第11話 裏アカウント
その火種は、慎一の知らないところで、静かにくすぶり始めていた。
大手匿名掲示板、探索者カテゴリ。
『【検証】シン先生の講座、高評価欄に「最初からいる」謎アカウントの件』
スレ主の主張はこうだ。乱入回以来、解析勢の関心は「残りの教え子四人も講座を見ているのではないか」に移っている。そこで全アーカイブの公開高評価欄を突き合わせたところ、一つだけ、奇妙なアカウントが浮かび上がった。
アカウント名、「m_0」。
・登録日は、講座第一回の翌日
・投稿ゼロ。コメントゼロ。フォローは講座チャンネルひとつだけ
・アイコン未設定。完全な無言アカウント
・なのに高評価だけは、第一回から最新回まで、全部に付いている
・そして高評価の時刻が、確認できる限りすべて、午前四時台
【ただの早起きのファンだろ】
【いや待て。m_0。mと、ゼロ。……「ミオ」って読めないか】
【は?】
【氷堂澪。「夜明けの魔女」。明け方の単独訓練を何度も目撃されてる、あの】
【さすがに飛躍だろ……いや、でも登録日……】
スレは一晩で伸びに伸び、翌日の生放送へと持ち込まれることになる。
◇
「えー、それじゃ最後、いつもの質問コーナーです」
配信も二十二回を数えた。終わり際に視聴者の質問をいくつか拾うのは、第三回あたりからの恒例である。
「『ソロ探索とパーティ探索、初心者はどちらから始めるべきですか』。――いい質問ですね。結論はパーティです。ただし理由は『安全だから』じゃない。初心者のソロは、自分の失敗に気付く手段がないんです。隣で誰かが見ていて、初めて失敗は失敗になる。……まあ、それを仕事にしていたのが俺なんですが」
【さらっと言うけど重い】
【講座の根っこの話だ】
「次。『先生の講座、正座して見てます』。これは質問じゃないな。楽にしてください。膝を壊すと三層で困るよ。それじゃ次――」
読み上げかけて、少しだけ、手が止まった。
『質問です。アーカイブ全部に高評価を付けている「m_0」というアカウントは、氷堂澪さんではないかと言われています。先生は心当たりがありますか』
コメント欄の流れが、目に見えて速くなった。
【来た】
【それ聞くか】
【特定勢の悪い文化を持ち込むなって】
【でも気になってた】
さて。本人かどうかなんて、俺に分かるはずもない。分かるはずもないのだが――「午前四時台」の一行を見た瞬間、答えより先に、懐かしさのほうが来てしまった。
「心当たりというか……本人かどうかは、本人にしか分からないけどね」
俺は、たぶん少し笑っていたと思う。
「澪ちゃんは、明け方の復習が好きな子だったからね。今もそうなら、嬉しいな」
【あっ】
【あーーーー】
【先生それ実質確定では??】
「あの子はね、教わったことをその日のうちに使わないんです。一晩寝かせて、明け方にもう一度、一人でさらう。誰に教わったわけでもないのに、一番身につく復習のやり方を自分で見つけた子でした。だから俺が教えたのは、明け方の訓練場の鍵の借り方くらいです。コーチの仕事なんて、そんなものですよ」
【こんなん本人が聞いたら泣くだろ】
【見てたらどうすんだ】
【見てるんだよなあ(高評価欄を見ながら)】
【えっ、待ってください、私、氷堂澪さんと同じ講座を受けてるんですか……!?】
「ヒナちゃんは課題やりなさい。……まあ、別人だったらすみません。m_0さん、いつも高評価ありがとう。あなたが誰でも、明け方の復習はいいぞ。空気が静かで、よく入る」
◇
見ていた。
それどころか、氷堂澪は生放送開始の三十秒前から、いつものように灯りを落とした部屋で、息を潜めて待機していた。
『澪ちゃんは、明け方の復習が好きな子だったからね』
端末が、手から滑り落ちた。
絨毯の上の画面の中で、配信は何事もなく進んでいく。澪は落ちた端末を拾えないまま、その場にしゃがみ込んだ。心臓の音がうるさい。S級認定試験の最終局面でも、こんな音はしなかった。
――ばれている。
いや、ばれてはいない。先生は何も確定していない。していないが、あの言い方は。あの、声は。
『今もそうなら、嬉しいな』
「〜〜〜〜っ」
声にならない音が出た。人類最強の魔導師、現代魔法理論を三度書き換えた女、氷堂澪(二十三歳)は、そこから先の記憶が曖昧である。気が付けばベッドの上にいて、布団を頭まで被り、足を、ばたばたとさせていた。理性が「やめなさい」と言っている。足は止まらない。魔力制御、S評価。足の制御、E。
十六歳の氷堂澪は、誰とも話せない子供だった。
頭の中には魔法理論の図面が際限なく広がっているのに、口に出すと一行も伝わらない。同期の輪に入れず、教官の所見には「協調性なし」と書かれ、夜が明ける前の誰もいない訓練場だけが、唯一息のできる場所だった。
ある明け方、その訓練場に、地味な中年が立っていた。
「ああ、ごめん。邪魔する気はないんだ」と中年は言った。「ただ……昨日の講習の術式、君、組み替えてたでしょう。あれ、講習のやつより良かった。どういう理屈か、今度ノートに書いてくれないかな。口で言わなくていい。書くだけでいい」
口で言わなくていい。
その一言がどれほどのものだったか、たぶんあの人は、今も知らない。
それから二年、彼女は書き、あの人は読んだ。会話らしい会話のないまま、ノートの往復だけで、落ちこぼれの無口は人類最強の魔導師になった。初めての高難度任務の朝、あの人は不格好な手縫いの小さな袋を寄越した。「お守り。気休めだけどね」。中身は、あの人のノートの切れ端が一枚。
『氷堂澪の強さは、口下手であることではなく、口下手を補って余りある誠実さである。本人だけがそれを知らない』
あの紙は今も袋ごと、机の一番上の抽斗にある。
布団の中で、澪は端末を引き寄せた。この二日、何百回も開いては閉じているスレッドがある。玲からの、二年ぶりの一斉送信。
【先生が一人でいる。お前ら、いつまで気付かないふりをするんだ】
既読は、一分で付けた。あの夜も、ちょうど画面を見ていたから。返信は――まだ、できていない。気付かないふりなんて、していない。毎朝四時に、気付き続けている。ただそれを伝える言葉が、何年経っても、まだ一行も書けないだけだ。
非通知でかけた十一秒の電話は、名前を呼ばれただけで切ってしまった。
言葉は、まだ書けない。電話も、できない。
でも。
澪は布団から腕だけを出し、自分のサブアカウントの設定画面を開いた。それから机の抽斗を開け、古びた手縫いの袋を、世界で一番丁寧に撮影した。
◇
翌日の昼、例の検証スレに、一枚のスクリーンショットが貼られた。
【おい】
【おいおいおいおい】
【「m_0」、アイコン付いてるんだが】
初期設定のままだった灰色の円に、画像が設定されていた。何の変哲もない、不格好な手縫いの小さな袋の写真。古びて、角が擦り切れて、それでも大事に扱われてきたことだけは分かる写真だった。
それが何なのか、特定勢の誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、第一回から沈黙し続けてきた無言のアカウントが、初めて何かを「言った」ということだった。
【なんだろうな、これ】
【分かんないけど、分かる】
【触れるな。これは進展だ。静かに見守れ】
【ところでさ、高評価欄、他にもずっと無言の怪しいアカウントが三つくらいあるんだが】
◇
同じ週。霞が関、ダンジョン庁安全統計課。
月例報告の作成中だった若手職員が、グラフの前で首を捻っていた。
中堅探索者――C級からB級帯の、ダンジョン内死傷率。先月から、明らかに下がっている。装備規格の改定はない。大型の攻略法の発見もない。集計エラーを疑って三度回し直しても、折れ線は同じ角度で下を向いた。
「……なんですか、この数字」
原因不明の、人が死ななくなる現象。
その折れ線が下を向き始めた日付が、とある初心者講座の配信開始日と重なっていることに――気付く者は、まだ誰もいなかった。




