やはり順調にはいかないようです
「アデラインお嬢様……っ! 大変です、大変なことが起きました……!」
夜。シルクの寝衣に着替え、今まさに柔らかなベッドで眠りにつこうとしていたその瞬間、翡翠の間に飛び込んできたメリーアンの顔は、まるで幽霊のように真っ白だった。
いつも元気な彼女が、恐怖のあまり全身を小刻みに震わせ、呼吸を荒くしている。
「落ち着きなさい、メリーアン。まずは深呼吸をして。一体何があったの?」
「それが……城下町の商業区で、魔術師団員が暴走して……っ、一般市民を巻き込む大火災を起こしたって……! 今、城下はひっくり返ったような大騒ぎになっています!」
「……なんですって?」
脳裏に、氷水を浴びせられたかのような冷たい戦慄が走る。
自由を与えられたばかりの魔術師が、自制を失って街を焼いた?
…………いや、タイミングが良すぎる。
あまりにも、出来すぎている。
数週間前の昼下がり、あのアゼル・ガイウスが言い放った呪詛のような言葉が、歪んだ形となって頭をよぎった。
「おしっ、お師様が……っ!」
「ティリス団長がどうしたの?」
「お師様は……っ、第二騎士団によって連行されました……!ルキウス殿下による御前会議が、今すぐ開かれるそうです!」
はめられた。
何か、魔術師をよく思わない力に。
確信に近い直感が、私の背中を鋭く突き刺した。
アゼル・ガイウスが仕掛けたの?
魔術師の自由を根底から覆し、再び彼らを危険な猛獣として鉄格子の檻へと閉じ込めるための、血生臭い罠。
私は寝衣の上からローブを羽織ると、すぐさまルキウスの執務室へと足を向けた。
「───我が軍の懸念通りになったではないですか!」
重々しい鉄の扉を押し開けて執務室に入った瞬間、鼓膜をつんざくようなアゼル・ガイウスの勝ち誇った怒号が響き渡った。
室内の空気は氷点下まで冷え切っている。
椅子に深く腰掛けたルキウスは、組んだ指の隙間から、凍てつくような視線を斜め下へと落としていた。
その視線の先────大理石の床の上には、魔術師団長ユリウス・ティリスが両手首に魔力阻害の刻印が施された黒鉄で出来た枷を嵌められ、屈辱に耐えるように膝をついていた。
「書類の枷を外された途端、これだ。魔術師どもが酒に酔った勢いで口論となり、魔術を市街地でぶちまけた!火事まで発生し、死傷者は数十名、商業区の一角が消し飛んだのだぞ!」
アゼルは私が入ってきたことに気づくと、これみよがしに唇を釣り上げ、口元を醜く歪めた。
その瞳には「勝った」という確信がギラギラと満ちている。
「鳥に許可証、などという子供の絵空事を真に受けた結果がこの惨状だ! おい、エセルリード公爵令嬢。お前の言う理想論で、灰になった街と、死んだ民の命が戻るのか!?」
その痛烈な糾弾に呼応するように、ルキウスの背後に控える保守派の側近たちからも次々と声が上がる。
「やはり魔術師を野放しにするのは危険だ」「即刻、旧統制法を復活させて全員を管理すべきだ」
完全なる四面楚歌。
────魔術師の未来が、再び闇に葬られようとしている。
私はすっと背筋を伸ばし、ローブの裾を揺らしながらアゼルの前に一歩歩み出た。
「ガイウス卿。仰る通り、失われた命は二度と戻りません。ですが、今この場で話し合うべきは『誰の責任か』という不毛な追求よりも、正確な現状の把握。そして何より、一刻を争う怪我人の救助ではありませんか?」
「貴様、この期に及んでまだ身内の言い訳を───っ」
「言い訳ではありません。国家の危機に対し、ここは私怨を捨てて力を合わせて協力すべき瞬間です」
それまで俯いていたユリウスがハッとしたように青い双眸を跳ね上げた。
私はルキウスの手元にある報告書を見つめながら、毅然と問いかける。
「暴走したとされる魔術師の捕縛は?」
ルキウスがわずかに顎をしゃくり、後ろに控える第二騎士団の将校に視線をやる。将校は緊張した面持ちで直立不動になった。
「既に。身柄は確保し、強力な魔力阻害装置をつけております」
「現場の状況は?」
「総出で消火活動が続けられておりますが……未だ火の勢いは衰えず、消し止められておりません」
「単なる火災ですか?」
床にいたユリウスが、地を這うような声を絞り出した。将校が首を振る。
「いや、普通の火災とは違う。異常な速度で燃え広がっている」
「……魔術の炎なら、少しの水程度では消えません」
ユリウスの言葉を、アゼルが鼻で笑って遮った。
「だが、そんな野蛮な魔術をぶちまけた魔術師どもを、もう一度信じろというのか?!」
「では、ガイウス卿。貴方はこのまま城下がすべて灰になるのを見守れとおっしゃるのですか」
「元はと言えば野蛮な魔術師のせいだろう……この悪魔共が……っ!」
感情を剥き出しにして、子供のように喚き散らす大人の男。
私は冷ややかにアゼルを見据え、そのプライドを逆撫でするように、あえて憐れむようなため息を一つついてみせた。
「ガイウス卿。そのように子供じみた駄々をこねるのではなく、今は国家の盾として、互いに助け合うべきです。違いますか?」
「貴様っ、いい加減にしろ!!」
衆目の前で十歳の子供に「子供じみている」と核心を突かれたアゼルが、怒りで顔を真っ赤に染め、私の胸ぐらに掴みかかろうと大きな手を伸ばした。
その瞬間。
─────ガキィンッッッ!!!!
執務室の窓ガラスを震わせるほどの凄まじい衝撃音と共に、アゼルの身体が、目に見えない衝撃波によって派手に後ろへと弾き飛ばされた。
「な……に……っ!?」
床に尻餅をついたアゼルが驚愕の声を漏らす。
火花が散る部屋の中心で、ユリウスの手首にハメられていたはずの黒鉄の枷が、内側からの圧倒的な魔力によって粉々に破砕され、大理石の床にゴトン、と音を立てて転がった。
ユリウスは静かに立ち上がり、煤に汚れた衣服を払うこともせず、鋭い眼光でアゼルを真っ向から睨みつけた。
その背中から立ち上る魔力は、部屋全体の空気を圧壊させるほどに濃密だった。
「……今は、協力を。魔術師団長の名にかけて、生存者の救出に全力を尽くさせていただきたい」
「な……お前、その枷を……っ!? 最初から外せたというのか……!」
アゼルが戦慄に顔を歪める。
そう。ユリウス・ティリスという男は、軍が誇る魔力阻害の枷など、いつでも自力で噛み砕くことができた。
ただ、魔術師団へのさらなる反発や暴動を恐れ、あえて甘んじて受けていただけなのだ。
「そこまでだ、ガイウス卿、ティリス団長」
ずっと静観を決め込んでいたルキウスが、ついに低く笑いながら声を上げた。その双眸は、盤上のすべてを見透かしたように、冷徹で愉しげな光をきらめかせている。
「双方の主張は理解した。理解した上で、私は今回の件、魔術師団、第二騎士団、双方の協力なければおさまらないと判断した」
ルキウスはアゼルを見下ろし、絶対的な覇王の命令を告げた。
「アゼル・ガイウス。お前が城下の人間から、軍の英雄として信頼に厚いのを知っている。お前が現場へ赴き、民の避難を呼びかけ、混乱を鎮めろ」
「……っ! はっ……!」
アゼルは悔しげに奥歯を噛み締め、私を憎々しげにひと睨みすると、マントを荒々しく翻して駆けるように、第2騎士団と共に部屋を出ていった。
バタン、と重々しい扉が閉まり、執務室に再び静寂が戻る。
アゼルの足音が遠ざかるのを聞きながら、私は今までの出来事を頭の中で整理する。
(────違和感がある)
アゼルのあの狼狽、そして怒り。あれは「はめにいった側の人間」の反応ではない。
彼は本当に、この火災を事前に知らなかった。
ただ、起きてしまった最悪の事態をこれ幸いと利用し、魔術師団を叩き潰そうとしただけに過ぎない。
だとしたら、犯人はアゼル・ガイウスではない。
術者が捕縛され、魔力を封じられているにもかかわらず、水では消えない不自然な『魔術の炎』。
私の脳裏によぎるのは、かつての祖国。
────エルステラ。
ガイウスという猛犬すらも踊らせ、帝国を内側から引き裂こうとする真の黒幕の影が、煙る夜の向こう側から、じっとこちらを見つめているような気がした。




