第24話「帰宅と、母の目」
夏休み初日の朝。
寮の門の前に、黒い車が一台、静かに停まっていた。
「……すっげぇ。これ、あんたの家の車かよ」
茜が目を丸くして、ボディをペタペタと叩く。
「お迎えの車。帰省するときは、いつもこうなの」
私は笑って、後部座席のドアを開けた。
運転席から、初老の男性が降りてくる。
帽子を取ると、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お友達の皆様も、どうぞご乗車くださいませ」
「ありがとう、佐藤さん。お元気そうでよかったわ」
「はい。お嬢様も、お変わりなく」
子どもの頃から知っている運転手の顔を見て、私は自然と笑顔になる。
「……お嬢様、だと」
凛が小さく呟き、ノートに何かを書き留めた。
(あら。さっそく観察が始まったわね)
『いつも通りだな』
(何が?)
『凛のことだ』
(ふふ。確かに)
私たちは車に乗り込んだ。
栞と日和も続き、小春、茜、凛がその後に座る。
車はゆっくりと走り出した。
*
一時間ほど、山道を走る。
窓の外を、緑の森が流れていく。
小春は窓に額をつけて、目を輝かせていた。
「……すごい。この森、すごく元気だよ。とても、優しい子たちばかり」
「本当に?」
「うん。木も草も、みんな嬉しそう」
「それなら、帰ってきた甲斐があるわね」
「えへへ」
小春が嬉しそうに笑う。
その隣では、茜が後部座席の真ん中で腕を組み、私の横顔をじっと見ていた。
「……あんた、さっきから、ほとんど喋ってねぇな」
「あら。そうかしら?」
「いつもなら、もうちょっと軽口を叩くだろ。今日は、なんつーか……空気が違う」
私は窓の外を見た。
「……そうね。久しぶりだから、ちょっと懐かしくなっているのかもしれないわ」
見覚えのある山。
見覚えのある森。
子どもの頃、何度も通った道。
「でも、嫌な感じじゃないわよ。むしろ、帰ってきたって感じがする」
「……そうか」
茜は、それ以上は聞かなかった。
やがて、森の向こうに大きな鉄の門が見えてくる。
門がゆっくりと開いた。
車がその中へ入っていく。
*
「……これが、ミヤビさんのお家ですか」
車を降りた栞が、思わず息を呑む。
緑に囲まれた広い敷地。
その中央に、白い壁の洋館が建っている。
広い庭には、丁寧に手入れされた花壇。
水色のバラに、ラベンダー。
その奥には、森へ続く小道まで見える。
「……大きい」
小春が呟いた。
「でしょう?」
私は胸を張った。
「私たちの家よ」
「……『私たち』なんですね」
凛が、その言葉を拾う。
「ええ。私たちの家」
私は自然に答えた。
そのとき、凛が建物の左側にある棟へ視線を向けた。
「……ただ、あの左側の棟は気になりますね」
「あら」
「あの棟だけ窓が極端に少ない。それに、建物の構造を見る限り、地下部分がかなり深い」
凛は眼鏡を押し上げた。
「――調査の時間をいただけますか?」
「……観察は、いつもより静かにね」
「分かっています」
凛は真面目な顔で頷いた。
そのとき。
――玄関の扉が、静かに開いた。
「――お帰りなさい、ミヤビ」
静かな微笑みを浮かべた、美しい女性が立っていた。
長い黒髪。
白いブラウス。
落ち着いた色のスカート。
左手首には、細い金色のブレスレット。
「……ママ。ただいま」
私が言うと、母は微笑んで、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
そして――
ぎゅっ。
「よく帰ってきてくれたわね。元気そうで、よかった」
私を、優しく抱きしめる。
温かい腕。
懐かしい香り。
子どもの頃から、何度も知っている母の匂いだった。
(……やっぱり、この人の腕は暖かいわね)
『……そうだな』
俺も、静かに頷いた。
母はしばらく私を抱きしめてから、ゆっくりと離れる。
「少し大人っぽくなったかしら?」
「そう? 毎日見ていると分からないものね」
「そうね。あなたは自分のことを、あまり客観的に見ないもの」
「お母様に言われたくないわ」
「ふふっ」
母は楽しそうに笑った。
それから、私の後ろにいる皆へ視線を向ける。
「皆さん、ようこそ。ミヤビの母です。遠いところを、よく来てくださいましたね」
母は一人ずつ、丁寧に頭を下げた。
「小春さん。茜さん。凛さん。いつもミヤビがお世話になっています。日和さんから、よくお話を聞いていますよ」
「えっ。あ、いえ、こちらこそ……!」
小春が真っ赤になって、慌てて頭を下げる。
「あ、あたしも、いつもこいつに助けられてます!」
「あら」
母が、くすりと笑う。
「『こいつ』だなんて。ミヤビ、あとでお説教かしら」
「えぇ……私、何もしてないのに」
「ふふふ」
茜が気まずそうに頭を掻いた。
「……すみません」
「いいのよ。仲が良いのね」
母はそう言って、今度は栞を見る。
「こちらは……栞さんね」
「……は、はい。栞と申します」
栞は緊張した様子で、深く頭を下げた。
母は、その手をそっと取った。
「ここに来る前に、日和さんからお話を伺いました」
「……はい」
「お仲間のことも」
栞の肩が、わずかに震える。
「……はい」
「長い間、一人で抱えてきたのね」
母は、栞の手を両手で包み込んだ。
「安心して。お仲間のことは、私の力の及ぶ限り協力します」
「……!」
「居場所を見つけて、安全な場所へ移す。そこまでは、私たちに任せてください」
栞の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
「お礼は、全部終わってからでいいわ」
母は優しく笑った。
「今は、少しだけ休みなさい」
「……はい」
栞は何度も頷いた。
(……ママは、嘘をつかない人よ)
『……だからこそ、警戒はしておけ』
(ええ。でも、今は素直に感謝しているわ)
*
アンティークの家具が並ぶ客間。
テーブルには、紅茶と焼き菓子が静かに並べられていた。
小春が目を輝かせている。
「わぁ……」
「好きなものを食べていいのよ」
「ありがとうございます!」
「ミヤビの友達なら、遠慮しなくていいわ」
「……友達」
小春が嬉しそうに呟いた。
その向かいでは、凛が紅茶を一口飲みながら、部屋全体を観察している。
そして母が、私に視線を戻した。
「ねえ、ミヤビ」
「なあに?」
「最近の学校のこと、聞かせてくれる?」
「ええ。体育祭で少し目立ちすぎたり、フラッグバトルで、ちょっと本気を出したり」
「あら」
母の目が、わずかに細くなる。
「本気、というのは?」
「……その顔、研究者の顔よ」
「母親としても、娘の話は気になるものなのよ?」
「はいはい」
私は紅茶を一口飲む。
「精神干渉は使った?」
「……使ったわ」
「人数は?」
「三人」
「時間は?」
「数十秒程度」
「相手の体調に変化は?」
「その場では軽い眩暈と気絶。後遺症は、今のところ確認されていないわ」
「感情や認識に、深く入り込んだ感覚は?」
「……いいえ。行動だけ。深くは入らなかった」
母は、そこで初めて小さく息を吐いた。
「そう。なら、よかった」
「……心配してる?」
「もちろん」
母は、当たり前のように答えた。
「あなたの力は便利だけれど、扱いを間違えれば、人の心そのものに触れてしまうでしょう?」
「ええ」
「だからこそ、自分で境界を決めているあなたを、私は安心して見ていられるの」
母はそう言って、少しだけ笑った。
「研究者としても、母親としてもね」
「……やっぱり、両方なのね」
「両方よ」
母は、あっさりと答えた。
「あなたは私の娘で、同時に、私たちが長い時間をかけて生み出した、大切な研究成果でもあるもの」
「……」
「もちろん、順番をつけるつもりはないわ」
母は紅茶を一口飲んだ。
「どちらも、本当のことだから」
私は、その言葉に苦笑した。
(……相変わらずね)
『……ああ』
*
しばらくして、母が立ち上がる。
「そうだわ。せっかく来たのだから、地下も見ていく?」
「地下……?」
凛が反応した。
「ええ。ミヤビの定期検査をする場所よ。皆さんが見学しても構わないわ」
「定期検査……」
凛の目が輝いた。
「はい。ぜひ」
「凛、目が怖いわよ」
「失礼ですね」
母が笑う。
「では、行きましょうか」
*
地下へ続く白い廊下。
上の豪華な洋館とは、まるで別の世界だった。
白い壁。
白い天井。
無機質な照明。
そして、どこからともなく聞こえる、機械の静かな駆動音。
「……ここが、あなたのご実家の地下ですか」
凛が小さく息を呑んだ。
「ええ。立派でしょう?」
私は、何でもないことのように答えた。
やがて、広い検査室に入る。
部屋の中央には、洗練された構造の椅子。
その周囲には複雑な機械が並び、ガラス越しには無数のモニターが見える。
「……ミヤビちゃん、ここで何をするの?」
小春の声が少しだけ震えている。
「腕に機械をつけて、魔力の測定をするだけよ」
私は慣れた様子で左腕の袖をまくり、椅子に腰掛けた。
母が機械を起動する。
「じゃあ、いつものように始めましょう」
「ええ」
母が私の腕に丸いパッドを貼り付ける。
「脈拍、正常。魔力の流れも問題なし」
モニターに次々と数値が表示される。
「精神干渉の指標、前回より三割増」
「そうなの?」
「ええ。能力の成長が見られるわね」
「自覚はあるわ」
「魔法理論の領域も安定。身体能力も高い水準を維持している」
母は画面を確認しながら、満足そうに頷いた。
「全体的なバランスは、以前よりずっと良くなっているわ」
「ありがとう。ママのおかげね」
「いいえ」
母は笑った。
「あなたが、ちゃんと自分自身を大切にしているからよ」
そして、検査の合間に私の頭を優しく撫でた。
その手つきには、無駄がない。
長年、私の身体を調べてきた研究者の手。
でも同時に――
間違いなく、母親の手だった。
*
ガラス越しに、その様子を見ていた三人。
凛は、ノートを強く握っていた。
「……ミヤビさん、慣れていますね」
「うん……」
小春も、じっと私を見ている。
「腕にパッドをつけられているときの姿勢。呼吸。表情。どれもほとんど変化がない」
凛が静かに言った。
「モニターの数字を見ながら、お母様と普通に会話している」
茜が腕を組んだ。
「……つまり、子供の頃から、これをずっとやってきたってことか」
「ええ」
凛は答えた。
「少なくとも、相当長い期間にわたって繰り返しているのでしょう」
「……あいつ、さっきから本当に普通の顔してるな」
茜の声が、少し低くなる。
「腕に機械つけられて、魔力測られて、それで『いつものこと』みたいな顔してやがる」
小春は、ガラスの向こうを見つめていた。
「……ミヤビちゃん、ここでは、いつもとちょっと違うね」
「どう違います?」
凛が尋ねる。
「うーん……」
小春は少し考えた。
「落ち着いてる。でも、いつものミヤビちゃんより、少しだけ静か」
「……なるほど」
凛はペンを走らせる。
「普段の軽さは、意識して作っている部分があるのかもしれませんね」
「……そうなのか?」
茜が眉を寄せる。
「私には、ここにいるミヤビさんの方が、昔から知っている顔に近いように見えます」
凛はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「この場所では、彼女は何も説明しなくてもいい」
小春が、そっとガラスに指を触れる。
「……いつか、もっと昔のことも話してくれるかな」
「話したくなったら、でしょうね」
凛が静かに答えた。
「今は、無理に聞かない方がいいと思います」
「うん」
小春は頷いた。
「待つよ」
*
その夜。
母は二階の書斎にいた。
机の上には、日和から受け取った資料が並んでいる。
孤児たちの名簿。
年齢。
出身地。
能力の登録。
保護された日付。
母は一枚ずつ、静かに目を通していく。
「……この子たち」
指が止まる。
「能力の発現時期が、妙に近いわね」
さらにページをめくる。
そして、ある資料で手が止まった。
「……この登録番号」
母は眉を寄せた。
机の引き出しから、古い書類の束を取り出す。
色あせた表紙。
古い研究記録。
その中の一枚を開く。
「……同じ」
小さく呟く。
「この番号の振り方……」
別の資料と並べる。
登録番号。
能力の記録。
研究対象を示す印。
いくつかの特徴が重なっている。
母の目が、静かに細くなる。
「……偶然にしては、重なりすぎているわね」
研究者としての表情が、少しずつ浮かんでいく。
「この子たちを調べた人間は……私たちの研究記録を、どこかで知っている?」
母は椅子の背にもたれた。
「それとも……」
古い記録に残された、一つの名称。
その文字を見た瞬間、母の表情がわずかに変わった。
「……まさか」
窓の外で、夜の森が静かにざわめく。
母は、もう一度、孤児たちの資料を見た。
そして、小さく息を吐く。
「ミヤビ……あなたのところに、こんな子たちが近づいていたのね」
その声には、母親としての心配と――
研究者としての、抑えきれない興味。
その両方が混ざっていた。
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