第18話 メモ
火曜日。
帰宅は、少し遅くなった。
残業。
雨。
電車の遅延。
真昼は疲れた身体のまま、アパートの階段を上がる。
二〇三号室。
鍵を回す。
ドアを開ける。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
その瞬間。
真昼は、無意識に小さく息を吐いていた。
疲れている時ほど、
この部屋の空気が身体へ馴染む。
それが嫌だった。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
真昼は靴を脱ぎ、ソファへ鞄を置いた。
その時。
上から、低い声。
「……遅かったですね」
真昼は髪を軽くかき上げる。
「……残業です」
「雨、強かったので」
真昼は少し止まる。
その言い方。
まるで。
帰りを待っていたみたいだった。
真昼はキッチンへ向かう。
小鍋。
湯気。
整えられた流し。
生活。
完全に。
生活だった。
真昼は味噌汁を器へよそいながら、小さく息を吐く。
「……最近、普通に会話してますね」
言ってから、自分で止まる。
上は静かだった。
少しして。
「……はい」
短い返事。
真昼は思わず苦笑しそうになって、止める。
危ない。
本当に。
最近、
“変な共同生活”
として成立し始めている。
その時。
スマホが震えた。
会社のグループチャット。
『来月歓迎会やろう』
『佐伯さんの送別会も兼ねる?笑』
真昼の指が止まる。
送別。
まだ決まっていない。
でも。
周囲はもう、
“東京へ戻る”
前提で話し始めている。
真昼は画面を見つめたまま動かなかった。
その時。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
「……東京ですか」
低い声。
真昼はスマホを伏せた。
「……まだ分からないです」
最近、その返事ばかりしている。
自分でも分かっている。
本当は。
決めきれていないだけだ。
部屋は静かだった。
味噌汁の湯気だけが揺れている。
その時。
上から、低い声。
「……佐伯さん」
「……何ですか」
少し間。
「……今日は、かなり疲れてるので」
真昼は顔を上げる。
「……早く寝た方がいいです」
真昼は何も言えなかった。
また。
生活へ入り込んでくる。
睡眠。
食事。
帰宅時間。
疲れ方。
その全部へ。
でも。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥へ、少しだけ力が抜ける。
真昼はゆっくり味噌汁を飲む。
暖かい。
静かな部屋。
上では、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼はぼんやり天井を見上げた。
最近。
この音があるだけで、
“部屋へ帰ってきた”
と思ってしまう。
味噌汁の湯気が、静かに揺れていた。
水曜日。
真昼は、仕事中ずっと眠かった。
昼休み。
デスクへ突っ伏したまま、小さく息を吐く。
「佐伯さん、最近ちゃんと寝てるんじゃなかったの?」
同僚が笑いながら言う。
真昼は曖昧に笑い返した。
「寝てますよ」
実際。
前よりは寝ている。
生活も整っている。
食事もしている。
なのに。
疲れ方だけが、少し違う。
神経が休まっていない感じ。
ずっと。
誰かの気配へ耳を澄ませているみたいな。
帰宅。
外はもう暗かった。
アパートの階段を上がる。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
真昼は、無意識に肩の力を抜く。
最近。
帰宅した瞬間の安心感が強すぎる。
それが怖い。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
真昼は靴を脱ぎながら、小さく目を閉じる。
もう完全に、
これが“返事”になっている。
キッチンへ向かう。
その時。
上から、低い声。
「……今日、かなり眠そうでしたね」
真昼の動きが止まる。
「……見てたんですか」
「駅で、ふらついてたので」
真昼は小さく息を吐いた。
最近ではもう、
この返答へ驚く気力も薄い。
ただ。
少しずつ。
生活圏全部へ三浦が滲んできている。
その感覚だけが、ずっと気持ち悪い。
真昼は冷蔵庫を開ける。
麦茶。
豆腐。
卵。
最近、自分の冷蔵庫なのに、
“共有物”
みたいな感覚が少し混ざる。
その時。
上から、小さく咳。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
「……また咳してますね」
「……乾燥してるので」
静かな返事。
真昼は冷蔵庫を閉めた。
少し間。
それから。
「……加湿器、出します?」
言った瞬間。
真昼は固まった。
部屋が静かになる。
冷蔵庫。
換気扇。
遠くの車。
その全部の中で。
自分が今、
何を言ったのかを理解する。
加湿器。
三浦のために。
天井裏の環境を気にして。
真昼はゆっくり顔を覆った。
「……終わってる」
掠れた声。
上は静かだった。
数秒。
長い沈黙。
それから。
「……喉、少し楽になるので」
低い声。
真昼は何も言えなかった。
否定しない。
拒絶もしない。
普通みたいに会話が成立している。
真昼はソファへ座り込む。
その時。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
静かな部屋。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
真昼はぼんやり天井を見る。
この部屋はもう、
少しずつ、
独り暮らしじゃなくなっている。
木曜日。
朝から、部屋が静かだった。
真昼は目を覚ましたあと、しばらく布団の中で天井を見ていた。
静か。
咳もしない。
ミシ、という小さい音もない。
そのことへ、
少しだけ落ち着かなさを覚えてしまう。
真昼はゆっくり目を閉じた。
駄目だ。
本当に。
朝。
キッチンへ向かう。
味噌汁はある。
湯気も立っている。
でも。
気配だけが薄い。
真昼は箸を持ったまま天井を見る。
「……大丈夫ですか」
数秒。
沈黙。
それから。
「……います」
低い声。
小さい。
真昼はほんの少し肩の力を抜いて、すぐ顔をしかめた。
もう、
確認が癖になっている。
会社。
昼。
同僚と話していても、
ふと天井裏の静けさを思い出してしまう。
咳、減ってたな。
寝てるんだろうか。
何考えてるんだろう。
真昼はそこで思考を止めた。
危ない。
かなり。
帰宅。
外は少し寒かった。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
真昼は無意識に耳を澄ませる。
静か。
だが。
いる。
なんとなく分かる。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
真昼はソファへ鞄を置き、小さく息を吐く。
その時。
上から、低い声。
「……加湿器」
真昼は天井を見る。
「……出しました?」
「……出しましたよ」
昨日。
押し入れから出した。
小さい卓上の加湿器。
真昼はふと止まる。
なんで報告してるんだろう。
本当に。
上は静かだった。
少しして。
「……喉、少し楽です」
真昼は何も言えなかった。
その会話。
完全に。
同居人だった。
真昼はキッチンへ向かう。
その時。
ふいに、足が止まる。
流しの横。
小さいメモ。
『加湿器、水減るの早いので気をつけてください』
真昼はしばらく動かなかった。
その字。
少し歪んだ、古い書き方。
生活感。
人の気配。
真昼はゆっくりメモを持ち上げる。
その瞬間。
ふと気づく。
最近。
三浦の“存在”じゃなく、
“生活”
だけが部屋へ溶け込み始めている。
姿はない。
でも。
味噌汁。
加湿器。
メモ。
ミシ。
その全部が、
二〇三号室の生活として成立し始めている。
真昼は静かにメモを折り畳む。
そして。
それを捨てずに、
テーブルの端へ置いた。




