害のないお嬢様ですのよ
演習場の一件から数週間。
魔術師たちの士気はかつてないほどに高まり、帝国軍の勢力図は水面下で確実に、そして決定的に書き換わりつつあった。
そして、そんな歴史の転換期の裏で─────。
「あ、アデライン様! お、おはようございます!」
「おはようございます、皆さん。今日も素晴らしいお天気ですね」
白亜の回廊を歩けば、すれ違うたびに老若男女を問わない魔術師たちが、まるで眩しい太陽か聖女でも仰ぐかのような熱い視線で、にっこにこの笑顔を向けて深く頭を下げていく。
中には感動のあまり拝むように手を合わせている老魔術師までいる始末だ。
…………完全に、猛烈極まりない勢いで懐かれていた。
白状しよう。私は今、己の軽率な行動を猛烈に反省していた。
先日の演習場でアゼルに煽られた際、またもやあまりの理不尽さにカチンときてしまい、中身を剥き出しにして正論で殴り飛ばしてしまった。
十歳児という愛らしい皮を完全に踏み破った自覚はある。おかげで宮廷魔術師たちの間では、私を『魔術師の救世主』のように崇める不穏な派閥が形成されつつあった。
これはいけない。出る杭は打たれる。
凄まじい危機感を覚えた私は、ここ最近意識して徹底的にお淑やかで無害な「アデラインお嬢様」の擬態を続けていた。
パステルピンクのフリルドレスの裾をふんわりと揺らし、無害で愛らしい、ちょっと大人びたいお年頃の少女。よし、我ながら完璧な狸の化け化け作戦である。
「アディ!」
大理石の床に小気味よい足音を響かせ、回廊の向こうから聞き馴染んだ声が届く。
「お父様っ!」
私はドレスの裾を上品につまみ上げ、トトトと小走りで駆け寄ると、エセルリード公爵の胸に飛び込む勢いでその大きな手を両手で包み込んだ。
朝の柔らかな陽光が、公爵の仕立ての良い上着の刺繍をきらきらと照らしている。
私の無邪気な突撃に目元を緩ませながらも、どこか切なげな、庇護欲に満ちた手付きでエセルリード公爵は私の髪を優しく撫でた。
「宮廷は辛くないかい? 慣れない環境だろう。無理に大人たちの顔色を窺って、自分を押し殺す必要はないんだからね」
「そんなことありません。皆さんお優しくて、毎日とっても楽しいです!」
首をこてんと傾げ、一ミリの曇りもない満面の向日葵が咲くような笑顔を浮かべる。
シャーロットの人生経験をフル動員した、渾身の「純粋無垢な女の子」の演技だ。
エセルリード公爵をこれ以上心配させたくない、このぬくもりを守りたいという気持ちだけは、演技ではなく本物だった。
けれど彼はふと、その整った眉をわずかにひそめて真剣な双眸を私に向けた。
「……アデライン。少し、不穏な噂を聞いたんだ。君が、例の『魔術使用許可証』の画期的な政策に深く関わっている……と。それは、本当なのかい?」
ちくり、と心臓の奥が痛む。
さすがに帝国の英雄の耳は誤魔化せなかったか。
けれど、ここで認めるわけにはいかない。私はきょとんとした顔を作り、わざとらしくパチパチと瞬きをしてみせた。
「アディには、難しいことは良く分からないですが……。ルキウス様たちとお話しているときに、鳥さんは自由に空を飛ぶ……?みたいなお話をしてしまったのを、多分おじ様たちがお話を大きくして伝えてしまっただけだと思います」
「……ああ、良かった。君が変な権力争いの道具にされているのではと、生きた心地がしなかったよ。無茶はいけないよ、アディ。君はただ、健やかに笑っていてくれればいい」
ははは、と安堵したように笑うお父様の顔を見て、内側でそっと、冷や汗混じりの息を吐き出す。
危なかった……。これでお父様からの追及はひとまずは完全に煙に巻けたはずだ。
「ごめんね。父様は貴族院の会合があるから、また終わったらアディのお部屋に遊びに行くよ」
「はい!お待ちしてます。それではお父様、また後ほど」
小さくカーテシーをして、公務へと向かうお父様を見送る。その背中が見えなくなり、ふう、と小さく息を漏らしたその時だった。
コツ、コツ、コツ、と。
白亜の回廊に、やけに重々しく、苛立ちを隠そうともしない軍靴の音が響いてきた。
曲がり角から姿を現したのは、見間違うはずもない――帝国軍『戦争派』の筆頭、アゼル・ガイウス卿だった。
彼の周囲の空気だけが、まるで刺々しい氷塊のように凍りついている。アゼルはこちらに気づいた瞬間、その端正な顔を不快そうに歪め、まるで親の仇でも見るかのような猛烈な視線で私をキリキリと睨みつけてきた。
その眼光の鋭さは、すれ違うだけの宮廷侍女たちが恐怖で思わず足を止めてしまうほどだ。
十歳の子供に向けて良い視線ではない。あの演習場での敗北と屈辱が、よほどプライドの高い彼の心に深い傷を負わせたらしい。
(そんなに睨まないでほしいわ。穴が空いてしまうじゃない)
内心で冷ややかにため息をつきつつも、今の私は「無力で無害なお子様モード」である。
私は怯えたように小さく肩を震わせ、わざとらしくドレスの裾をぎゅっと握りしめると、すれ違いざまに深く頭を下げた。
「……ごきげんよう、ガイウス卿」
蚊の鳴くような、おどおどとした完璧な弱者の演技。
アゼルは私のその態度を怯えていると受け取ったのか、ふんと鼻で傲慢に笑うと、すれ違いざまに低く、私にだけ聞こえる声で吐き捨てた。
「小賢しいエセルリードの女狐が。その化けの皮、いつか剥がしてやる…………」
それだけ言い残し、アゼルはマントを翻して大股で去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、私はゆっくりと頭を上げる。怯えに染まっていたはずの私の瞳からは、すでに一切の感情が消え失せていた。
(そこまで怒らなくたっていいのに)
窓の外を見やれば、美しく整えられた王宮の庭園には初夏の風が吹き抜け、小鳥のさえずりがのどかに響いている。私の周囲には、ガラス細工のように繊細で、温和な平穏が流れていた。
けれど、この甘やかな日常の裏で、ガイウス家がこのまま黙って引き下がるはずがない。――それだけは、百も承知だった。
あのアゼルが、魔術師ごときに軍の主導権を脅かされ、あろうことか十歳の子供に公開処刑同然の恥をかかされたままで、大人しく眠っているわけがないのだ。
静かな嵐の予感。
肌にまとわりつくような不快な湿度の向こうで、何かが牙を研いでいる。
そしてその懸念は、予測し得る最悪のシナリオを、さらに飛び越えた邪悪な形で、帝国の夜を真っ赤に染め上げることになる。
今日は2話更新です。
よろしくお願いします!




