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第20話 盗まれた祖母の日記

 祖母の日記が、消えた。


 空になった引き出しを見た瞬間、胸の奥が冷たく落ちた。


 店の中には、割れた小瓶の香りが立ちこめている。


 白樹皮。

 眠り草。

 柑橘。

 蜂蜜花。

 それから、侵入者が持ち込んだ湿った革手袋と王宮紙の匂い。


 甘く、苦く、鼻の奥に貼りつくような空気。


 私は調香台に手をついたまま、奥歯を噛みしめた。


 外から護衛が駆け込んでくる。


 ヴァルトの部下の一人だ。たしか名はロイド。昼間、普通の上着を着せられてもなお兵隊臭さが消えなかった人である。


「リリアーナ様!」


「裏口から出ました」


「お怪我は」


「ありません。ですが、祖母の日記が盗まれました」


 口にした瞬間、喉の奥が焼けた。


 盗まれた。


 祖母が残したものを。


 前王妃の手紙と繋がる、王宮香油の記録を。


 私の鼻と、祖母の死と、王宮の嘘を繋ぐ、あの日記を。


 ロイドの顔色が変わった。


「すぐ追います」


「待って」


 私は彼を止めた。


 焦りで走り出しそうになっていたロイドが、扉の手前で踏みとどまる。


「匂いを追ってください。湿った革手袋、王宮紙、薄い沈香。それから、私の眠り草が少し移っています」


「眠り草?」


「割れた瓶を踏んでいます。靴底に香りがついているはず」


 ロイドは一瞬驚いた顔をした後、すぐ頷いた。


「承知しました」


「それから、直接捕まえようとしないでください。相手が一人とは限りません」


「はい」


「見失ったら、無理に追わず、戻って報告を」


「……閣下のご命令と同じです」


「ヴァルト様が?」


「はい。『彼女の指示を聞け。だが死ぬな』と」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 あの人らしい。


 妙に実務的で、妙に温かい。


「では、その通りに」


「はっ」


 ロイドは裏口から出て行った。


 私は割れた瓶を避けながら、店内を見回す。


 棚の小瓶が三つ割れている。床に香油が広がり、灯りの下で薄く光っていた。窓は開いていない。裏口の鍵がこじ開けられている。


 侵入者は、日記の場所を知っていた。


 昼間の女が店内を見ていた時、奥の引き出しにも目を向けていた。


 だが、あの女が直接入ったかは分からない。


 残り香は似ているが、革手袋の匂いが強い。別人の可能性が高い。


 私は床に膝をつき、割れた小瓶の近くに落ちた細い紙片を拾った。


 王宮紙の繊維。


 やはり。


 侵入者は王宮側の誰かと繋がっている。


「リリアーナ!」


 店の表から、ネリの声が飛び込んできた。


 次の瞬間、扉が勢いよく開く。


 ネリとミナが入ってきた。


 ミナは寝間着の上に外套を引っかけている。髪も乱れていた。ネリもパン屋の仕込み途中だったらしく、腕に粉がついたままだ。


「鈴の音がしたから来たよ!」


 ネリは店内を見て、顔をしかめた。


「うわ、ひどいね。泥棒かい」


「はい」


「怪我は」


「ありません」


「日記は?」


 私は黙った。


 ネリはそれだけで察した。


「盗られたか」


 ミナの顔から血の気が引く。


「祖母様の日記……」


「ええ」


 ミナは両手を口元に当てた。


「どうしましょう。あれ、大事なものですよね。王宮の香油とか、前王妃様とか、薔薇の間とか、全部」


「ミナ」


 私はできるだけ落ち着いた声で言った。


「大丈夫」


「本当ですか?」


「大丈夫ではないけれど、終わりではないわ」


 ネリが目を細めた。


「何か仕込んでたね?」


 さすがだ。


 私はゆっくり立ち上がり、調香台の下の板を外した。


 そこには薄い紙束が隠してある。


 祖母の日記の写し。


 重要なページだけ、私がここ数日で書き写しておいたものだ。


 ミナが大きく目を見開く。


「写し……!」


「全部ではないわ。けれど、王宮香油、黒蜜花、幻惑草、薔薇の間、前王妃の封書に関わる部分は写してあります」


 ネリが、ふっと笑った。


「やるじゃないか、店主」


「以前、祖母の日記が盗まれる夢を見たので」


「夢?」


「いいえ。半分は予感です。半分は、王宮があまりに分かりやすく怪しかったので」


「そっちだろうね」


 ネリは腕を組んだ。


「じゃあ、盗られた日記は完全な負けじゃないってわけかい」


「はい」


 私は調香台の引き出しの奥から、小さな黒い小瓶を取り出した。


「それに、日記には罠を仕込んであります」


 ミナがぽかんとする。


「罠?」


「香り罠よ」


「香りの?」


「ええ。祖母の日記の後半には、特定の薬品に触れると強い苦味の香りが立つように、紙の端へ薄く塗っておきました」


 ネリが少し引いた顔をした。


「あんた、さらっと怖いことするね」


「日記を読むだけなら反応しません。ですが、王宮の香油庫や礼拝局でよく使う保存薬、特に沈香油を含む封印剤に触れると、苦味が立ちます」


「つまり、盗んだ奴が王宮でその日記を調べたり封じたりしたら」


「匂いがつきます」


「どんな?」


「とても苦い匂いです。焦げた胡桃と、渋柿と、古い薬棚を混ぜたような」


 ミナが顔をしかめた。


「嫌な匂いですね」


「嫌な相手に分かりやすくつくようにしたから」


「リリアーナさん、たまに本当に魔女みたいです」


「最近、否定するのが面倒になってきたわ」


 その時、表の扉が再び開いた。


 今度は黒い外套。


 ヴァルトだった。


 息が少しだけ乱れている。


 いつもの馬車ではなく、おそらく馬で来たのだろう。外套の裾に夜露と泥がついている。ギルも後ろにいる。


 ヴァルトは店内を見るなり、眉を寄せた。


「怪我は」


「ありません」


「本当に」


「本当に」


「倒れていないだけではなく?」


「倒れていないだけではなく、怪我もありません」


「ならいい」


 彼は短く息を吐いた。


 その息に、焦げた薔薇の匂いが少し強く混じっている。


 急いできたせいで、呪いが刺激されたのだろう。


 私は胸が少し痛んだ。


「ヴァルト様、香を」


「後でいい」


「今です」


「日記が先だ」


「あなたが倒れたら、日記を追う人が減ります」


 ヴァルトは黙った。


 ギルが横から小声で言う。


「閣下、店主殿が正しいです」


「分かっている」


「では」


「……香を使う」


 彼は不承不承、小瓶を受け取った。


 ネリがにやにやしている。


「公爵様、だいぶ店主の扱いに慣れてきたね」


「扱われているのは私か?」


「どっちもどっちだよ」


「そうか」


 ミナが少しだけ笑った。


 この状況で笑える自分たちが、少しだけ救いだった。


 ヴァルトは白樹皮の香を少量だけ布に落とし、呼吸を整えた。


 焦げた薔薇の匂いが、ほんの少し薄れる。


 それを確認してから、私は写しと罠の説明をした。


 ヴァルトは最後まで黙って聞いた。


 聞き終えると、少しだけ目を細める。


「君は、盗まれる可能性を考えていたのか」


「はい」


「なぜ私に言わなかった」


「言えば、店の前に兵が二十人並ぶと思いました」


 ギルが咳き込んだ。


 ヴァルトは黙った。


「否定しないのですか」


「十人で済ませた」


「済んでいません」


「今は反省している」


「本当に?」


「努力する」


「また努力」


 緊張で張り詰めていた胸が、少しだけ緩んだ。


 ヴァルトは写しを手に取り、慎重に目を通した。


「重要部分が残っているなら、向こうの目的は二つだ」


「はい」


「一つは、こちらの証拠を奪うこと」


「もう一つは、私の調香や推理の手がかりを知ること」


「ああ」


 ギルが床の破片を見ながら言った。


「侵入者は、香を煙幕に使っています。店の棚を見て、その場で割る瓶を選んだ可能性が高い」


「慣れていない者では?」


 私が問うと、ギルは頷いた。


「はい。訓練された盗人なら、もう少し静かにやります。裏口のこじ開け方も雑です。目的は日記だけ。荒らし方が焦っています」


 ネリが鼻を鳴らした。


「じゃあ、雇われた小物かい」


「可能性は高い」


 ヴァルトが言った。


「黒幕は来ていない」


「でしょうね」


 私は床の紙片を差し出した。


「王宮紙の繊維が落ちていました。昼間来た女の注文書と似ています」


「その女は?」


「深緑の外套。三十前後。王宮紙、礼拝局か香油庫の匂い。眠りの香を二十本と、白樹皮の原液、それから調合比率を求めました」


 ヴァルトの表情が冷たくなる。


「調合比率か」


「はい」


「王宮香油を作る側が、君の中和香を知りたがっている」


「あるいは、私の鼻を潰す香を作るために」


 ミナが小さく震えた。


「そんな……」


 ネリがすぐに言う。


「ミナ、震えるのはいいけど、膝を曲げな。立ったまま震えると転ぶよ」


「は、はい」


「あと、水飲みな」


「はい」


 ミナは素直に頷いた。


 ネリの雑な優しさは、こういう時に本当に効く。


 そこへ、外から足音が戻ってきた。


 ロイドだ。


 息を切らせ、片手に布を持っている。


「閣下!」


「報告」


「侵入者は東区の裏路地から北へ。途中で馬車に乗り換えた形跡があります。車輪跡は王宮方面へ。ただし、途中で見失いました」


「匂いは」


「店主殿の言われた通り、眠り草と革手袋の匂いがありました。それと、これを」


 ロイドは布を広げた。


 中には、泥のついた小さな金属片がある。


 薄い銅の留め具。


 文官が書類束を留める時に使うものだ。


 私が顔を近づけると、王宮紙とインクの匂いがした。


「王宮の文書留めです」


 ギルが言う。


「下級文官がよく使うものだな」


 ヴァルトの目が鋭くなる。


「王宮の下級文官を使ったか」


「もしくは、文官から盗んだか」


 私は金属片を見る。


 そこには、ごく薄く苦い匂いがついていた。


 まだ香り罠ではない。


 これは別の匂い。


 焦り、汗、安いインク。


 小物。


 ネリの言う通り、黒幕ではない。


「日記の罠が発動するまで、少し時間がかかります」


 私は言った。


「相手が日記を王宮へ持ち込み、保存薬や封印剤に触れさせれば、強い苦味が立ちます。おそらく数時間以内」


「では、朝を待つ」


 ヴァルトが言った。


「王宮内で苦味の匂いをまとった者を探す」


「はい。ただ、王宮全体から探すのは」


「私の部下を入れる」


「簡単に入れるのですか?」


「毒香事件の調査名目がある」


 ギルが頷いた。


「侯爵夫人の件で、閣下には明朝の立ち会いが認められています。護衛と補佐官数名なら入れます」


「私も行きます」


 即座に言うと、ヴァルトは私を見た。


「寝ていない」


「あなたもでしょう」


「私は慣れている」


「慣れているから危なくないわけではありません」


 ミナの言葉をそのまま返すと、ヴァルトが少しだけ困った顔をした。


 ミナは自分の言葉が使われたことに驚いて、少し背筋を伸ばした。


「ですが、香り罠は私でなければ分かりません」


「分かった」


 ヴァルトは意外にも早く頷いた。


「ただし、二刻だけ寝ろ」


「二刻」


「それ以下では連れて行かない」


「命令ですか」


「条件だ」


 私は返事に詰まった。


 契約書的に言えば、条件はまだ命令よりましだ。


 ネリが横から言う。


「寝な。目の下に隈ができてるよ。客商売でその顔は損だ」


「今、客商売の顔を気にする状況でしょうか」


「いつでも顔は大事だよ。特に貴族相手ならね。弱ってると見たら噛まれる」


 正論だった。


 私はしぶしぶ頷いた。


「分かりました。二刻だけ」


「ミナ、見張れ」


 ネリが言う。


「はい!」


「寝ないでこっそり日記写しを読むようなら、耳元で鍋を叩きな」


「鍋!?」


「店に鍋はありません」


「じゃあ瓶でいいよ」


「割れます」


 この人たちは、私を寝かせたいのか店を壊したいのか分からない。


 けれど、その馬鹿げた会話のおかげで、少しだけ眠れそうな気がした。


 結局、私は奥の長椅子で短く眠った。


 眠ったと言っても、浅い眠りだった。


 夢の中で、祖母の手が日記を閉じるのを見た。


 祖母は笑っていた。


『盗まれると思ったなら、盗ませるくらいの性格の悪さを持ちなさい』


 夢の祖母は、そんなことを言った。


 目が覚めた時、外はまだ暗かった。


 しかし東の空が、ほんの少しだけ白み始めている。


 夜明け前。


 私は顔を洗い、髪を結い直し、祖母の日記の写しを内側の隠しポケットにしまった。


 ヴァルトは店の前にいた。


 本当に、外にいた。


 黒い外套をまとって、夜明け前の冷気の中に立っている。


「まさか、ずっとそこに?」


「交代で休んだ」


「あなたは?」


「考えていた」


「それは休んでいません」


「そうか」


 私はため息をついた。


 白樹皮の香を差し出す。


「馬車で使ってください」


「ああ」


「命令です」


 ヴァルトは少しだけ口元を緩めた。


「分かった」


 王宮へ向かう馬車の中、私たちはほとんど話さなかった。


 街はまだ眠っている。


 パン屋だけが起きていて、ネリの店からはもう焼き始めの香りがしていた。


 昨日、毒香で満ちた王宮。


 今日、その中で苦味をまとった小物を探す。


 犯人ではなく、糸の先。


 でも、糸は辿れる。


 王宮に着くと、昨夜とは違う緊張があった。


 毒香事件のため、出入りする侍従や文官たちは皆、落ち着かない様子だった。白い廊下に、睡眠不足と恐怖と責任逃れの匂いが漂っている。


 私はヴァルトの隣を歩きながら、ゆっくりと息を吸った。


 白薔薇。

 蜜蝋。

 紙。

 インク。

 磨かれた床。

 そして――


 苦味。


 焦げた胡桃。

 渋柿。

 古い薬棚。


 いた。


 私は足を止めた。


「リリアーナ?」


「罠が発動しています」


 ヴァルトの目が鋭くなる。


「どこだ」


「廊下の奥。右側。文書室の方です」


 ギルがすぐ動く。


 私たちは匂いを追った。


 苦味は、曲がり角を越え、使用人用の細い廊下へ続いている。そこから、文官たちが出入りする記録室の前へ。


 扉の近くで、一人の若い文官が壁にもたれていた。


 顔色が悪い。


 片手で腹を押さえ、もう片方の手は震えている。袖口からは強い苦味が立ちのぼっていた。


 焦げた胡桃。渋柿。古い薬棚。


 間違いない。


 日記に触れた。


 文官は私たちを見るなり、びくりとした。


「レ、レイゼン公爵閣下……」


 ヴァルトは低く言った。


「その手を見せろ」


「い、いえ、私は」


「見せろ」


 文官は震えながら手を出した。


 指先が薄く染まっている。


 私が塗った香り罠の色ではない。目にはほとんど見えない。だが、匂いは強い。


「この方です」


 私は言った。


「祖母の日記に触れています」


 文官の顔が真っ青になった。


「ち、違います! 私は、ただ預かっただけで」


「誰から」


 ヴァルトが問う。


 文官は唇を震わせた。


「知りません。本当に知りません! 金を渡されて、朝までに香油庫の古い棚へ置けと……中身も知らないんです!」


「誰に渡された」


「女です。顔は布で隠していました。でも、声は……王宮の方のようで……」


「受け渡し場所は」


 文官は一瞬、迷った。


 ヴァルトの気配が冷える。


 私はそれより先に口を開いた。


「言った方がいいです」


 文官は私を見る。


「あなた、たぶん封印剤に触れたでしょう。日記に塗ってあった香り罠が反応しています。毒ではありませんが、放っておくと三日はその苦味が取れません」


「三日!?」


「はい。食事も全部苦く感じると思います」


「ひっ」


 文官は涙目になった。


 ヴァルトが私を見た。


 少しだけ、感心している匂いがした。


 いや、気のせいかもしれない。


 文官は観念したように言った。


「王宮裏手の古い温室です。昨夜、そこで受け取りました。今日の夜明け前までに香油庫へ置けと……それだけです。本当に、それだけなんです」


 古い温室。


 私はヴァルトを見る。


 ヴァルトも私を見ていた。


 前王妃が死の直前まで通っていた場所。


 王宮裏手の、今は使われていないはずの温室。


 祖母の日記を盗ませた者は、そこを受け渡し場所に使った。


 つまり、あそこにはまだ匂いが残っている。


「ヴァルト様」


「ああ」


 彼の声は低かった。


「行くぞ」


 文官はその場でギルたちに確保された。


 私は最後に、彼の袖口の匂いをもう一度確認する。


 苦味の奥に、湿った土と古い硝子の匂いがした。


 温室。


 間違いない。


 私は胸の奥で、祖母の日記の写しを意識した。


 盗まれた日記は、奪われた証拠ではなく、こちらを温室へ導く香りの糸になった。


 祖母様。


 あなたの性格の悪さは、たぶん私にも少しだけ受け継がれています。


 王宮の白い廊下を歩きながら、私は小さく息を吸った。


 焦げた薔薇の根は、薔薇の間だけではない。


 その手前に、古い温室がある。


 そこに、次の香りが残っている。


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