01
まだ陽も昇りきらぬ早朝。
グラナート家の屋敷は、静寂に包まれていた。
広大な庭園を見下ろす一室。
重厚なカーテンの隙間から差し込む淡い光の中で、ひとりの少女が椅子に腰掛けている。
白磁のような肌。整えられた金の髪。
年の頃は、せいぜい十二。
だがその瞳には、年相応の無邪気さは欠片もなかった。
「……遅いわね」
ぽつりと落ちた声は、冷たく静かだった。
その瞬間。
「お待たせいたしました、お嬢様」
音もなく扉が開き、一人の青年が姿を現す。
端正な顔立ちに、柔らかな微笑み。
完璧に整えられた執事服。
エヴァン・ヴォルフェルト。
グラナート家に仕える、ただ一人の執事。
「本日の予定をお持ちしました」
「読み上げて」
エヴァンは一礼し、滑らかに口を開く。
「午前はご自宅での講義。歴史と語学。午後は騎士団との連携報告、その後――」
「そこはいいわ」
リリアン・グラナートは、興味なさげに手を振った。
「先に“仕事”のほう」
わずかな沈黙。
だがエヴァンの表情は変わらない。
「かしこまりました」
静かに、一歩近づく。
「王都南部にて、違法な奴隷売買の疑いがある貴族については、証拠を確保済みです。今夜中に処理が可能かと」
「そう」
リリアンは淡々と頷いた。
「……非公開で。痕跡は残さないで」
「かしこまりました」
穏やかな声音で、当然のように“消す”選択を受け入れる。
だがその内容は、あまりにも物騒だった。
王立監察局。
それは王国の治安を統べ、あらゆる犯罪を管理する機関。そして、その頂点に立つのが――グラナート家。
この国の秩序を握る家の、現当主はまだ12歳の少女リリアン・グラナートである。
「それで……例の件は?」
ふと、リリアンの視線が鋭くなる。
エヴァンは一瞬だけ目を伏せた。
「その件でしたら――進展は、特に」
「……そう」
短い返答。
だが、その空気は明らかに冷えた。
短い返答。
だが、その奥にあるものは明確だった。
二年前。
馬車の転落事故。
父も、母も、兄も――すべてを失った日。
「……おかしいのよ」
リリアンはぽつりと呟く。
「あなたのお父様が、あんなことで死ぬはずがない」
御者を務めていたのは、ヴォルフェルト家の当主。
猛獣へと変じる力を持つ一族。
崖から落ちるなど――あり得ない。
「はい」
エヴァンの声は静かだった。
「必ず、真相を」
それは、二人だけの誓い。
その仕草は完璧だったが――
ほんのわずか、瞳の奥に影が差した。
「それと」
何事もなかったかのように、彼は続ける。
「本日は来客がございます」
「……誰?」
「とある学園の学園長でございます」
リリアンの眉が、わずかに動いた。
「学園?」
「はい。どうやら――」
エヴァンは一拍置く。
「生徒が、次々と失踪しているようで」
静寂。
リリアンはゆっくりと椅子に背を預けた。
「失踪ね」
「それも、決まって貴族の子女ばかりだとか」
「へえ」
興味を持ったのか、それとも――
その瞳が、かすかに細められる。
「監察局に持ち込むほどの案件?」
「通常とは異なる様子かと」
「……そう」
ゆっくりと立ち上がる。
「……ふうん」
リリアンは指先でカップの縁をなぞる。
かすかな音が、やけに大きく響いた。
「子供の失踪、ね」
その声音には、わずかな愉悦が混じっていた。
「単なる誘拐にしては、話が大きすぎるわ」
「おっしゃる通りかと」
エヴァンが微笑む。
その笑みは、どこまでも柔らかく――
どこまでも冷たい。
「裏で何かが動いている、と?」
「その可能性は高いかと存じます」
リリアンはゆっくりと立ち上がる。
窓の外に目を向けた。
王都の景色は、今日も変わらず穏やかだ。
だがその裏で、どれだけのものが腐っているのか。
彼女は、よく知っている。
「……退屈はしなさそうね」
ぽつりと呟く。
その横顔は、年端もいかぬ少女のものではなかった。
「準備をしておきなさい」
「かしこまりました」
エヴァンは一礼する。
ほんのわずかに、エヴァンの瞳が“揺れた”。
――獣の気配。
だがリリアンは、振り返らない。
「エヴァン」
「はい」
「失敗は許さないわ」
静かな命令。
「無論でございます」
エヴァンは微笑む。
「――すべては、お嬢様の望むままに」
その声は、甘く、そしてどこまでも残酷だった。




