第03話:風説流布とは
夕食後、俺は祖母ロザの部屋を訪れた。
扉を叩く前に、廊下で少し立ち止まった。
(ヴィクトルから聞いた話は、嘘ではなさそうだ。市場でも、実際に変化の兆候はある)
今日の調査でつかんだのは、量り売り屋も、パン屋も、喫茶店も、どこも似たような話をしていたということだ。変化はある。ただし、まだ軽微。ヴィクトルが言っていた「スパイラル」にはまだ至っていない。
(ただ、この傾向が続くなら、家として備えておかなければならないかもしれない。それに……うまく立ち回れれば、金になる話でもある)
そのあたりを祖母様に相談してみようと思って、扉を叩いた。
「よく来たわ、アルフ。座りなさい」
窓際の椅子に腰掛けながら、俺は今日の話をした。ヴィクトルから聞いた話、市場調査に出たこと、三か所で聞いた感触。この傾向が続くなら家として備えが必要かもしれないこと。
「なるほどね」
祖母様はティーカップを置いて、俺を見た。
「アルフ、風説の流布という言葉を知っていますか」
「……言葉としては、知っています」
「念のため整理しておきましょう。モノの価格を意図的に動かし、自己の利益を図る目的で、虚偽の情報や根拠のない噂を不特定多数に広める行為のことよ。人々の判断を誤らせ、市場の健全性を損なわせる。罰せられて然るべき行いね」
「それは……悪質な商人や、意図を持った者がやることでしょう。俺は別に」
「そうね。あなたはただ調べに行っただけ。虚偽の情報を流したわけでもない」
祖母様が少し間を置いた。
「ただ、市場から見れば、結果は同じなのよ」
「え?」
「あなた、今日、どんな恰好で市場を歩きました?」
「普段着ですが。だいぶ気を遣いましたよ。目立たないように」
「それで十分だと思っているの?」
「え?」
「あなたはフォルスタ子爵家の次男よ。王都の中で、あなたの顔を知っている人間がいる。量り売り屋、パン屋、喫茶店。三か所で小麦の値段を聞いて回った」
「……」
「伝わるものよ」
背中に冷たいものが走った。
「子爵家の坊っちゃんが市場で小麦の値段を聞いて回った。それが何を意味するか。あなたは調べただけのつもりでも、外から見れば、貴族家が食料の値上がりを心配しているという情報になる。虚偽でも意図的でもない。でも、市場の人々の判断を動かしてしまうという意味では、風説の流布と変わらない」
「……口止め」
「いま気づいたの?」
「……」
「遅いわ」
三か所。全部で話した。そのうちの誰かが、誰かに話す。量り売り屋が隣の店主に。パン屋のオカミさんが常連客に。喫茶店のウェイトレスが別のお客に。
胃の中が冷えていく感覚がした。
「……どうすればよかったんですか」
「まず、動かないこと。動くにしても、あなたが自分で市場に出るのではなく、信頼できる人間を使うか、私に相談してから動くこと。貴族の行動は、それ自体が情報なのよ」
俺は黙って聞いた。
「若い頃ね」
祖母様がふと、視線を遠くへやった。
「私も似たようなことをやったことがあるわ。ある商人の言葉を真に受けて、家のお金を動かそうとした。悪い話ではなかった。むしろ、商人の言葉は正しかった。でも、私が動いたことで、子爵家が何かを察したという情報が流れた。そのせいで、不利な取引に引き込まれそうになった。逃げるのに苦労したわ」
「……祖母様も、ですか」
「誰でも通る道よ。ただ、若いうちに知っておくかどうかが大事なの」
祖母様がこちらを向いた。
「ヴィクトルに騙されたとまでは言えないわ。あなたに話したこと自体は、少なくとも彼に不都合ではなかった。彼がどこまで計算していたかは分からない。商人の言葉には、必ず意図がある。善意であっても悪意であっても、相手の言葉を受けて自分が動く前に、一度立ち止まることを覚えなさい」
一息いれて、続ける。
「彼を遠ざけるのは簡単。でも、それでは何も学べない。貴族と経済は切れない関係ですからね」
少しの沈黙があった。
「私の方でも、調べておきます。私の調査がさらに噂を強めてもいけないから、裏で動きます」
「……」
「しばらく、ヴィクトルとは会わないように。あなたたちが接触すること自体も、噂に意味を持たせてしまう可能性があるから」
俺は頷いた。
靴乾燥機でちょっとうまくいったからといって、浮かれすぎていた。次もいける、と思っていた。でも、俺は何も分かっていなかった。
祖母様の部屋を出る時、夜の廊下は静かだった。
自分が意図せず「噂のハブ」になっていたかもしれないという事実が、じわじわと沁みてくる。考え事をしていたせいで、そこまで考えが及ばなかった。一番大事なことを、すっぽり見落としていた。
(ちょっとした成功体験というのは、タチが悪いな)
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白鳥准教授は行動する
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