örlöglausaエルログラウサ 運命を捨てた者どもよ
ロキは霜の巨人の身の上でありながらオージンと血を交わし北欧に名を列ねる狡知神である。
ひどくいたずら好きで意地が悪く、常に劣等感をその身に滴らせながらも飄々とした素振りで誰にも察されぬよう努力していた男は、北欧において何者からも信仰されずただキャラクター的に存在していた。『北欧神話』においてロキは文明と文化を神々にもたらしたが、それ以上の試練を、死を、ロキを含めた殆どの生の滅びをもたらした。ロキ。その名が示す滅びをだ。
この先に起こる終末戦争ラグナロクにおいて彼が死の軍勢の大将を務め、続く者は皆彼の子孫または部下であることから、この男が神々の敵であるということは火を見るより明らかかもしれない。しかしながら彼が神々に名を列ねていたのは紛れもない事実である。最終的に神々に蛇蝎の如く嫌われようと、毒の滴る洞穴に縛られ捕らえられようと、北欧の神々には彼を慕った者が、彼を愛した者が、彼を友と呼んだ者がいた。否、シギュンだけは過去形でなく、彼を一秒の弛みなく愛している。
現に今も、ロキの頬に落ちようとする毒の雫を持つ杯に受けている。両手で持ってなおよろめくような重い毒の杯を転んで溢したら大事だろうに、その間だけは毒滴なロキの頬を打ち苦しませるからと、小走りで捨てに行き、中身の捨てかたが性急でぞんざいなために彼女の柔らかな肌を焼いても感せぬようにただ大急ぎに、裏切りに満ちた彼女の夫の元に駆け戻り、醜く爛れた頬にある毒液を彼女の衣服で拭き、また毒を受けるのである。
健気な彼女の柔らかさを感じながら、ロキはひたすら内省の旅を続けていた。一体どうしてこんな目に?直近の答えは明白である。バルドルの死。何も知らぬ盲目の神ホドゥル、あろうことか彼の双子の兄である男にヤドリギの枝で作った吹き矢を投げさせて光の神の胸を貫かせた。妬ましかったから。光の表象としてその生を受け、何者からも寵愛され、その境遇で清く正しく美しく曲がらず倦まず聡明に育ち、尊敬ばかり受けながらも驕らぬ彼が憎かった。ロキも姿形こそ美しかったが所詮巨人の身の上で、薄っすら嫌われ見下され、その境遇と固の性質のために捻じ曲がった性格で誰かの気を悪くさせるようなばかりしでかしている。実際、誰かが困ったり怒ったりするのを見るのはひどく楽しいのである。現れた状況に対する、やり場のない動悸のような感情はとても滑稽。滑稽に感じてしまうこの心根が良くないのだとロキは薄々気づいていたが、悪口もいたずらもやめられなかった。ずっと嫌われ、バルドルの死で明確に恨まれた。これが此度の仕打ちの理由であるとロキは考えた。
しかしながらなぜこの小さな女神はここまで自分に尽くすのか?その理由がロキにはわからなかった。
この妻に対しロキは全く誠実でなかった。彼女を妻とする前から、もちろん妻とした後も、人妻を含めたあらゆる者と浮気に交わり、子すら得た。
ただし、生まれた子はみな不幸千万。万物を喰らう暴虐フェンリル狼、ミズガルズを囲む大蛇ヨルムンガンド、半身が蒼白く腐った地獄の女帝ヘル……どの神々もその処遇に困り、最終的に彼らは捕縛だの島流しだの散々な目に遭った。いや、今もなお。八本脚のスレイプニルは馬以下の阿呆でオージンに跨られてせっせと働かされている。ああ、そして可哀想な我が子……最も可哀想なのはシギュンの産んだ双子だろう。魔法なんかで、殺し合わされて鎖とされて。
事の顛末は今思い出しても面白い。顔を歪ませるわけにはいかないが。ああ、しかし親である自分は何ができたろう?否、見て笑うだけだった。私を恨むか?いいや、きっと彼らはオージンを始めとしたアスガルドの神々を恨んでいるだろう。神々が自分を恨むように。いつか恥辱を雪ぐ日が来るならば、我が子も共に、必ず。
ロキがそう誓った直後、地が揺れた。揺れは大きく長く、しかし悲鳴一つ聴こえなかった。ここ洞穴にはロキとシギュン二柱しかおらず、遥か周囲にも誰もおらぬようだった。
揺れが収まった。シギュンの持っていたはずの盃が地面に落ちて割れていた。しかし毒液がロキの頬を打つことはなかった。彼の妻が、彼の頭を抱くように覆いかぶさっていたからだ。感じるのは痛みの急峻な熱などではない柔らかで穏やかなあたたかさ。小さな女神は涙を流しているようだった。
「シギュン」妻の名を呼んだ。
「やめなよシギュン」
「ごめんよ、もういいんだよ」びっくりするほど優しい声が出た。他者を損ない騙し傷つけることを楽しみとする自らからこの音が。
この洞穴ごと地が割れてしまっていれば、そのまま呑まれてしまっていれば。ああ、否、鎖が緩んで逃げ出すことができていれば。この女神は苦しそうに、あるいは悲しそうに涙を流すことは最早なかったろう。その憐みのような考えがロキによぎり、他への集中が途切れ、彼は静かな足音に気が付かなかった。洞穴の入り口から、全力で駆けてくる、しかし静かな男の足音に。彼が他者を感知したのは、その男が手に持った大剣でロキを縛る鎖を斬り離した時だった。二柱はその男の突進に吹き飛ばされ、洞穴の岩に打ち付けられた。咳き込んでロキは、顔を上げて闖入者を見た。
雷神ソールだった。鮮血の如く紅い髪越しに強く睨みつける彼が、何故自分を解放したのか。その理由について考察する前にロキは思い出した。思い出してしまった。彼らを裂いた終末を。
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記憶の蓋が開くとともに、否、蓋などしていない、知らぬ記憶が注がれていくと共に襲う激しい頭痛にロキはうめき声を上げ蟀谷を押しながら地面を転がった。それの脇腹をソールが蹴り上げた。
「思い出したか?」
返事をするにも吸気が先ほどの蹴りで肺から全て絞り出されて上手く声が出せない。続いて爛れていない方の顔面を蹴り飛ばされた。男が裸足で良かったと思ったのは初めてだ。
「思い出したか?」
先ほど鎖を斬った剣が目の前に突き出される。この男はオレを殺すつもりか。致し方無いことだろう。
「オマエ剣なんて使えたんだな」この期に及んでろくでもない揶揄いしか弾き出さない捻くれた舌がもつれて仕方がない。
「ミョルニル大好きちゃんは槌しか使えねえと……ばかり……」
ああ、ここに現れたのがヘイムダルだったら、ラグナロクの記憶のように首を斬り落とされても噛みついて殺してやるというのに。現れたのはソール。かつて自分を友と呼び、旅をして笑い合った男。顔など見ていられる筈がなく、目を伏せる。
後方にシギュンが蹲っているのがすすり泣きの音で分かる。
「……せめて、せめてシギュンのいない所で殺しておくれよ」
「我が儘を言うなら子供たちも楽にやってくれ」農耕神の偉さならそれが出来るだろう、とロキは何の確証もなく言った。コン、コンとソールは剣で地の岩を叩く。
「それは出来ない相談だ」
歯を食い縛る。そらそうだ。災いの元は早くに殺しておかなくてはならない。主神オージンと大地ヨルズの子にして最強の神である彼だからこそ、逃れられぬ責務があるのだ。いっそのこと清々しく、目の前の剣を呑んで自害でもしてやった方が全ての為かも知れぬ。
そこまで考えてロキは気がついた。このロキともあろう者が他の連中についてつくづく考え、あろうことか心配をしている?ソールがなんだ、シギュンがなんだ、化け物の子供たちがなんだ、他の神々なんぞ更に更に!このロキが他へのメイワクなんぞの為に自らを損ない、在り方を曲げようとしている!どうして?どうしてそんなことをするロキ、お前は全てを嘲笑い貶し壊す者だろう。ああ!決めた!嗤ってやろう、この目の前の男を、後ろの女を、この世の全てを、終末すら!
瞬間的に決意を固め、爛れた頬を歪ませてロキは顔を上げた。が、その眼に写った景色の為に硬直した。
「友よ……」ソールが泣いていた。普段の無表情とさして変わらぬ風貌で、顔の前に厚く垂らした髪に遮られてよく見えず、しかし確かにソールの頬に一筋在った。そしてこの男はこの期に及んで自分を友と呼んだ。
「ソール様」か弱い女の声だった。シギュンはいつの間にか立ち上がっており、最早泣いていなかった。
「どうか夫の命だけは……お助け下さい……」そう言って頭を垂れ跪く。
何を言っているんだこいつは。なんなんだこいつらは。混乱の靄がロキの頭にかかる。思い出したのならば、思い出したのならばいっそうオレを殺さなくてはならない筈だ。殺さなくてはと恨む筈だ?何故その顔に仕草に言葉に滲むのは憐憫と慈愛?ロキが口に出さぬその疑問にソールは答えた。
「お前を殺せない」
「友よ、お前を殺せない……」
なんと、こいつは情に雁字搦めになっているのか。ああ、偽りの積年が彼を騙し騙して今この様か。功を奏したと言うべきか、或いは。
カラン、剣が落ちる音がした。丸腰の男が近づいてくるのに、少しだけ強張ったのは悲しい記憶に雁字搦めになった身体。
「逃げよう」ソールがロキの手を取る。
「父はお前たちに容赦しないだろう。それこそ息子の腸でお前を縛り付けてでも、復讐を誓わせるだろう」淡々と話すソールの瞳には妬ましいほどの決意が漲っていた。ロキはそれを美しいと思った。
「でも……どこへ……」辿々しく尋ねる。
「それは勿論東だ。ウトガルドすら謀って、始まりの樹の元へ……」
「俺ならお前たち二人をそこまで連れていける。そして父は俺に対してはそこまで強く出れないはずだから、大丈夫だ」大丈夫なんだ、とソールが言う。ロキはそんな友がありがたく、しかし切実に申し訳なく思った。
「家族は?お前の家族はどうなんだ」現実があった。この男の家族は脅かされないか?最愛の妻シフと、その間の息子モージと娘スルーズ、前妻との息子マグニとシフの連れ子ウル。彼はそのすべてを等しく愛し、愛されている。そんな彼がこのロキの逃走の片棒を担いでよいものか?いや……
「大丈夫だ!」ソールは一喝した。それは目の前の二人だけでなく、自らに向けたものでもあった。しかし、そんなことを察させるような男ではなかった。ただ納得させたかった。
「逃げよう、ロキ、シギュン」ソールは再び言う。返事は言葉の姿ではなかった。
狡知神ロキは、友ソールの差し伸べた右手をその額に押し当てるように、泣いた。おおよそ生まれて初めての、恐怖や怒り、羞恥から来ぬ涙であった。ロキの妻シギュンはそんな夫の肩を抱き、柔らかな溜息とともに一筋の涙を流した。
ソールはその顔に辛うじて微笑みと見える動きを示し、友を立ち上がらせようとした。その時、洞穴の入り口に気配を感じた。
心臓が闘いのために跳ね上がる。動きは一瞬だった。二人を庇う様に両手を広げつつ、捨てた剣を確保した。いつでも跳びかかれる姿勢で外を伺う。いつもの得物でない分、強者が来たら手こずるだろうが、誰だろうと即死させることはない。まさか父オージンではあるまいな。しかし、最も厄介で且つ最も現れかねないのは彼だ。彼の聖槍グングニルの間合いは長いが、踏み込んでしまえばこっちの勝ちだ。二人に槍が届かぬうちに、また投げさせることも阻止しなくては、彼の部下の狼どもまで来たら、それどころか他の神々を連れてきたら?
瞬きどころか細胞の身動ぎすら出来ぬ程の短い時間で稲妻の如く駆けた思考はすべて破棄されることとなった。
現れたのは、誰でもない者。ソールどころかロキもシギュンも一度も見たことが無い者。
「すまぬのう、そちの領分に勝手に入ってしもうて」その者が喋った。声からは男であるようだ。骨ばった長身とその顔だちも。ただその雰囲気、言葉遣いと服装しぐさは異なった印象を与える。ソールはその者が現れた瞬間から肌が粟立つような殺気を放っていた。そいつが何かしたら雷が駆け首を刎ねるのは間違いない。
「ああ!害意はないのじゃ、わ、妾はただ」男は弁明をしようとするが、それを遮りソールが怒鳴った。
「何者だ?何しに来た?どこから」
「タケハヤの兄じゃ!迷い込みよった弟を連れ戻すために夜見より!」男は簡潔に答えた。
「ヨゥミ……?」聞き覚えの無い言葉をソールが繰り返す。
「Jor……まさか……Ymir?」ロキの脳内で末恐ろしい考察が結実する前に男が遮った。
「あ!違う!そなたらの知り得ぬ場所じゃ!わらわの『ところ』とそちらの『ところ』は殆ど同一にして全く異なる」
「説明すると長いのじゃが……この『窓』はそちらのものであろう?」ソールの剣撃をなんとか躱し、それにより十分な距離が取れたと判断したソールの緊張が緩まったところで、男は説明を始めた。もちろん尻餅は着いたまま、両手は上に上げたままの情けない姿である。
男がそう言うと同時に袖から這い上がって来たのは小さな紫色の蛇だった。
「ォルム!」そう呼んだのはソールであった。『記憶』の中で大蛇ヨルムンガンドと相討ちとなった男であった。
しかしそれがヨルムンガンドであると確信したものの、その姿は知るものと大きく異なる。ソールは首をひねった。目の前の男は長身であるが、あの大蛇がその男の指先から肘までの長さに収まるはずがないのだ。むしろこの男が両手を広げてやっと幅となるかどうかのものであったはずだが。
「なんじゃ、蛇の自在さを知らぬか?」その疑問にお答えすべく男が言う。そしてロキを指さした。
「父親じゃろう?そちの器用さを受け継ぎこやつは変幻自在、忌み嫌われていた大きさも、ほら」また蛇が小さくなった。手の平程度の大きさになった蛇は器用に衣服の外側に滑り出しスルスルと男の肩へ登った。
「ま、練習は必要じゃがの」
「蛇は人間の見識では世界を繋ぐ凶兆の虹、つまり蛇は世界同士を繋ぐもの」
「外界と内界を繋ぐ窓とたとえられる」
「アース神界と他の界を繋ぐために造った橋を虹の橋と呼ぶそちらも近い感性はあったようじゃがの」
「しかしここにおいて蛇と虹のヴィジョンが重なることはなく、故にこの蛇の効能を知ることもなく」
「長々と喋らせておいてすまんが」赤髪の雷神が口を開いた。
「……何を言っているのかまったくわからない」短慮のソールどころかロキでさえ男が言っていることを理解できなかった。しかし、それを素直に申告できる精神性を携えていたのはソールであった。
「あー……いずれ必要があればわかる日が来るじゃろうから……」
男はかぶりを振って、人差し指を立てた。
「今は『ようわからんことが起きている。しかし、全てを良い方向へ持っていける』とだけ思って貰えたらええんじゃ!」
「わかった」雷神は素直だった。
「ま、此度うちのタケハヤがうちの『窓』を通じ世界の泥濘に入って、藻掻いてこの『窓』を見つけ一息つこうとこじ開けたのがトラブルの始まりじゃ」そうくどくどと説明しながらヨルムンガンドの頭を撫でていた男はそこまで言って溜め息を吐いた。
「弟を見つけ次第すぐ戻るからの?許しとくれ」媚びでも売るかのようにニッコリと笑った男は、弟を探すために背を向けようとした。
「待て、聞きたいことがある」それをソールが引き留めた。
「今俺たちは終末の『記憶』を見た」
「お前がォルムを連れて現れたその直前にだ。いくらなんでもタイミングが良すぎないか?」赤髪の美青年が詰問でも始めようかというような無表情で話し始めたのを見て、日本から来た男は少し身構えた。
「お前は、お前と弟は何か知っているのか?」
ソールの問い、おそらくソール自身は解らぬことが多すぎてそれを問いとは認識できていなかったろうが、それに、数える者は薄く広い口の端を上げた。
「……知は流れるものにして窓は全世に繋がる」
「そちらは得たのじゃ。知識を」ソールが息を呑む。ツクヨミは赤髪の男に蛇を絡ませた手を伸ばし、指さした。
「現にそち、何故『タイミング』だの『トラブル』などを解す?そもそもわらわとそなたは何で話している?」
「適応初期は無意識的にしか行えないじゃろうがの」
「うん、ラグナロク……そちらが識るのも不思議ではない」
「妾らが一情報として持っていたそちらの未来をそちらは知ったのだ」
「あれは……予言か?」ソールが問う。巫女の予言。それを聞いたのだと父が言っていたのははるか昔。父オージンは予言で全てを知りながら、それが予言であるが故に変える為の行動を起こせなかったし起こさなかった。自分たちもまた父のように、諦めきった老人のような面で、殺し合いの為に生きねばならないのか?
「否!確定の未来ではない」それは否定された。男は続ける。
「それは歴史叙述の原典に過ぎず、今を生きるそちらのすべてではないのじゃ」
「未来とは常々分岐を孕んだ可能性に過ぎず、よって個人、そしてその集合の辿り着き得る世界は複数用意されている……視きれぬほど多くの世界がじゃ」
「そのうちの一つが無意識的にピックアップされ視られ綴られたのがそちらの識る終末じゃ。話し合ってみよ?伝承は端々を異とする。各所に違いが見られるはずじゃ」
「つまり原典と異なる結末へ至ることは容易。しかし調整はあるだろうがの」
「つまり……俺は逃げれるのか?二人を連れて……」
「あーん、その必要はあるかのう?」
「そもそもその者の罪は何ぞ?縛られるための直接の罪は」
「……バルドルを死に導いた」そう答えたのは問われたソールではなく、ロキだった。
「そう、そのバルドルじゃがのう」
「生き返るんじゃ」
「は?」ソールは怪訝な顔をした。
「短く言うと終末の後に生き残りがほんの少しいて、バルドルとホドゥルはそれなのじゃ」
「モージとマグニも生き残るから、彼らを視ているのではないかのう?」
「そもそもこの混乱ぶりじゃあ、済し崩しにやれんもんかの~」
「……は?」再度ソールは何もわかっていないことを表明した。
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突然の『記憶』にアスガルドの神々は混乱していた。妻を抱き締めて泣く者。説明を求め父を糾弾するために駆ける者。ただ呆然とする者。ある者は鎖を解いていた。かつて騙した相手の鎖を。狼はそんな彼をただ、見ていた。
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ヘイムダルは虹の橋ビブレストにて倒れていた。勿論どこか怪我をしたとか体調を崩したとかいう話ではない。突然脳内に注がれた『記憶』にメモリが耐えきれず落ちているだけである。視界が絶えず白く瞬いて、もはやこれのせいで気分が悪くなりそうだな、とヘイムダルが思った時、頭上から声がした。
「オニーサン、ここどこかわかる?」誰の声かは判らなかった。男、若くて活発な男の低い声だった。
「ビブレストだろ……安心してくれ、オレはここの管理者だ……から」倒れている自分が何者かすら知らぬ田舎者が自分を心配してくれているのだと思ったヘイムダルはだるそうに答える。実際、全ての神経が『記憶』の処理に注力していたため身体は鉛のように重かった。
「へぇ!『管理者』かぁ!」声の主がどことなく嬉しそうな大声を出す。
「意外かよ……」溜め息のような呼気とともにヘイムダルは溢す。背も低く、子供っぽく金歯を見せて笑う優しげな顔つきの彼は、らしくないと言われるのは慣れっこだった。
「いや、道理で似てると思ったんだわ」いきなり落ち着いた低い声と同時に、顔の上半分に触覚があった。男の大きな掌に覆われているのだと理解したその時には、万力のように強く掴まれていた。
「いっ……」ただでさえ『記憶』の流入で頭痛を起こしていたところへの圧迫に、抗議の叫びすらほとんど出せず、ヘイムダルは十数秒を苦しんだ。
不意打ちを働いた男は何も言わずに、頭を掴んだまま持ち上げ、ヘイムダルの上体を起こした。
雑に扱われた神は痛む頭を抑えながら罵ってやろうと目の前の男を見た。が。
「見える……」素朴な感想がまず先に出た。先ほどまで頭痛の脈動と共に白くなっていた視界は良好に。目の前の男の顔もよく見える。全体的にすっきりとした顔立ちの、しかし眉は太く目力の強い男は山犬のような笑顔で言った。
「流れる向きは落ち着いたろ?俺は素戔嗚尊。これからよろしくな!」一体何の向きなのか、目の前の男が誰なのか、彼とこれから何があるのか、ヘイムダルは何もわからなかったが差し出された右手を握った。
「オレと神話を閉じような、リーグ」
「え?」
そして万力の強さの握手に今度は抗議の叫び声を上げた。
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テュールはフェンリル狼の鎖をすっかり解いてしまった。
「わたしを喰い殺すかい?」微笑んだ裁きの神を、狼はただじっと見るだけだった。
「きみなら……」Tyr、『神』と名付けられた者は見つめ返すのは気が引けたのか、伏せている狼の腹のところに座った。




