屋の換気扇と、自分の靴底が古い床板を踏む音くらいだった。


「……ただいま」


 言ってから、真昼は一瞬だけ口を閉じた。


 返事はない。


 いつものことだった。


 部屋は明るかった。


 玄関の照明ではなく、奥のキッチンの蛍光灯だけがついている。六畳のワンルームは、白い光に半分だけ照らされていた。カーテンは閉まっている。テレビは消えている。ローテーブルの上には、箸が一膳、きちんと揃えて置かれている。


 その横に、小さな鍋。


 蓋の隙間から、細く湯気が上がっていた。


 真昼は靴を脱ぎ、コンビニ袋を玄関の端に置いた。値引き弁当の容器が、袋の中でかすかに傾く。


 洗面所の方から、水音がした。


 風呂が沸いている。


 真昼はコートを脱ぎかけて、天井を見上げた。


 古い木目調の天井板。

 端の方に、四角い点検口。

 その周囲だけ、少し色が違う。


「……今日、早いですね」


 声は疲れていた。


 返事の代わりに、天井が小さく鳴った。


 ミシ。


 乾いた音だった。


 真昼はそれ以上何も言わず、コートをハンガーにかけた。


 怖いと思わなくなったのは、いつからだろう。


 少なくとも、最初からではない。


 最初はちゃんと怖かった。


 鍵を閉めたはずの部屋で洗剤が増えていた夜。

 出していないはずのゴミ袋が消えていた朝。

 コンビニで買ったまま忘れていたプリンが冷蔵庫からなくなって、代わりに開封済みの納豆が賞味期限順に並べ直されていた日。


 あのころは、まだ自分が壊れたのだと思っていた。


 仕事で疲れている。

 転勤したばかりで、生活が乱れている。

 山形の夜が静かすぎるから、余計な音まで聞こえる。


 そういうことにしていた。


 そういうことにしないと、暮らせなかった。


 真昼はキッチンに立ち、鍋の蓋を取った。


 豆腐とわかめの味噌汁だった。


 いつもより少し薄い。


 最近、真昼が胃もたれしていることを、上の人は知っている。


 知っている、という言い方が正しいのかは分からない。見ている、と言った方が正確なのかもしれない。


 真昼は食器棚から茶碗を出した。


 味噌汁をよそう。


 湯気が顔に当たる。


 ほっとした。


 ほっとしてしまった。


 そのことが、まだ少しだけ嫌だった。


 ローテーブルの前に座る。箸を取る。味噌汁を一口飲む。


 あたたかい。


 喉から胃に落ちていく感覚が、体の奥にじんわり広がった。


 その瞬間、今日一日の疲労がどっと表に出た。肩が重い。首が痛い。足の裏が熱い。会社では平気な顔をしていたけれど、本当は朝からずっとしんどかった。


 真昼は箸を置き、少しだけ目を閉じた。


 天井が、また小さく鳴った。


 ミシ。


「食べてます」


 真昼は目を閉じたまま言った。


「ちゃんと」


 返事はない。


 けれど、天井の上の気配が少しだけ遠ざかったような気がした。


 それだけで、真昼は安心した。


 安心してから、ぞっとした。


 この生活に慣れてはいけない。


 何度もそう思った。

 何度も。


 けれど、人間は慣れる。


 怖いものにも。

 おかしいことにも。

 自分の部屋の天井裏に、五十二歳の男がいる生活にも。


 真昼は味噌汁をもう一口飲んだ。


 外では車が一台、アパートの前の細い道を通り過ぎていった。ヘッドライトの光がカーテンの隙間から一瞬だけ入り、壁を白く撫でて消えた。


 この部屋に来たばかりのころ、真昼はカーテンを閉め忘れることが多かった。


 東京では、三階以上に住んでいた。向かいの建物とも距離があった。だから、夜にレースカーテンだけで過ごすことに、あまり危機感がなかった。


 山形に来てからも、最初はそうだった。


 会社から帰って、電気をつけて、スーツを脱ぎながらそのまま床に座り込む。コンビニ弁当を開ける。スマホを見ながら食べる。疲れすぎて、風呂にも入らず寝る。


 そういう夜が何度もあった。


 その全部を、見られていた。


 それを知ったのは、もっと後のことだ。


 今も、見られているのだろうか。


 真昼は天井を見上げた。


 点検口の隙間は暗い。


 そこに目があるわけではない。少なくとも、今はない。三浦はそういうことはしない、と真昼は思っている。


 思っているだけだ。


 本当のところは分からない。


 分からないまま、真昼は味噌汁を飲み干した。


 スマホが震えた。


 会社のグループチャットだった。


 画面を見る。


 明日の朝礼資料についての確認。

 課長からの短い文章。

 同期からのスタンプ。


 真昼は返信を打とうとして、指を止めた。


 天井の上から、コツ、と音がした。


 いつもの合図だった。


 早く風呂に入れ。


 言葉ではない。

 ただの音。


 それでも、意味が分かってしまう。


 真昼はスマホを伏せた。


「分かってます」


 自分でも驚くほど自然に、そう答えていた。


風呂場から湯気が漏れていた。


 真昼は立ち上がり、スーツのジャケットを脱いでベッドの端へ放った。ワンルームは狭い。ベッドとローテーブルの間を二歩も歩けば、もうキッチンに着く。最初はこの狭さが嫌だった。圧迫感があるし、逃げ場がない気がした。


 今は逆だった。


 狭いから、生活が一目で分かる。


 誰かが手を入れたことも。





 洗面所へ入る。


 脱衣所の床には、畳まれたタオルが置いてあった。


 真昼はそれを見て、数秒止まった。


 薄いグレーのタオル。

 自分のものではない。


 三浦がどこから持ってきているのか、真昼は知らなかった。聞いたこともない。聞けば答えるのかもしれない。でも、聞かない方がいい気がしていた。


 タオルは洗剤の匂いがした。


 古い、粉洗剤の匂い。


 真昼はシャツのボタンを外しながら、鏡を見た。


 顔色が悪い。


 クマも濃い。


 東京にいたころより痩せたと思う。昼休みに同僚から「ちゃんと食べてる?」と聞かれたことがある。その時は適当に笑って誤魔化した。


 ちゃんと食べている。


 少なくとも、最近は。


 真昼はシャワーを出した。


 古い蛇口がガコン、と鈍い音を立てる。少し遅れて熱い湯が出た。


 服を脱ぎながら、天井を見る。


 当然、何もない。


 なのに、意識してしまう。


 天井裏にも、この浴室の上にも空間がある。そこに人がいる。息をしている。静かに体を丸めて、自分の生活音を聞いている。


 その想像をした瞬間だけ、久しぶりに少し怖かった。


 真昼は勢いよくシャワーを頭から浴びた。


 考えないようにする。


 熱い湯が肩を流れる。


 目を閉じる。


 会社のことを考える。


 今日の会議。

 課長の顔。

 ミスした資料。

 明日の朝礼。


 そういう現実的なことを考えていないと、頭がおかしくなりそうだった。


 シャワーの音に混じって、上で小さく何かが軋んだ。


 ミシ。


 真昼は反応しなかった。


 もう、それに反応すると負ける気がしていた。


 風呂から出ると、部屋の照明が少し暗くなっていた。


 キッチンの蛍光灯が消えている。


 代わりに、ベッド脇の小さな間接照明だけがついていた。


 真昼は髪を拭きながら立ち止まった。


「……電気、消しました?」


 返事はない。


 少し遅れて、天井が鳴る。


 コツ。


 肯定だった。


 真昼はため息をついた。


「勝手に人の電気触らないでください」


 また、少し間。


 それから。


 ミシ。


 軋む音。


 どこか、拗ねたみたいな。


 真昼は思わず笑いそうになって、すぐに口を閉じた。


 だめだ。


 これは、おかしい。


 おかしいはずなのに。


 部屋の明かりが暗いだけで、少し落ち着く自分がいた。


 真昼はベッドへ腰を下ろした。


 スマホを開く。


 SNS。


 東京の友人たちの写真。


 飲み会。

 終電。

 渋谷。

 休日のカフェ。


 別の世界みたいだった。


 指を止める。


 気づけば最近、自分から誰にも連絡していない。


 山形どう?

 仕事慣れた?


 そう聞かれても、答えに困るから。


 真昼はスマホを伏せた。


 静かだった。


 冷蔵庫の音。

 外を走る車。

 天井裏の気配。


 その全部が、今の生活の音になっていた。


 ふいに。


 天井の上から、低い咳が聞こえた。


 ゴホ、と短い音。


 真昼は顔を上げる。


「……風邪ですか」


 返事はない。


 少し遅れて、点検口の上で布が擦れるような音がした。


 真昼は数秒迷ってから、立ち上がった。


 キッチンへ向かう。


 戸棚を開ける。


 風邪薬はない。


 代わりに、生姜のチューブがあった。


 真昼はそれを見つめたまま止まる。


 何をしているんだろう、と急に思った。


 普通じゃない。


 天井裏に住み着いた男を心配している。


 なのに。


 放っておいたら、本当に悪化しそうな気がした。


 真昼は小鍋を取り出した。


 お湯を沸かす。


 その間、ずっと天井は静かだった。


やかんの湯気が、白く立ち上っていた。


 真昼はマグカップに湯を注ぎ、生姜を絞る。砂糖を少し入れて、スプーンで混ぜた。


 自分でも、何をしているのか分からなかった。


 普通なら警察だ。


 少なくとも管理会社。


 なのに今、自分は天井裏の男に飲み物を作っている。


 その異常さを、頭では理解している。


 理解しているのに、体は淡々と動いていた。


「……熱いですよ」


 真昼はマグカップを両手で持ったまま、天井を見上げた。


 返事はない。


 しばらく待つ。


 やがて、点検口の上で小さく何かが動いた。


 ミシ。


 それから、ゆっくりと。


 点検口が数センチだけ開く。


 真っ暗だった。


 奥は何も見えない。


 だが、そこに誰かいる気配だけははっきり分かる。


 真昼は喉を鳴らした。


 何度見ても慣れない。


 点検口の向こうに、人間がいる。


 しかもそれが、“日常”になり始めている。


 細い指が伸びてきた。


 骨ばった、男の手。


 真昼は一瞬だけ身を引きそうになって、堪えた。


 マグカップを差し出す。


 男の手が受け取る。


 熱で少し赤くなった指先。


「……ありがとうございます」


 上から、低い声。


 真昼は目を逸らした。


 その声を近くで聞くと、妙に現実感がある。


 天井裏の怪物じゃない。


 ちゃんと人間なのだと分かってしまう。


 それが怖い。


「病院、行った方がいいんじゃないですか」


 沈黙。


 少しして、上から小さな笑い声がした。


「行けるなら、行ってます」


 真昼は何も返せなかった。


 マグカップをすする音だけが、天井の向こうから聞こえる。


 静かな夜だった。


 その静けさの中で、自分だけが妙な場所に取り残されている気がする。


 真昼はローテーブルへ戻った。


 ドライヤーをかける。


 温風の音が部屋を埋める。


 その最中、ふと視界の端で何かが動いた気がした。


 真昼は反射的に振り返る。


 何もない。


 カーテン。

 ローテーブル。

 畳まれた洗濯物。


 ただ。


 ベッドの上に置いていたスマホの位置が、少しだけ変わっていた。


 さっきはもっと端だった気がする。


 真昼は数秒、それを見つめた。


 ドライヤーの音が止まる。


 静寂。


「……触りました?」


 問いかける。


 上は静かだった。


 返事がない。


 だが、完全な沈黙のあと。


 コツ。


 小さな音。


 認めているのか、誤魔化しているのか分からない返答。


 真昼はスマホを手に取った。


 画面がつく。


 通知はない。


 ロックも解除されていない。


 なのに。


 ぞわ、と背筋が粟立つ。


 この人は、たぶん。


 自分が寝ている間にも、この部屋へ降りてきている。


 その想像だけは、まだ慣れなかった。


 真昼はスマホを伏せた。


 急に疲れが押し寄せる。


 もう考えたくなかった。


 何がおかしいとか。


 どこから壊れてるとか。


 そういうことを考える気力が、最近の真昼には残っていない。


「……寝ます」


 そう言ってベッドへ潜り込む。


 照明を消す。


 部屋が暗くなる。


 外から、遠くの踏切の音が聞こえた。


 カン、カン、カン。


 山形に来てから、夜の音が増えた気がする。


 東京では、もっと全部が連続していた。


 車。人。電車。サイレン。


 静寂なんてなかった。


 でもここでは、音と音の間に隙間がある。


 だから。


 天井裏の気配も聞こえてしまう。


 真昼は布団の中で目を閉じた。


 少しして。


 上から、微かに物音。


 布が擦れる音。


 誰かが寝返りを打つ気配。


 それを聞きながら。


 真昼は眠りに落ちていった。





 夢を見た。


 暗い場所だった。


 狭くて、埃っぽい。


 息を吸うたび、喉の奥がざらつく。


 真昼は仰向けのまま動けなかった。


 体のすぐ上に板がある。


 木の匂い。

 古い断熱材の匂い。

 湿った埃。


 天井裏だった。


 どうして自分がこんな場所にいるのか分からない。


 ただ、狭い。


 寝返りも打てない。


 遠くで、誰かの生活音がしている。


 水道。

 テレビ。

 笑い声。


 知らない部屋。


 その音を聞きながら、ずっと息を潜めている。


 怖い。


 でも。


 少しだけ、安心している自分もいる。


 ここにいれば、誰にも見つからない。


 その時。


 すぐ近くで、咳が聞こえた。


 ゴホ、と低い咳。


 真昼は息を止める。


 暗闇の向こうに、誰かいる。


 目が慣れていく。


 少しずつ。


 すぐ横に、人影。


 痩せた男。


 こちらを見ている。


 暗闇の中で、低い声。


「静かに」





 真昼はそこで目を覚ました。


 喉が乾いていた。


 暗い部屋。


 スマホの画面だけが、枕元で白く光っている。


 午前二時十三分。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 天井を見上げる。


 いつもの木目。


 点検口。


 静か。


 夢だった。


 真昼は小さく息を吐いた。


 寝返りを打とうとして、止まる。


 何か音がする。


 キ、……キィ。


 軋む音。


 ゆっくり。


 天井の上を、何かが移動している。


 真昼は布団の中で固まった。


 眠気が一瞬で消える。


 音は、真昼の真上で止まった。


 静寂。


 自分の心臓だけがうるさい。


 数秒後。


 点検口の向こうで、小さく咳。


 ゴホ。


 現実だった。


 真昼は目を閉じた。


「……寝てください」


 掠れた声。


 少し間。


 それから。


 コツ。


 小さな返事。


 真昼は布団を頭まで被った。


 怖い。


 まだ、ちゃんと怖い。


 なのに。


 完全にいなくなったらどうなるんだろう、という考えが、一瞬だけ頭をよぎる。


 その瞬間、自分で自分が気持ち悪くなった。


 布団の中で目を閉じる。


 眠れない。


 上では、もう音はしない。


 ただ、いる。


 それだけが分かる。


 真昼は薄く目を開けた。


 スマホの画面には、母親からの未読メッセージ。


『ちゃんと食べてる?』


 真昼はしばらくその文字を見つめていた。


 返信はしていない。


 最近ずっと。


 何を返せばいいのか分からなかった。


 元気だよ。


 仕事慣れたよ。


 山形寒いよ。


 そういう普通の言葉が、急に遠く感じる。


 代わりに。


 天井が、小さく軋んだ。


 ミシ。


 真昼はスマホを伏せた。


 そのまま、ゆっくり目を閉じる。


 暗闇の向こうで。


 誰かが起きている気配を感じながら。






 翌朝、真昼は寝坊した。


 目を開けた瞬間、部屋が明るかった。


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。


 まずい。


 そう思った瞬間、スマホを掴む。


 七時四十八分。


「……っ」


 始業は八時半。


 ここから会社までは車で二十分。


 完全に遅刻ではないが、余裕はない。


 真昼は跳ね起きた。


 その拍子に、何か紙が布団の横から滑り落ちる。


 メモだった。


『一回起こしました』


 真昼は数秒、それを見つめた。


 細いボールペン字。


 癖のない字。


 怒る気力もなく、真昼は額を押さえた。


「……起きなかったんだ」


 独り言みたいに呟く。


 上は静かだった。


 朝になると、三浦はほとんど音を立てない。


 むしろ夜より静かになる。


 真昼は急いで着替えた。


 スーツ。

 化粧。

 ヘアアイロン。


 狭い部屋の中を行ったり来たりする。


 その最中、ふとローテーブルを見る。


 ラップのかかった皿。


 中には卵焼きと焼き鮭。


 横に小さな付箋。


『朝、食べた方がいいです』


「……無理」


 真昼は呟いた。


 けれど、コンビニの菓子パンより胃に優しそうだな、と思ってしまった。


 それが嫌だった。


 洗面所で歯を磨く。


 鏡の中の自分は、昨日より少し顔色が良かった。


 寝不足のはずなのに。


 真昼は口をゆすぎながら、視線を上げる。


 浴室の換気口。


 その向こうにも、空間があるのだろうか。


 考えた瞬間、ぞわっとした。


「……見てないですよね」


 誰にともなく言う。


 返事はない。


 当然だ。


 真昼は急いで支度を終え、玄関へ向かった。


 その時。


 上から、小さく音。


 コツ。


 真昼は動きを止める。


「……何ですか」


 少し間。


 それから。


 ミシ。

 ミシ。


 二回。


 最近、なんとなく分かるようになってしまった。


 二回は、“忘れ物”。


 真昼は眉を寄せる。


「え」


 部屋を見回す。


 スマホ。

 社員証。

 鍵。


 全部ある。


 何だろうと思っていると、ふと視界の端に黒いものが見えた。


 ベッド脇。


 靴下。


 昨日脱ぎ散らかしたままだった。


 真昼は数秒黙り込んだあと、深くため息をついた。


「……ありがとうございます」


 天井が小さく鳴る。


 コツ。


 どこか満足そうに。


 真昼は靴を履いた。


 玄関のドアに手をかける。


 そこで、一瞬だけ止まる。


 普通じゃない。


 朝の支度を、天井裏の男に管理されている。


 それなのに。


 完全に拒絶しきれない。


 真昼はドアを開けた。


 五月の朝の空気は冷たかった。


 外へ出る。


 廊下。


 隣の部屋のドア。


 干された洗濯物。


 普通のアパート。


 普通の朝。


 なのに。


 真昼は振り返ってしまう。


 自分の部屋を。


 古い二〇三号室。


 静かな天井。


 そこに誰かいることを知っているのは、自分だけだった。


 真昼は視線を逸らし、足早に階段を下りていった。

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