新たに生まれて
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──新たに生まれて
凪の意識が戻ったとき、彼は既に凪ではなかった。
「ふわあ。おはようございます、凪さん。いえ、アレックスさん」
凪──だった人物が暖かな空気を感じながら目を見開くとベルフェゴールがいた。
「ようこそ、あなたが主役になれる世界へ。あなたが私に願ったことは叶えておきましたよ。あなたはこれから主役です。誰もにも無視されず、誰よりも強い」
「あうあ……」
言葉が上手く出ない。
「まだ喋るのは難しいですよ。何せ今のあなたは赤ちゃんですから」
「うあ?」
「そう、赤ちゃんです。異世界に行きたいと願っていましたよね。それもついでに叶えておきました。ここはあなたが暮らしていた地球とは異なる世界です」
手を見ればそれはとても小さくてしわくちゃだった。
「だあだあ!」
「おやおや。そんなに喜んでいただけるとは。満足していただけましたか? それはよかったです」
彼が意味の分からない声を上げるのにベルフェゴールは微笑んだ。
「あなたはこれから主役になるのです。主役には主役に足る素質が必要。それも一応与えておきました。では、この新しい人生を、物語の主役を精一杯楽しんでください。陰ながら応援していますよ」
そう言ってベルフェゴールは姿を消した。
こうして九十九凪としての人生は終わりを告げ、新たにネテスハイム伯爵家のアレックス・フォン・ネテスハイムとしての人生が始まったのだ。
「アレックス。私の可愛い子!」
アレックスの母であるクラウディアはアレックスのことを本当に可愛がってくれた。
クラウディアは30代後半ほどの女性で、いつも落ち着いた雰囲気の服装をしている。
そんな彼女は裕福な家の人間で、子供の世話をするメイドなどもいただろうに、彼女はいつも自分でアレックスの汚れたオムツを変え、泣けばミルクを与えていた。大事に、大事に我が子に愛を注いでいた。
しかし、アレックスはまだ父の姿を一度も見たことがなかった。
やがてアレックスは子供部屋になっている部屋の中を這って回れるぐらいにはなり、そして言葉も発することができるようになった。
そうやって行動範囲が広がっても父の姿は見えない。
「どうしたの、アレックス?」
立って歩けるようになり、アレックスがいろいろなところを冒険すると、やはり母であるクラウディアが付いて回る。彼女はアレックスのことが心配でたまらないらしい。
「おかーさん。おとーさんは?」
「お父さんはね。忙しいの。帝国の宮廷魔術師長だから、ね。けど、凄く責任があって、偉い立場なんだよ。いつかあなたにも魔術を教えてくれるかもしれない」
「本当?」
「ええ。本当よ。私たち夫婦はずっと子供を望んできたけれど、ずっと報われなかった。けど、やっとあなたが生まれてくれた。可愛いあなたが生まれてくれた。みんなが喜んでいるのよ」
「そうなんだ」
ベルフェゴールにアレックスは願った。もう無視されたりすることのない主役の立場を。そして、どうやらそれは叶えられたらしい。今のアレックスは母親にもメイドたち使用人にも愛されている。
ただ、父の愛情が、それだけが未だに分からない。
それでも父もまた自分を愛してくれるとアレックスはそう信じていた。まさかそれが裏切られるなどとは思ってもいなかった。
ベルフェゴールの訪問もなく、父とも会えず、アレックスはそのまま4歳に。
「お父さんにはまだ会えないのですか?」
「もう少し待ってね。今、お父さんは帝都だから。まだ帰ってこれないの」
「そうなのですか……」
いつになっても父に会えない。
これが何か不穏なものを意味しているのではないかという気持ちが徐々にアレックスの中に積み重なっていく。
メイドたちも庭師も何も父について語ろうとしない。まるでそんな人間とは会ったことがないというように振る舞っている。
幸せな家庭に欠けた大きな欠片。それはとても不気味にであった。
「何かが隠されている。私にはそれが分かる気がする。だから、確認しなくては」
ついに彼は答えを求めて、再びベルフェゴールを召喚することにした。
「ふわあ。新しい人生はどうですか、アレックスさん?」
ベルフェゴールは何ら悪びれることなく、平然と召喚に応じた。
「悪くはないが、今はまだ主役と呼べるほどではないね。それよりも聞きたいことがある。私の父には何があるのか、だ。何か問題があるのではないか?」
「ふむふむ。それは、問題、というものが何を指すかですね。どのレベルの事情を以てして問題と称しますか?」
「いかなる事情であれ、少しでも通常から外れるならば問題だとしよう」
「であるならば、まずあなたの父はあなたの父ではありません」
「何だって?」
ベルフェゴールがそう言い放ち、アレックスが眉を歪めた。
「それはどういう意味において父ではないと? 生物学的? それとも社会的?」
アレックスは凪としての人生において黒魔術の他に学問をベルフェゴールから教わっていた。彼は人というものがどのようにして構成されているのかを知っている。
「それは生物学的に、ですね。そう、他でもないあなたを構成する母以外のもうひとつの要素は──」
ベルフェゴールがずいと半身をアレックスの方に傾ける。
「この私です」
ベルフェゴールが言った言葉にアレックスはすぐに言葉が出なかった。
「それはどういう……」
「主役になりたいのにただの人間の生まれではつまらないでしょう? かつての英雄たちが英雄足りえた理由はご存じですか? 彼らはどうして英雄と名乗れたか?」
「……古代ギリシャのゼウスの子だと名乗ったから……」
「真の英雄にはただの人ではなり得ない。真の主人公も同様に。だから、私の血を与えた。私の落し子とした。それだけの理由でありますが、これを選択したのは何も私だけではないのですよ」
「まさか父が」
「ええ。彼は黒魔術師なのですよ。妻の胎を私に与えることで、宮廷魔術師長という地位を得た。本来ならば生まれるのは取り換え子であり、化け物でしたが、私はここにあなたという生命を吹き込んだのです」
どうして父が自分に会いに来ないのか。
それは父が自分がなしたことを恐れているからだとアレックスは理解した。
「分かった。納得した。他に私に伝えていないことがあるのではないかい?」
「おや。生まれ変わって嗅覚が発達しましたか。その通りです。まだあります」
ベルフェゴールが意外だというように驚いた顔をする。
「取り換え子をキャンセルはできません。取り替える対象が変わっただけです。取り替えそのものは行われたのですよ。ある兄妹となるはずだった家庭に対して取り換えが行われたのですよ」
「それは本来私はそちらに生まれるはずだったのでは?」
「ええ。その通りです。その兄の方が醜い悪魔に取り換え子とされ、あなたはこちらに産まれた。まあ、あなたには妹がいるはずだった、というわけです」
アレックスの言葉にベルフェゴールはそう告げた。
取り換え子はベルフェゴールの思惑で絡み合った糸のようになっていた。
まず最初に取り換え子になるはずだったアレックスがこの家に生まれ、押し出されるように取り換え子は別に家に。その新たに生まれる兄が取り換え子となった。
アレックスは本来その兄として生まれるはずだったのだ。
「ですが、気にする必要はないですよ。今は無関係な他人ですし、その家庭は生まれた取り換え子をさっさと始末しましたから」
「それでもその名前は聞いておきたい。私の妹になるはずだった人間の名前は?」
アレックスがあくまでそう求める。
「ふうむ。では、教えておきましょう。彼女はかの“強欲”のマモンの眷属が代々生まれる血筋に生まれた女性」
ベルフェゴールがそう語り始めた。
「エレオノーラ。エレオノーラ・ツー・ヴィトゲンシュタインさんです」
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