序章:砕かれた金剛石【1】
やわらかな朝の光が、天蓋付きのベッドに掛けられた上質なシルクのカーテンを透かして、エリィ・イリス・ピエトラの顔を優しく照らしていた。鳥のさえずりが遠くに聞こえる。ここは王都ツェントラール、貴族街の一角に構えられた宝石商ピエトラ家の邸宅。俺の部屋は、その二階の角部屋で、窓からは手入れの行き届いた庭園が一望できた。
「エリィ様、朝でございます」
控えめなノックの後、年老いた執事のセバスチャンが静かに入室してきた。彼の後ろには、身支度を手伝うための侍女が二人控えている。寸分の狂いもなく繰り返される、穏やかで完璧な日常の始まりだった。
「ああ、おはよう、セバスチャン」
ベッドから身を起こすと、侍女たちが手際よくカーテンを開け放ち、クローゼットから今日の衣服――王立・オルトレマーレブラッド学院の制服――を準備する。金糸で縁取られた紺色のジャケットは、ピエトラ家の跡継ぎである俺にふさわしい、特注の一級品だ。
身支度を終え、大理石の床が磨き上げられた長い廊下を歩いて一階のダイニングホールへ向かう。壁には高価な絵画が飾られ、窓の外には朝日を浴びて輝く噴水が見える。この屋敷のすべてが、ピエトラ家の富と権力の象徴だった。
「おはよう、エリィ。よく眠れたかい?」
ダイニングテーブルには、すでに父ダスティン・アランチェ・ピエトラと、母が席についていた。父は宝石業界の最高権威者でありながら、威圧的な態度のまったくない、温和で誠実な男だった。紫の瞳と茶みを帯びた深い黄緑色の髪は、父から受け継いだものだ。
「はい、父上。ぐっすり眠れました」
「そうか、それは良かった。さあ、たくさんお食べ。学院での勉強も、体力が資本だからね」
母が優しく微笑み、侍女が俺の皿に温かいパンとスクランブルエッグを取り分けた。食卓には、朝から豪勢な料理が並んでいる。これが当たり前の光景であり、俺はこの先も永遠に、こんな毎日が続くのだと信じて疑わなかった。
「父上、例の王冠の製作は順調ですか?」
俺が尋ねると、父はそれまでとは違う、職人としての厳しい顔つきになった。
「ああ。いよいよ大詰めだ。先日、最後の仕上げに使う最高品質のダイヤモンドがすべて揃った。フリード国王陛下に献上するにふさわしい、我がピエトラ家の歴史の集大成となるだろう。この仕事は、ただの宝飾品作りではない。王家への忠誠の証であり、我が一族の誇りそのものなのだよ」
父の瞳は、まるで宝石を語る時のように、熱っぽいきらめきを帯びていた。俺はその情熱を少し眩しく感じながら、相槌を打つ。正直なところ、宝石にも家業にも、それほど強い興味はなかった。いずれは自分が継ぐもの。ただ、それだけのことだ。将来は約束されており、あくせくする必要などどこにもない。
食事を終え、邸宅の前に用意された馬車に乗り込む。ピエトラ家の紋章が刻まれた豪奢な馬車は、学院に通う他のどの貴族の子弟のものよりも立派だった。御者が手綱をさばくと、馬車は滑るようにして走り出す。窓の外に流れる王都の景色をぼんやりと眺めた。活気あふれる大通り、行き交う人々。その誰もが、俺の足元にも及ばない存在なのだと、無意識のうちに考えていた。
王立・オルトレマーレブラッド学院は、王都でも一等地にそびえ立つ、壮麗な学び舎だ。初等部から大学院までを備え、王侯貴族や、富裕な資本家の子供たちがこぞって集まる。俺が通う高等部の校舎も、まるで城のような荘厳さだった。
午前の授業は魔法史。羊皮紙の教科書をめくりながら、教授の抑揚のない声を聞き流す。内容は頭に入ってこない。ただ時間が過ぎるのを待つだけの、退屈な時間。俺は頬杖をつき、窓の外を流れる雲を追いかけていた。
その時だった。
「おい、聞いているのか! ルシル・ゴールドスミス!」
アルバート・パボーネ・マジアシェンツァの怒声が、教室の静寂を切り裂いた。見れば、アルバートが元庶民の少女、ルシルの席に仁王立ちになっている。彼の緑色の瞳は苛立ちに燃え、オールバックに撫でつけられた薄い黄色の髪が、彼の高圧的な印象をさらに強めていた。
アルバートは魔法化学で財を成したマジアシェンツァ家の長男。そして、彼の父エドガーは、俺の父ダスティンの兄にあたる。つまり、俺の従兄だ。だが、ピエトラ家に婿入りした父とは違い、伯父はマジアシェンツァ家に婿入りしたため、姓が違う。
「……は、はい、アルバート様」
ルシルはこげ茶色の瞳を不安げに揺らし、薄桃色のボブカットを震わせながら、か細い声で返事をした。彼女は元々平民だったが、手先の器用さと魔力の素質を見込まれ、魔法化学道具の製造でマジアシェンツァ家と協力関係にあるゴールドスミス家の養子になったと聞いている。しかし、その出自と、まだ貴族社会に馴染めないおどおどした態度のせいで、学院では悪目立ちしていた。
「俺のインクが切れた。お前のをよこせ。どうせお前のような元平民には、上等なインクは猫に小判だろう」
「で、でも、これは最後の……。予備は寮に……」
「元平民の分際で、この俺に口答えする気か?」
アルバートは吐き捨てるように言うと、ルシルの髪を乱暴に掴んだ。ルシルが小さく悲鳴を上げる。周囲の生徒たちは、見て見ぬふりをするか、あるいは面白そうにクスクスと笑うだけだ。取り巻きであるナイト男爵家のイーサンなどが、アルバートの背後で得意げに腕を組んでいる。誰も、この状況を止めようとはしない。
(またか……面倒なことだ)
俺は内心でため息をついた。アルバートのこの行動は、日常茶飯事だった。彼の父親である伯父エドガーから、「何があっても負けるな。今は立場が下でも必ず上に這い上がれ。必ず勝て」と、呪いのように言い聞かされて育った彼は、こうして自分より弱い立場の者をいじめることでしか、自らの優位性を確認できないのだ。まるで、内部に多くのインクルージョン(内包物)を抱えた、質の悪い宝石のようだった。見かけは良くても、その価値は低い。
俺が関わる義理はない。面倒はごめんだ。そう思って、再び窓の外に視線を戻そうとした、その時。
「――アルバート様、私のをお使いくださいな」
凛とした声が響いた。声の主は、俺の婚約者であるシャロ・ベグニア・ヴェステン。ヴェステン地方を治める伯爵家の令嬢だ。彼女はパッションピンクの涼やかな瞳でアルバートを真っ直ぐに見据え、自分のインク瓶を静かに差し出した。ホワイトブロンドの長いウェーブの髪が、彼女の動きに合わせて優雅に揺れる。彼女の髪には、以前俺が贈ったネオンピンクスピネルのバレッタが、控えめながらも確かな輝きを放っていた。
「……ちっ。ヴェステン嬢の手を煩わせるわけにはいかねえな」
アルバートは忌々しげに舌打ちすると、ルシルの髪から手を離し、乱暴に自分の席に戻っていった。ルシルは怯えたように俯き、乱れた髪をそっと直している。シャロはそんな彼女を一瞥すると、何も言わずに自分の席に座り直した。
昼休みになり、俺たちは広大な中庭に面したテラスで昼食をとっていた。シャロが俺の向かいの席に座る。婚約者として、学院にいる間は行動を共にすることが多かったが、それはあくまで形式上のものだ。
「ありがとう、シャロ。さっきは助かった」
俺が小声で礼を言うと、シャロは手にしていた銀のフォークを置き、冷たい視線を俺に向けた。
「別に、あなたのためにしたことではありませんわ。ただ、アルバート様の行いが見苦しかっただけですもの」
「そうかもしれないけど……」
「それに……エリィ様、あなたは本当に情けない方ですわね。アルバート様はあなたの親戚でしょう? なぜ、彼の野蛮な行いを一度でも注意なさらないのですか?」
彼女の言葉は、まるで鋭利な刃物でカットされた宝石のように、的確に俺の核心を突いてきた。その通りだ。俺は、面倒なことに関わりたくない一心で、ずっと見て見ぬふりを続けてきた。
「……俺が言ったところで、彼は聞く耳を持たないよ」
「試してもいないのに、よくそんなことが言えますわね。あなたは、いつだってそうだわ。何事にも無気力で、ただ流されるだけ。ピエトラ家の跡継ぎという立場にあぐらをかいて、何の努力もなさらない。正直、あなたのような方と婚約しているのが、時々、ひどく退屈に感じられます」
シャロはそう吐き捨てると、ぷいと顔を背けてしまった。彼女との婚約は、ピエトラ家の財力とヴェステン家の由緒ある血筋を結びつけるための、政略的なものに過ぎない。そこに愛情はなく、俺たちの間には常に冷めた空気が流れていた。
でも、それでよかった。波風を立てず、決められたレールの上をただ進んでいけば、平穏な未来が手に入るのだから。俺の人生は、最高品質の金剛石の原石のようなものだ。磨かなくとも、その価値は決して揺らがない。やがて時が来れば、熟練の職人によって完璧なブリリアントカットが施され、王冠を飾る宝石のように、誰もがうらやむ輝かしい未来が待っている。
その、完璧なはずだった原石が、たった一日で無慈悲なハンマーで叩き割られたように砕け散ることになるなんて、この時の俺は、知る由もなかったのだ。




