全体的な補足説明&ネットスラング擁護の文章含む
さて連載の四回目である。
今回の文章の目的はみっつある。
ひとつめは、積み残しになっていた、
②wwや(笑)や(・∀・)などのネットスラングの使用とか について擁護の文章を書くことである。
ふたつめは、このエッセイをupして以来、数多くのご感想を頂き、その頂いたご感想を拝見し、また返信させていただく過程で、見落としていた点や書洩らしていた点が数多くあると気付かせていただいたので、その点を補足することである。まあもっとも、ついカッとなって勢いで書いた文章であるから、穴がたくさんあるのは始めから分かっていたのだけれど。
みっつめは、ふたつめの目的と若干重なるのではあるが、本エッセイにおける『模倣作品』という言葉の意味についての説明である。つまり『エタってもいいじゃない。模倣作品でもいいじゃない。』などと題する文章を書いたにも関わらず、模倣作品という言葉の定義が抜けていたことに後から気が付いたので補足しようという意図である。なんじゃそらという話である。
それで、そういう目的で書くのだけれど、今回書く内容は、ひとつめ、ふたつめ、みっつめ、そのすべてが、感想欄に読者様からの感想を頂いて、その感想に返信をつけさせていただいてという過程で、その書く必要性や、書く内容、論点がはっきりしてきたものなのである。ということは、今回の文章は本エッセイを読んでご感想を書いていただいた方への総合的な返信という内容になる。
このエッセイは『ネット小説なんかでよくある〈side ○○〉〈side out〉形式の書き方とか、ネットスラング多用、テンプレ多用、途中でエタる連載など、よく批判されるそういう諸々を擁護する文章になる予定』で書かれたのであるが、
過日、この『小説家になろう』のユーザーである 本宮愁さま より、本エッセイに対するご感想を頂いた。頂いたご感想は、言葉を厳密に用心深く用いるという点で非常に丁寧であり、かつエッセイの内容に関して網羅的に書かれていた。
それで、筆者が擁護しようとした、そういうよく批判される様々な事柄にはいったい、擁護されるべき何があったのだろうという、そういう論点を明確にするような、雑然としていた作者自身の頭のなかを、整理整頓するような実に見事なご感想であった。
であるから、そのご感想に返信を書かせていただく過程で筆が乗り(あるいは滑り)文字数的に連載が一本分できてしまった。
それで 本宮愁さま に頂いたご感想と、それに対する私の返信をそのまんま本エッセイの最新話として掲載させていただけないかとお願いしたら、こころよくご許可をくださった。
それで、それを以下に掲載する。
その中に、冒頭で挙げた、ひとつめ、と、ふたつめの目的に関する文章が含まれている。
その後に、みっつめの、『【模倣作品】という言葉の意味についての説明』を加えて終わりである。
◆
投稿者:本宮愁 [2012年 12月 23日 (日) 03時 18分]---- ----
▼一言
はじめまして。さざっと目を通しただけなので、作者さまの主張を正確に読解できていなければ、申し訳ありません。
なにが正しい、というわけではなく、一書き手(兼、活字中毒者)として、感じたことを書かせていただきたいと思います。
①視点変化
作中で視点を変えることそのものには、なんの問題もないのだと思います。おっしゃる通り、出版作品にも用いられることの多い手法ですね。
では、なぜ、視点を変えるべきでないとされているのか。この技法を使いこなすことは、非常に難しいからです。
予告なく視点を動かすことは、描写の矛盾を生み、読者の混乱を招きます。本文の中で、さりげなく、それを読者に悟らせることは、プロだからこそできる技術です。
確かに、サイドを明記することにより、この技法の難易度は格段に下がります。どうしても必要な場合、これを用いることは、一概に否定できないでしょう。
しかし、本当に、『必要に迫られて』用いられているでしょうか? 私は、そうは思いません。本来、記述しなくともよい、冗長な描写である場合が、多々あるのではないでしょうか。
必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。
②ネットスラング
顔文字、スラング、いいと思います。あえてそれを用いる、という作者の表現であるならば。
ただ、必要性の感じない作品/場面での、小文字/顔文字の利用は、正直、賛同し兼ねますね。読みづらいし、気力が萎えます。
ネットスラングでなければならない、という場所での使い方ならばいいのです。それ以外で、描写しようとする努力を欠くことは、作者の怠惰であるように思います。
たとえ、どれだけ未熟で稚拙な文であろうと、自分なりの表現を模索して、読者に伝えようとすることが大切ではないでしょうか。
③模倣作品
オマージュを繰り返すことにより、新しい作品が生まれる。確かに、そう思います。
しかし、なにごとにも限度というものがあります。練習用として、手元で模倣するだけならいざ知らず、自分の作品として投稿してしまうことは、あきらかに度を超えています。
流行り廃りがありますし、『似たような作品』までは白としても、『ほとんど同じ設定』あたりからはグレーですよね。
すべてが悪いとは言いませんが、似たようなジャンルの作品ばかりが溢れかえってしまうのもなあ、と思わなくもありません。少しの捻りではなく、もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまうことにはなりませんか?
④エタり
こればっかしはなんとも……。完結させる、ということは大変な労力を使いますし、気楽に書き始めた作品、すべてにその保証をしろと言われれば、書き手としても苦しいですね。
ただ、問題なのは、エタることそのものではなく、それを肯定してしまうことだと思います。
必ずしも完結しなくてもいいのかもしれません。読み手としては、途中まででも充分に楽しめる場合もあります。更新が止まっても、まあ、仕方ないかで割り切って忘れてしまうような。
ただ、書き手としては、本来は完結すべきものである、という意識が根底になくては。それが失われてしまったら、完結できる作品も完結しなくなります。
そうして、エタることが当たり前になればなるほど、未完のまま放置された小説が、より溢れかえっていくことが危惧されますね。
長文、失礼いたしました。一個人の意見として、お受け止めいただければ幸いです。
西村紅茶 [2012年 12月 26日 (水) 23時 07分 48秒]
ご感想を頂き、まことにありがとうございます。
実はですね。先日、初めて『妖怪お気に入り外し』に遭遇しまして、そこへきてご感想を頂きましたので、とても嬉しかったです。まあもちろん完結済みのエッセイですから、お気に入りを外されても、むべなるかな、ですが。
えー、では、ご感想返信の本題に入りまして、
>必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
>以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。
一般的に言いまして、このご指摘は全く至当であると思います。
しかし、しかし、本エッセイは題名からして『俺は、せっかくだから〈side ○○〉〈side out〉形式の小説を擁護するぜ』ですから、幾ばくかの擁護というか、だってだって何々なんだもん! というような言い訳をさせて頂きたいと思います。
言い訳というより、参考意見というようなものでしょうか。
まず、本エッセイ連載第三回目の『エタり&模倣作品』についての文で触れましたが、
『キャラクターの自律化』という考え方、すなわち、
アニメやラノベやゲームなどのキャラクターが、その作品自体を離れて自立。つまりキャラクターが固有の人格を持つ場合があります。
例えば二次創作のクロス物といわれるジャンルでは、キャラクターが自分の作品世界を離れて別の作品世界に出張したりする。つまり、ある作品のキャラクターが、そのキャラクターが存在する作品を離れて、キャラクター単独で行動しているということがあります。
このような、小説は旧来からのいわゆる私小説とは、その形式を異にします。
従来の私小説は、語り手となる視点人物の心情の変遷を描写していくタイプのもので、これはすなわち、原則として一人称の視点固定を要請します。
しかし『キャラクターの自律化した小説』とは一体どのようなものでしょうか。
作者の技量などもそれぞれあるので、その試みが成功しているかどうかは別論なのですが
『キャラクターの自律化した小説』というのは、
小説中の登場人物が、ストーリー展開上の単なる役割としてあるのでなく、それ自体自立した人格を持っていて、その人格すなわち、もはや単なる小説のストーリー展開上存在するに過ぎない役者ではなく、もはや『彼ら彼女ら』というにふさわしいキャラクター達の群像劇を、それぞれのキャラクターごとの心理描写も交えながら描写する。……というような形式の小説だと(私は)思います。
そのような形式の小説を書くとなるとどのような記述方式がよいか?
従来の小説形式で似たものを探すとすれば、それは戦記物になると思います。
つまり、視点人物がころころ替わるという点で似ているんですね。
じゃあ『キャラクターの自律化した小説』も戦記物を参考にして、同じように書けばいいじゃないか。と言えるかというと……その通りなのです。
何も戦記物に限らず、視点変更のある小説はたくさんあります。
では何が不満なのか。なぜ〈side ○○〉〈side out〉なんぞ使うのかというと、そのような、頻繁な視点移動のある小説は、主人公視点、あるいは視点移動をした場合でも、三人称を用いていることがほとんどであるように見受けられるのです。
『キャラクターの自律化した小説』というのは、それぞれの魅力的なキャラクターの一個の人格を描き出すような小説ですから、外から見て分かるキャラクターの言動・行動のみならず心理的描写も含めて一個の人格をねっちりと描きたいわけです。
そうすると、キャラクターの心理描写にどっぷり没入するためには、三人称でも描写することは可能ではありますが、没入の度合いをより深めるためには、やはり一人称をチョイスすることが必要なように思われたりするわけです。
そして、その『魅力的なキャラクター』は何人もいたりするのです。
そう思った時にいわゆるプロでない、小説家の常識にとらわれない素人(例えば恐らく大多数の小説家になろう作家の皆様)はどう考えるかというと、纏めて言いますと『一人称で、なおかつ頻繁に視点移動をしたい』と考えるのかもしれません。
三人称であれば、視点移動をしたとて、文章の中で登場人物の名前を連呼できます。
「佐藤一郎は走った。佐藤一郎は田中次郎を殴った。佐藤一郎はゲロを吐いた」
などのようにです。
しかし、一人称の視点移動はどうか。
従来から恋愛小説などで、恋人同士の主役二人の間で一人称視点が交互に移動するなどという手法はありましたし、三角関係用の当て馬男(或いは女)をもう一人くらい一人称視点で登場させるようなこともあったかもしれません。
しかしですね。一人称の視点移動が四人、五人となってくるともう見分けをつけるのが難しくなります。
周囲の人物に名前を呼んでもらうとか、~佐藤一郎の何月何日の日記より~などと色々に小細工をすれば一人称多人数視点移動も可能かもしれませんが、それも頻繁になってくると、やはり根本的に無理があります。
そうなるともはや残された手段は〈side ○○〉〈side out〉しかない(のかもしれない)のです。
そう、すなわち〈side ○○〉〈side out〉とは【一人称多人数視点移動】のことなのです。
もちろん『そもそも【一人称多人数視点移動】などというケッタイなものは書くべきでない』と言われてしまえばそれまでなのですが。
ですから結論を申しますと、
>必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
⇒まったくその通りだと思います。
>以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。
⇒『技術不足の甘えからくる技法である』とまで確言できるとまでは、言えないと思うのです。つまり、
・キャラクターをその内心にまで踏み込んで十全に描写したい。
・その描写の没入具合を高めるためには三人称ではなく一人称が必要だ。
・それなのに描写したいキャラクターは多人数いる!
となると……ま、〈side ○○〉〈side out〉使っちゃってもいいかなー。となります。
でもその場合以外は概ね同意であります。
次に、ネットスラング問題ですが、
私は、職場で社内の色々な人からメールを貰う機会がありまして、そのメール自体はなんてことない業務連絡とか挨拶のようなものなのですが、そのなかに顔文字や携帯の絵文字が入っていることがちょくちょくあります。
その顔文字・絵文字はどうして用いられているかというと、単なる依頼や連絡であっても、ビシッと言いきると、そのメールの内容が、押しつけがましく感じられたり、あるいはメールの発信者が怒っているのではないかと思われる虞があるときに、顔文字・絵文字でその緊張を和らげようと考えているのかと推察されます。
つまり、顔文字・絵文字というものは、連絡内容などの情報の伝達というよりは、書き手自身の持っている、あるいは受け手に伝えたい感情、情緒を伝達するための符号なのです。
つまり、メールやインスタントメッセージなど、文章をもって情報を伝達しなければならない機会がかつてないほどに増えてきた現代における対人関係の知恵です。
ウィキペディア先生のおっしゃるところによりますと、【!】や【?】は『約物』というものだそうですが、これは『句読点など、自然言語の中で文字に混ぜて使う記号』なのだそうです。
一般的に言って【!】は驚きや人物が怒った場合の強調なども表しますし【?】は疑問を表します。
ということは、つまりそれは感情を表す符号なのです。そうだとすると、
【!】や【?】 = 感情を表す符号 = 顔文字・絵文字
つまり『本質的には同じもの』という等式が成立し(ないこともない)ます。
あるいは、wwwとか(笑)なども、あんまりきれいな感情ではありませんが、インターネットの掲示板などでよく見られるような嘲笑的な情感をよく表しているとも言えます。
これもまた感情をあらわす符号として、一般化しているのです。
驚き・強調=【!】 疑問=【?】 と何らの描写をせずに、ただそれだけで済ましてしまうならば、それは小説としては、ちょっといかがなものかと言わざるを得ません。
しかし! や? が節度をもってであれば、ごく普通の文章中での使用も許されるのであれば、同じ程度に、wwwとか(笑)とか顔文字・絵文字も、
>ネットスラングでなければならない、という場所での
などと限定せずとも、節度をもってごく普通に使えばいいのではないかと思います。
【!】や【?】とネットスラングは、感情を表現する符号であるというその本質において何ら変わるところがない(キリッ)
……とここまで書いておいてなんですが、個人的には、顔文字はほとんど気にならないんですが、wwwとか(笑)とか、あんまり好きじゃないんですよねー。はっきりいって読む気が30%ほど萎えますよねー(じゃあこんな擁護の文章書くなよってことですが)
あともうひとつ、この『小説家になろう』に投稿されている
千海さま作『勇者の嫁になりたくて ( ̄∇ ̄*)ゞ』という作品がありまして、この小説は、それこそ表題にも顔文字が入っているくらいで、顔文字その他を多用している小説であるのですが、この小説に出てくる顔文字表現はとても楽しく、もはや芸術といっても良いくらいのものであると私は判断します。
この作品を見ると顔文字もいいよねと思えてきます。
次に模倣作品について。
小説のジャンルでミステリーというものがあります。
まあ、殺人事件があって、探偵がいて、刑事さんがいて、探偵がトリックの解明を皆の前で披露して、犯人の動機が語られて、というような流れを採る小説(やドラマやアニメや映画)はたくさんあります。
もうそれこそ >ほとんど同じ設定 も山ほどあるでしょう。
でも多分それらの小説は盗作とは言われないのではないかと思います。
何となれば、殺人事件があって、探偵がいて、刑事さんがいて、探偵がトリックの解明を皆の前で披露して、犯人の動機が語られて、という枠組みは、ジャンルというものであって、そのジャンルという枠組みの中で『趣向』を競う、という暗黙の了解があるからではないかと思います。
それは虚心坦懐にみれば『パクリ』と表現することも可能ではあるが、しかし実際には、それは『パクリ』とはみなされない。なぜならそれは『ジャンル』だからである。ということです。
例えば、小説家になろうにあふれるVRMMOものの多くは『ソード・アート・オンライン』や『ログ・ホライズン』のマネなのでそもそも公開すべきでない、というとすればそれは少し極端だと思います。
つまり結論を申しますと
>『ほとんど同じ設定』 でも、書いてみれば、やっぱりどうしても作者のカラーが滲んじゃうので、多くの昼ドラのミステリーが相互に似通っているのと同じ程度に似通っており、同じ『ジャンル』だと言えるほどに似ているが、それでも作者ごとに違いや個性がある。
故によくある一般的な模倣作品とも言われる作品群は、公開すべきでないというほどグレーゾーン作品だとまでは言えない。
ということになります。……まあそれでも程度問題ではあるのでしょうけれど。
あともうひとつ。
>似たようなジャンルの作品ばかりが溢れかえってしまうのもなあ、と思わなくもありません。少しの捻りではなく、もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまうことにはなりませんか?
というご指摘についてですが、
よく二次創作の作品なんかを漁っておりますと、人気の作品ではwikiのまとめページができていて、カップリング別とかアンチ・ヘイトものだとか、一部キャラ改変だとか逆行だとか、もうとにかく『その作品世界であり得た全ての可能性をローラー作戦ですべて潰す』というような、アドベンチャーゲームの選択肢全部制覇にも似た光景が展開されていたりします。
ですから、インターネットの普及によって書き手の数が飛躍的に増大したのをいいことに、召喚勇者ネタとかVRMMOネタとか、基本線となり得る良いネタがあれば、それを消費しつくしてしゃぶり尽くす、という光景は、
>似たような作品が溢れかえってしまう
>もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまう
という捉え方も可能ですが、見方を変えれば『そのネタが持つ可能性を書き手の数にまかせて、骨になるまでしゃぶり尽くして検討しつくす』という言い方も可能です。
それはそれで、なんか良いのではと思います。
これで最後! エタりの件です。
>問題なのは、エタることそのものではなく、それを肯定してしまうことだと思います。
>書き手としては、本来は完結すべきものである、という意識が根底になくては。それが失われてしまったら、完結できる作品も完結しなくなります。
うーむ……そう言われてしまうと、そうかもしれないと思います。
頑張って完結に向けて書いてた人が
『エタってもいいんだよーん』とか書いてる文章を見て、
「ああ、なんだ、そうなのか。もう、やーめた」となったらそれはそれで罪? かもしれないですよねえ。むむむ……
非常に非常に長い返信になってしまいまして(5,478文字も書いちゃった。テヘッ☆)失礼しました。
そしてまた、時間を取って本エッセイに目を通して頂き、またご感想を頂き、ありがとうございました。
◆
次に、みっつめの、本エッセイにおける『模倣作品』という言葉の意味についての説明を述べる。
本エッセイでは『エタってもいいじゃない。模倣作品でもいいじゃない。』という表題の回があったのだが、問題なのはこの『模倣作品』という言葉の意味である。
本エッセイに寄せて頂いたご感想によれば『模倣作品』という言葉は、一般的には、
『何のヒネった部分もなく、加工した部分もなく、そのストーリー展開や設定において他人の作品をまるパクリしたような作品であるが、固有名詞や言い回し等の細かい部分に相違があるので、法律上で言う盗作とまでは言い切れないグレーゾーン作品』
というような、意味もあるようである。
本エッセイとしても、そのような作品をあえて擁護しようとは思わない。
では本エッセイが擁護しようとしている『模倣作品』とはなにか?
『小説家になろう』にはVRMMOや召喚勇者、トリップトラックなどの、似たような作品、似たような設定がたくさんある。話の展開としても似たような部分もあるかもしれない。しかし、それが似たような要素を多分に含んでいるからといって、それのみでは『公開すべきでないグレーゾーン作品』とは言うべきでないというのが筆者の立場である。
何となれば上に述べたように、ミステリーのテンプレートのように、
模倣の積み重ねで成立した、その『ジャンル』の内部で、似たような設定と話の展開の中で、客観的にみれば細かい差異や趣向を競い、その積み重ねで徐々に進歩してゆくというやり方もあるのである。
そして、世の多くのミステリー小説や昼ドラが『パクリのグレーゾーン作品』としてでなく、独立した価値を持つ作品として受け入れられているのであれば、この見方はそれほど間違っていないようにも思われる。
まあ、それでも、独立した作品と認められるには、どの程度の加工やヒネリが必要であるのかという問題は残るのであるが。
纏めて言うと、本エッセイが擁護しようとしている『模倣作品』とは、
『VRMMOや異世界トリップなどの、相当程度に似たような設定・展開の作品ではあっても、独立した作品と言い得るだけの(僅かなりともジャンルの進歩や成熟を促しうるだけの)加工やヒネリがある作品』ということになる。