ep.9 微睡みながら
わお、10日ぶり?記憶がないなー。
この街、ルブリンに来たのはいつだったか。とても美しい街で、用もなしに歩き回っては満足する日も多々あったと思う。
それが、昨日のことのように思い出される日もあれば、二度と取り戻せない遠い日々のように思い起こされる日もある。
今となっては、街や人々はほとんどの面影を失ってしまった。
朝の光はいつも、城のある方から差してくる。ちょうど、私の部屋の窓は東向きで、日の眩しさで目を覚ます事が多かった。ここしばらくは、空腹で目を覚ます事もあるが。
前の通りに出ると壁や柱、そこら中に貼られた紙が目に入る。貼紙はしばらく変えられていないのか、文字がにじんでいて、貼紙に書いてあることと言えばどの店に入れるか、どの地下室が使えるか、そんなところだ。
最初の頃こそ何度も読み返して確認したが、今はもう目に入るだけうっとうしく感じる。
許されている場所、そうではない場所、その境目をたどって歩く。
そういえば、ここに来てすぐ、街の地図を覚えようとしたものだ。苦労はしたが、毎日歩き回ると自然に覚えてきた。
今の司令部の定めた地名と、私の中に残る名前は一致しない。街の人々は、その知らない名前で呼ぶが、きっと私のように覚えているんだろう、本来の私たちの父国を。
クラクフ前通りは広い通りだ。通る度ににぎやかな人々を鑑みては、その輪に加わったような気がして、楽しかったものだ。
軍靴の音がよく響いて、音が近づいてくると、目の前の人の列は自然と形を変えた。少し道を空ける者もいれば、何もしない者もいて、後者はなかなか見かけない。
通り沿いの窓は、決まって閉まりきっていて閑散とはしているが、その窓の向こうに人がいる気配はある。
しかし、決して外に出てはこないだろう。窓を閉めたままの生活も、もうほとんど人々の当たり前になった。
ルブリンの顔と言ってもいいだろう、街並みの中で、城は丘の上にそびえ立っている。なんと勇壮だろうか。
占領以前からそこにある、数少ない変わらないものだ。しかし、そんな例外もなかなか無い。城の内部が、何のために使われるようになったか、よくは知らないが。
その用途について、人は多くを話さない。
城壁が厚く見える。
その冷たい石の向こうで、誰かの短い一生が終わることがあって、けれど、そのことを告げるような大きな音も、叫び声も聞こえない。街中に響くこともない。
ある意味で、これらは生きている者たちが身につけた、醜い習性とも言える。
私はただ、近づかない。見ない。もし城の近くや下を通るときは、ほんの少し足を早めて、なるべく何も考えずに通り過ぎる。
変に勘ぐらないほうがいいのも、そして同時に、目を背けてはいけないのも分かっている。
川辺の近くまで来ると、微々たるせせらぎが聴こえてくる。
今日もビストジイツァの流れは緩やかで、水面に光が翻っている。
この川はドイツ語だと別の言い方、書き方をされるときがあったような。控室で、ノープが口にしたことがあったが、どうだったか。
よく思い出せない。
冬には水面に薄い氷が張る。ビストジイツァが凍ると、川辺に子どもたちが集まって、楽しげにしているのを見かけたものだ。
川には橋がかかっていて、橋のたもとで、1人の独兵だかに、言葉を投げかけられた。用件ではなく、通行できるかどうかを確かめるためだったようだ。はい、とだけ答えて、その場を離れた。
今は、すっかり簡単に近づける場所ではなくなってしまったな。背後から穏やかな清流の音がする。あの城のように、この街で汚されていないものの一つだと、思いたい。
旧市街の路地は極端に狭い。私は何年通っても慣れない。足元の石段には、ところどころ雪が残っている。
雪の上に、私と彼の足跡を2つ並べられたら。
そんな時は来るのだろうか。こうやって街を巡っていると、彼が居ないことだけが心残りだ。私は、私の身の回りのことを彼に知ってほしいし、彼のこと⋯友人や家族、住んでいる街について知りたい。
私は自分の足跡をなぞって、そのうち、乱雑に消してしまった。
路地を出た脇の店は閉まり切っているようだ。以前は何の店がやっていたかな、確か果物屋だったか。
よく見ると、ドイツ語で書かれた貼紙が扉に杭で打ち付けられている。なんとなく、目を伏せて背けてしまった。
そういえば、今日は食事を取っていなかったかもしれない。後もう少ししたら、戻ろうか。といっても、配給された食料はわずかだ。部屋にはパン1切れも無いだろうか。
もうすぐ正午になる。許可証のための列が伸び始める頃で、広場が人で埋まってきた。中央には時計があって、あまりにも正確な秒針にさえ、嫌気が差してくる。昼時だというのに風が吹き始めてくると、ずっと寒くなった。ここのところ、あまり体調が優れない。薬は高いどころか、もはや売ってもらえるだろうか。そんなだから、街に出れば気分転換にでもなると思ったが、悪化する一方だ。しくじった。
夏になると、ここら一帯は冬の厳しい寒さが嘘のように暑くなる。日差しも暖かいとは言えないほど。唯一の日陰はベンチに占領されてしまっている。だからといって、日で熱を持った縁石に座れば、焼け焦げそうになる。
向こう側で、嘲笑がするのはいつも通りだったと思う。
教会の鐘が12時を告げている。数段の石段の上にある、教会の扉は少し空いていた。隙間から、香だろうか、朝やかな匂いが流れてくる。私は足を止めてしまって、少しの間、入ろうか葛藤したが、結局やめにしてしまった。司令部に顔を知られているのに、祈る勇気はない。しかし、神なんて本当にいるのだろうか。人の偶像崇拝でしか無いのだろうか。
部屋に戻って、椅子の中でほとんど夢へ旅立ちそうだ。夜に窓の外を眺めるのも、私の日常の一部だった。
夜のルブリンには灯りが少ない。ドイツ軍の車が走ってくると、その灯が一度だけ壁を撫でる。通り過ぎる光を目で追いはしなかった。この街に残っているものは、一体幾つなんだろう。数え始めそうだ。これ以上は部屋の中に持ち込みたくないのだが。
明日になれば、今日見たあの列に並ばなければならない。
丘の上の高みに美しい城があり、ビストジイツァの川が和やかに流れ、人々は密かに息づいている。
私はまだ、この街をルブリンと呼びたい。
昼には別の名前になる街、しかし、窓の向こうには人が居て、希望を見捨ててはいないのだ。
希望⋯
私にとっての希望は、ノープかもしれない。
私が生きている限り、彼は死の危険に晒され続ける。彼を間接的に縛り付けているのは私だ。
果たして、彼は自身の国を愛しているのだろうか。もし彼が私と反対の側に行こうが、裏切ろうが、その時は受け入れたい。
彼に殺される時が来ても、それは仕方の無いことだ。
今はどうしているかな。
いつか夜が明けるように、夢が夢で無くなるように、神がここに居るように、私は願いたい。
この街の灯りが灯っている限り、願い続けたい。




