29
セドリックに案内され、たどり着いたのは屋敷の敷地の端にひっそりと建つ小さな一軒家だった。
本邸とは違い、華やかさはない。
だが庭は綺麗に整えられていて、古いながらも丁寧に手入れされているのが分かる。
「ここです」
セドリックが淡々と言った。
そして扉をノックする。
「じいや、いるか」
しばらくして。
――ぎいいいい。
重たい音を立てて扉が開き、現れたのは小柄な老人だった。
真っ白な髪。深い皺。目もほとんど開いていない。
だが背筋だけは妙に伸びている。
「これはこれは、坊ちゃん」
老人はゆっくり笑った。
「いかがなさいましたかな。あなたがここへ来るなんて珍しい」
そして視線がリリアンたちへ向く。
「……そちらの方々は?」
「紹介しよう」
セドリックが一歩前へ出る。
「こちらはグラナート家当主、リリアン・グラナート様」
「そして執事のエヴァンだ」
老人の目が細まった。
「ほぉ……」
その声に、僅かな驚きが混じる。
「まさか生きている間に、このような瞬間が来るとは」
リリアンは一瞬だけ眉を寄せた。
(……どういう意味かしら)
だがすぐに礼をする。
「急な来訪で申し訳ございません」
「私、グラナート家当主リリアン・グラナートと申します」
「彼は私の執事、エヴァンです」
「エヴァンと申します」
老人はゆっくり頷いた。
「私はベルニエ家先代当主専属執事、アルバートにございます」
穏やかな声だった。
「どうぞ中へ」
⸻
室内は静かだった。
小さい家だが、驚くほど綺麗に整えられている。
棚には古い本。壁には時計。窓辺には鉢植え。
そして何より、紅茶の香りが濃かった。
アルバートが人数分のカップを置く。
その動きは老いてなお無駄がない。
「それで」
老人は静かに腰を下ろした。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
セドリックが腕を組む。
「流石だな、じいや話が早い」
アルバートは小さく笑った。
「わざわざこのような場所まで来るということは、それ相応の理由があるのでしょうな」
「……ああ」
セドリックの声が少し低くなる。
「ベルニエ家の帳簿についてです」
その瞬間だった。
アルバートの空気が変わったのがわかった。
穏やかだった雰囲気が、ぴん、と張り詰めた。
エヴァンの目が細まる。
老人。そう見せているだけだ。長年五大名家を支えた執事。ただ者ではない。
アルバートは静かに問い返した。
「……帳簿、ですか」
「ええ」
セドリックは頷く。
「先代が起こした、あの忌々しい事件について」
「じいやほど詳しい人物は、もうこの世にいないだろう」
アルバートは黙って聞いている。
「その時代の帳簿に、改竄された痕跡を見つけた」
沈黙。
やがてアルバートは静かに目を閉じた。
「坊ちゃん」
低い声。
「その件については、触れない方がよろしいかと」
「なぜですか!?」
思わずリリアンが立ち上がる。
「私の父の名前が、その帳簿には記載されていたんです!」
「しかも誰かが意図的に書き加えた形で!」
呼吸が熱くなる。
「悪意なのか、それとも別の理由があるのか……」
「私は知りたい!」
「家族が亡くなった理由に関係しているのかもしれないのに!」
「お嬢様」
静かな声。
エヴァンだった。
「お座りください」
はっとする。
リリアンは唇を噛み、ゆっくり椅子へ戻った。
「……失礼いたしました」
アルバートは静かに首を横に振る。
「いえ、お気持ちはよく分かります」
「ですが、この件で私がお話しできるのは、ほんのわずかです」
「ましてや改竄した人物など、私には見当もつきません」
セドリックが真っ直ぐ老人を見る。
「知っていることだけで構わない。教えてくれ、じいや」
アルバートは少し黙り込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
「……ふむ では、お話ししましょう」
窓の外へ目を向ける。
「あの事件は、まさしくベルニエ家最大の汚点」
「金儲けに目が眩んだ愚かな先代が引き起こしたものです」
そして少しだけ笑う。
「ああ、失礼」
「仮にも坊ちゃんのお父上でしたな」
「構わない」
セドリックは即答した。
「続けてくれ」
アルバートは頷く。
「では坊ちゃん」
「あなたは、あの事件がどのように国王陛下へ知られたか、ご存知ですかな?」
リリアンとエヴァンは顔を見合わせる。
そしてリリアンが答えた。
「……いえ」
「そもそも、事件の存在自体知りませんでした」
「そうですか」
アルバートは静かに紅茶を置いた。
「あの事件を摘発し、関与した貴族たちへ処罰を与えたのは――」
そこで老人はリリアンを見る。
「グラナート家先代当主」
「つまり、あなたのお父上です」
「――っ!!」
リリアンの目が見開かれる。
「お父様が……!?」
「ええ」
アルバートは静かに頷く。
「あの方は、大変優秀なお方でした」
「誰にも知られることなく、闇カジノに関わった貴族たちを粛清したのです」
「表向きは“不敬罪”として」
セドリックが眉を寄せる。
アルバートは続けた。
「当然、自ら違法賭博へ関与していたと吹聴する貴族などおりません」
「だからこの事件は――」
「……誰も知らない」
リリアンが呟く。
「ええ、その通りです」
アルバートは頷いた。
「結果として闇カジノは閉鎖」
「その後はグラナート家と国王陛下が監視を強めたため、当家も二度と同じ愚行には走りませんでした」
「ですので、ベルニエ家とグラナート家の関わりといえば、その程度です」
セドリックが低く言う。
「当然、ベルニエ家も罰を受けたのだろう?」
「いえ」
アルバートは静かに答えた。
「何も」
「……は?」
セドリックの声が冷える。
「関与した貴族は裁かれたと先ほど言っていたではないか!」
「なのにベルニエ家は無罪放免だと?」
「王命でございました」
アルバートは淡々と言った。
「五大名家から不届き者が出たと知れれば、国民へ不安を与える」
「ですので関与した警察にも箝口令が敷かれました」
セドリックが舌打ちする。
「なるほど」
「国王陛下も“共犯”だったわけか」
「滅相もない」
アルバートは即座に否定した。
「現在もベルニエ家がこの地位を保てているのは、国王陛下の温情あってこそ」
「坊ちゃんも、その恩恵を受けているでしょう?」
セドリックは忌々しげに目を逸らした。
「……っ、くそ」
しばし沈黙。
やがてアルバートが静かに言う。
「私がお話しできるのは、ここまでです」
「お役に立てたかは分かりませんが」
セドリックはリリアンを見る。
「リリアン様」
「他に聞いておきたいことはありますか?」
リリアンは少し迷い、そして口を開いた。
「……お父様にも、“裏”があったのでしょうか」
「誰にも知られていない悪事が」
アルバートは少しだけ考える。
「さて……私には分かりかねます」
そしてふと思い出したように続けた。
「ただ」
「あの時、あなたのお父上は何度もこう仰っておりました」
『終わらせなければ』
リリアンの目が揺れる。
「終わらせる……?」
「ええ」
アルバートは静かに頷いた。
「意味までは分かりませんが」
隣でエヴァンが小声で呟く。
「……どういう意味でしょう」
リリアンも首を横に振る。
「分からないわ……」
何を終わらせようとしていたのか。
闇カジノ?
それとも。
もっと別の何かを。
アルバートがゆっくり立ち上がる。
「さて」
「そろそろ、よろしいですかな」
「ああ」
セドリックも立ち上がった。
「急に悪かったな、じいや」
アルバートは柔らかく笑う。
「坊ちゃん」
「あなたは、当主に相応しい方だと、じいやは信じておりますよ」
セドリックは鼻で笑った。
「当然だ」
⸻
帰り道。夜風が静かに吹いていた。
セドリックが前を向いたまま言う。
「何かヒントになりそうな情報は得られたか?」
リリアンは少し考える。
「……まだ何とも言えないわ」
「だろうな」
セドリックは淡々と返した。
「ですが、何か進展があれば共有しよう」
エヴァンが静かに頭を下げる。
「セドリック様」
「本日は、自分のわがままに付き合っていただき、ありがとうございました」
「大したことはしていない」
セドリックは冷たくもなく、感情を乗せずに返した。
「では、また」
そう言って踵を返す。
クラウスも無言で一礼した。
リリアンとエヴァンは、その背中を見送りながら帰路についた。
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