(8)
「あなた、まさか……秋人なの?」
「ようやく気が付いた?」
行儀悪く壁にもたれかかっていた青年は、呆れたように鼻を鳴らしてみせた。貴族令息である元婚約者であれば違和感しかない行動も、前世の息子がしていると思えば納得しかない。口うるさくしつけたにもかかわらず、あるいはしつけたからかもしれないが、戸建てではないというのに腹が立つとわざと足音高く歩いてみたり、ドアを思い切りしめたりするようなところがある思春期男子だったのだ。
春香が亡くなったときには中学生だった。向こうの世界とこちらの世界の時間の流れはどれくらいの差があるのだろう。さきほどまでの口ぶりから考えて、大人の男性になっているとは感じなかった。少なくとも、無事に高校生にはなれたのだろうか。
「母親なのに、全然気が付かないでやんの。傷つくわあ。俺はさ、見た瞬間にわかったのに」
「それは……本当にごめんなさい。あの、それで、一体どうやってここに来ることになったの? まさか、病気にかかったり、交通事故に遭ったりしたのではないでしょうね?」
「……召喚されたとか聞かないってことは、やっぱりあんたはそうやってこっちに来たんだな」
イーノックもとい秋人が目を細めた。話し方がどうにもとげとげしい。寝起きだったり、宿題をしていないときに声をかけたりしたとき特有の、あの不機嫌さが言葉の端々ににじみ出ている。まさか、自分がすぐに秋人に気が付かなったことを怒っているのだろうか。
だがしかし、秋人は自分のことを嫌っていたはずだ。嫌っていた人間に気づかれないことで、不愉快さを感じるものだろうか。そこで、アンナははっとする。さきほどまで、秋人は自分に何と声をかけていたのか。
――あんたは今、幸せか?――
――結婚した日から、離れでひとりで暮らしているって聞いた。そんなのおかしいだろ?――
――もっとちゃんと幸せになれよ――
前世、息子は自分を拒み、夫と愛人の元で暮らすことを選んだ。毎日のようにあんたは馬鹿だ、俺だったらあんたみたいな人生は送らないと言い続けていたのは、今でも覚えている。あの時の秋人は、確かにアンナの前世である春香のことを蔑んでいた。それは確かに間違いない。でも、アンナにかけられた秋人の言葉は、彼女を心配しているようにしか聞えなかった。
記憶の中の息子と、目の前にいるイーノックの姿をした秋人との言葉がどうにも繋がらなくて、アンナは何を見ればよいのか一瞬わからなくなる。久しぶりに胃がきゅっとなって、口の中に酸っぱい物が溢れそうになった。慌てて、今確認できることだけを確かめようと決める。たくさんのことをいっぺんに考えるから、息が苦しくなるのだ。目の前のことをひとつひとつ片付ける。それだけに集中してしまえばいい。頭の中の余白を全部埋めてしまえば、難しいことなんて考えられなくなるのだから。
「今自分が入っている身体の持ち主が誰なのか、ということはわかっているのね?」
「まあ、一応は。明確な記憶はないけれど、身体に染み込んだ動作とかは自然とできる。俺、学校のちょっとしたマナー講座しか受けたことないのに、お貴族さまのマナーで食事できちゃってるし。まあ、なぜできるのかと考え込むとぎこちなくなっちゃうんだけど」
「運動能力は引き継げるけれど、記憶は消えてしまう……。それは、大変だったわね。あの、本当よ。軽く言っているつもりはないの。ただ言葉がうまく出てこないだけで……」
「わかってるよ。ってか、俺の身体の持ち主はなんであんなやべえ女と婚約しているんだ? 頭おかしいか、極端に押しに弱いか、どっちにしろありえないんだよ。俺、あいつとしばらく一緒にいただけで、本気で脳みそが爆発するんじゃと思ったからな」
秋人の言っていることは、まあまあ的を射ている。アンナの異母妹はどんな場所でも自分が一番でなければ気が済まない気質だったし、イーノックは自分の意見をまったく口に出せず常に異母妹の尻に敷かれていたのだから。
「まさかの異世界転移を果たしたと思ったら、とんでも女と婚約してるし、あんたはいねえし、身体の持ち主はぽんこつだし……。もうちっと、チートとかなんとかあるだろうがよ」
「ちなみに、身体の本来の持ち主はどこへ行ってしまったのかわかるかしら? 中身が入れ替わったのなら、日本にいるあなたの中にいるというのが一番自然な解釈なのだけれど」
「たぶんそうなんじゃね。なんとなくだけど、俺の身体、生きてるって感じがするし」
「そうなの? 本当に大丈夫なのね?」
「なになに、やたら食いつくじゃん。中身、俺だよ。ママ大好きな幼児じゃあるまいし」
「相手が誰であっても、むやみに傷ついてほしいとは思わないわ」
「あっそ。相手が誰であってもね。ああ、そういうことね」
「あなた、やっぱりずっと怒ってない?」
「別に」
別にというわりに、秋人は明らかにふてくされている。姿かたちは確かに元婚約者のイーノックなのだ。異世界人であるイーノックと、日本人である秋人のもともとの容姿ににている部分などない。それにもかかわらず、機嫌の悪さを前面に押し出す姿はあまりにも前世の息子そのままだった。イーノックの中に秋人がいるとわかってしまった今となっては、なぜ秋人だと見た瞬間に気づかなかったのかと不思議に思うほどである。
「ここに来たきっかけって覚えている? 詳しい状況がわかれば、向こうに戻る手掛かりになるかもしれない」
「……知らね」
「知らないって、あなた、もう少し真剣に思い出してみなさい」
「……じゃあ、あんたは? あんたはどうしてここに来たのか覚えてるのか?」
秋人に問われて、アンナは口をつぐむ。なぜ自分がこの世界に来たのか。転生の瞬間を覚えているわけではない。物心ついた時には既に、前世の記憶がある状態で暮らしていたのだ。ただ、ずっと気になっていた点はあった。
「もしかして、何か悩みがあるんじゃないの? ええと、その、例えば、新しいお母さんとの折り合いがよくない……とか?」
気になっていたにもかかわらず聞くことができなかったのは、自分が死んだ後のことを尋ねるのが恐ろしかったからだ。自分がいない状態で、問題なく幸せだと言われるのはもちろん寂しい。けれど、自分がいなくなった後に前よりもずっとひどい状況に陥ったと聞いてしまったら自分はどうしたらよいのだろう。
その上、もしも万が一のことが起きていたならば? 秋人から聞いてわかっていることは、病気にかかったわけではないこと、交通事故に遭った訳ではないこと、そして秋人の肉体は無事らしいということだけなのだ。




