sideエルステラ 魔術師たちは叶わぬ恋をする
研究室の湿っぽい空気を裂くように、控えめなノックの音が響いた。
「はい、どうぞ」
ヴィクトリアが返事をする。
扉の向こうから恐る恐るという風に顔を出したのはアンシア・フェルディナント────先日、エルステラ入りした、亡国の姫君だった。
「ごめんください、ヴィクトリア……。少し相談があって。……あら、ミルヒオール君もいたのね?」
彼女が部屋に足を踏み入れると、どこか甘ったるい香水の香りが薬品の消毒臭と混ざり合りミルヒオールが顔を顰めた。
しかしヴィクトリアはそんなことより、彼女から目が離せなかった。
正確に言うなら、彼女のその見慣れぬ────否、世界で一番見慣れた色味の髪から。
「……その髪は?」
アンシアはピンクブロンドに染まった髪の毛先を指先でいじり、どこか夢見るような、嬉しいそうな表情で微笑んだ。
元々色素の薄い金髪の彼女にとって、その色は驚くほどよく馴染んでいた。
「魔術で染めてみたの。……ヴェリアル様がね、この前の遠征の時、こんな感じの髪をした人間の女の子に目を奪われていたから……」
陶酔に近い響きを含んだその告白に、ヴィクトリアは小さく息を吐き、無機質な声で問う。
「……ヴェリアル様は、なんと?」
「……ううん、まだ見せられてないの。……恥ずかしくて」
アンシアは少女のように頬を紅潮させ、もじもじと照れくさそうに視線を落とした。
シャーロットを彷彿とさせるその髪色は、エルステラにいる誰もにとって禁忌であり、特別だった。
かつてユーティオティアスは、視界に入るたびにヴェリアルが心を乱される事を恐れ、ありふれたピンクブロンドの髪を禁止し、謝罪しながら他の色に無理やり染めさせたほどなのだ。
ミルヒオールは座っていた回転椅子をゆらゆらと揺らし、背もたれに深く体重を預けながら、その様子を観察している。
「元に戻した方がいいよぉ」
「どうして?」
アンシアが心底不思議そうに小首を傾げる。ミルヒオールは彼女の底なしの無知を憐れむように、癖のある髪を揺らして大げさに肩をすくめた。
「んー、ヴェリアル様のその日の機嫌次第で、理不尽に殺されるかもしれないからぁ?」
「ヴェリアル様が?……そんなことするわけないわ。あの人は、誰よりも慈悲深い方だもの」
アンシアはあどけなく、くすくすと笑う。
ミルヒオールは心底呆れ果てたように、深く息を吐き出した。
アンシアが知らないだけで、ヴェリアルは狂っている。
ピンクブロンドの髪を見て、シャーロットの再来のようにその人を可愛がったこともあれば、彼女以外がその髪色をしているのを嫌がって殺したこともある。
同じ事が起こりうる……。そう思ったが、苦労して説明してまで止めてやる義理もない事に気がついた。
「……忠告はしたよぉ。あとは好きにすれば?」
突き放すようなミルヒオールの冷淡な言葉に、アンシアは困惑したように瞬きをする。
ヴィクトリアは困ったように、表面上だけの微笑みを浮かべた。
「それで、何の御用ですか?」
「……ううん、やっぱり今は平気!あとにするわね!」
アンシアは急に何かを察したのか、あるいはミルヒオールの言葉に思う事があったのか。
もしくはただの気分かもしれない。
彼女は落ち着かない様子で、ぱたぱたと忙しない足音を立てて部屋を飛び出していった。
重厚な扉が閉まると、室内に再び静寂が訪れる。
「あの人、ああやってたまに、私に恋愛相談をしにくるんです」
ヴィクトリアは小さく溜息をつき、乱雑に机に積まれた学術書を棚に戻し始めた。その動作には、一点の無駄もない。
「懐かれてるねぇ、ヴィクトリア」
「懐かれているというよりかは、牽制されているんですよ。『私の好きな人だから、取らないで』って。……まああんな劇的な出会い方をすれば、依存してしまうのも分からなくもありませんが……」
親から疎まれ、自らの生きる意味を失っていたアンシア。そんな彼女は1日にして親殺しになり、そして世界の救世主達の一員となったのだ。、
戸惑ってばかりだった彼女はひと月もすれば、ヴェリアルと共に外交の場で積極的に交渉に参加するようになった。その瞳は以前とは比べ物にならない程、希望に満ち溢れて輝いていた。
面倒な事だ、と顔を曇らせるヴィクトリアとは対照的に、ミルヒオールは面白そうなものを見つけた、とばかりににやにやと笑みを浮かべる。
「それでぇ、その泥沼確定の恋、止めてあげないの?」
「別に、そんな面倒な事はしませんわ。今までだって、ヴェリアル様に恋した子なんて数え切れないでしょう。彼女も、その例外ではないというだけのこと」
ヴィクトリアは作業の手を止めず、視線を窓の外、灰色の雲が垂れ込める空へと向けた。
「そんなくだらないことよりも……私たちが果たさなければならないことが、山積みですから」
彼女の声は、静まり返った研究室に溶けていった。
そろそろ、雨が降りそうだった。
ヴィクトリアはヴェリアルの執務室へと足を運んだ。
扉を開ければ、山積みの書類と、それらを抱えて慌ただしく往来する補佐官たちの喧騒が押し寄せる。
ヴィクトリアの姿を認めるやいなや、ヴェリアルはペンを置き、静かに手を止めた。
「やあ、ヴィクトリア」
入室に気がついた彼が声を掛けると、周りの補佐官達は足を止め、深くヴィクトリアに対して頭を下げた。
エルステラの女領主。
それは諸外国へ向けた見せかけの地位に過ぎず、実権はすべてヴェリアルが握っている。
しかし、ヴェリアルはいつだって彼女をひとりの対等な戦友として尊重してくれていた。
現在、エルステラは共和国との重要な交渉の渦中にある。フェルディナント王国が陥落した今、この交渉が破綻すれば大陸全土を巻き込む戦争へ突入するか、あるいは共和国を屈服させ有利な条件を飲ませるかという、二択の瀬戸際だった。
そんな極限の忙しさの中、ヴェリアルは意外なほどあっさりと彼女の外出許可を下した。さらに彼は、僅かな視線の合図だけで部屋にいた政務官たちを退出させる。
重厚な扉が閉まり、静寂が訪れた執務室に、ヴェリアルの声だけが低く響いた。
「ヴィクトリア」
「はい」
「ミルヒオールは意外と繊細な子だ。……だから、彼ではなく君に頼みがある」
「……まるで、私が繊細ではないと言わんばかりの言い草ですわね」
ヴィクトリアが皮肉めいて小さく微笑むと、ヴェリアルは感情の読めない瞳で彼女を真っ直ぐに見据えた。
「君は、目的のためなら手段を選ばない。……その覚悟があればこそ、死に等しい激痛を伴う術式で、非術師から魔術師へと生まれ変わってくれたのだろう?」
ヴィクトリアが研究を成功させ、魔術師として生まれ落ちた時。今までヴェリアルとの間にあった、透明でいて確かな厚みを持つ「よそよそしい壁」が、ようやく取り払われたような気がした。
魔術師か否か。
その違いを最も重く見ているのは他ならぬヴェリアルだ。
人間に恩師を殺され、家を奪われ地下へ幽閉され、そして最愛の人を奪われた彼は、今この世界を塗り替えようとしている。
魔術師と非術師の地位を逆転させるという、かつてシャーロットが生きていれば決して許さなかったであろう、冷徹な劇薬のような政策を掲げて。
彼は歌うように、なんでもない事のようにこう言った。
「────ルキウス・アリュール・ルーファスを秘密裏に殺してほしいんだ」
「……こう言った暗殺依頼は珍しいですわね。いつも堂々と真正面から手を下すのに」
「今は共和国が大事な局面を迎えているからね。帝国の相手をしている暇はない。後回しにしようと思ったが……あの異母弟は、早く始末した方が良さそうだ」
ヴェリアルは静かに、しかし冷酷な決定を下す。
「ヴィクトリア・リットン。君に特命を下す。帝国に赴き、君自ら判断し、最も効率的な方法でルキウス及びその政権を滅ぼせ」
「承知いたしました」
ヴィクトリアは静かに辞し、執務室を後にした。
かつかつと廊下を歩く。
向かう先は、ユーティオティアスの私室だ。
部屋に近づくにつれ、扉の向こうから楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。
シャーロットを失い、深い喪失感に沈んでいたエルステラに、再び温かな活気をもたらしたのは紛れもなく彼だった。
「おー、ヴィクトリア!」
「降りなさい。騒々しい」
扉を開けると、キキがユーティオティアスの机の端に腰掛け、悪戯っぽく足を揺らしていた。ユーティオティアスは、執務を妨害する彼を呆れながらも慈しむように叱りつけている。
ヴィクトリアが目に入ると、キキはぴょんと机から飛び降りて彼女に走りよってきた。
「キキ。……少し見ないうちに、大きくなった?」
「成長期だからな!早くヴィクトリアを抜かしてやんよ」
正確な年齢は不明だが、医療部の見立てではおよそ15歳。以前より明らかに伸びた背丈を指摘すると、キキは屈託なく笑い、ピースサインを作った。その微笑ましさに、ヴィクトリアの凍てついた心も僅かに綻ぶ。
「ユーティオティアス様。キキを暫くお借りしてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。仕事の邪魔しかしませんから」
「ふふ……帝国へひと月程、行ってきます」
ユーティオティアスはペンを止め、深く静かな瞳で彼女を見た。
「……ああ。貴方には、いつも苦労をかけますね」
ヴェリアルの下した重要な命令。その真意が、言葉を交わさずとも彼には伝わっているのだろう。
「今の皇太子はヴェリアル様の異母弟、ですよね。ユーティオティアス様はお会いしたことはありますか?」
「戦場では何回か。ただ皇太子はヴェリアル様とは12歳差。彼が生まれた頃、我々は特区に幽閉されていましたから、私的な関わりはありません。……死にゆく国の、死にゆく皇太子です。すぐに記憶から消える存在でしょう」
「……そう、ですわね」
ヴィクトリアは手土産の魔力入りのチョコレートをキキに手渡した。もぐもぐと器用に頬張る彼に、穏やかに問いかける。
「キキ。何か思い出したりはしたかしら?」
「んー、わかんね。でも、今日も飯がうまい!」
毒気を抜くような無邪気さに、ヴィクトリアは小さく微笑んだ。
「……今言った通り貴方をひと月ほど、帝国に連れていこうと思います」
「帝国ってさぁ、エルステラの敵だろ?なんで?」
「色々な場所を見れば、記憶が戻るかもしれないですから。世界は、貴方が思うよりもずっと広いんですよ」
「ふーん。わかった」
ヴィクトリアの心にはシャーロットの言葉が残っていた。帝国の地で産まれたという彼に、本当の空を見せてあげたいと彼女は言ったことがあったのだ。
記憶のため。勿論それも目的の1つだが、それがヴィクトリアなりの彼への密かな慈しみでもあった。
「ミルヒオールも一緒ですから、仲良くやってくださいね」
「やりぃ!ミルヒがいたら楽しそうだな!」
「貴方達、本当に気が合いそうですものね」
突拍子もなく大胆なミルヒオールの性格は子供達受けがいい。まだ子供の年齢であるキキは例に漏れずミルヒオールと仲が良かった。
「帝国かぁ。楽しみだな!」
キキの屈託のない笑顔を見つめながら、ヴィクトリアは静かに頷いた。窓の外からは、雨の匂いが微かに漂ってきていた。




