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反対されるとは思っていました




 ユリウスの瞳の奥で、いまにも零れ落ちそうに揺れていた熱い光が、静かに、名残惜しそうに引いていく。

 

 彼は一度だけ深く息を吐き出すと、世界を拒絶するようないつもの無感情な魔術師団長の仮面を、綺麗に被り直した。

 

 けれどその声音には、先ほどまで世界に絶望していた男のものとは思えない、確かな熱が宿っている。


 

「……長話が過ぎましたね。貴女の体調を考えると……これ以上の読書は、明日以降にしてください」

 

「ええ。少し疲れちゃったみたい」

 

「治癒魔術を掛けましょうか」

 

「いいの?」

 

「いいのもなにも、そういう約束で貴方は此処に来たのでしょう」

 

「そうだったわね。……ありがとう」

 

 

 本当を言えば、治療なんて受ける気はさらさらなかった。

 だってこの生まれつきの虚弱体質に付け焼き刃の魔術を掛けたところで、根本的な解決になんてなりはしないのだから。

 前世の知識が、それが無駄だと告げている。

 それでも、彼の気遣いを拒む理由はなかった。


 

「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ……」


 

 紡がれたのは、厳かな女神への忠誠を誓う詠唱。

 

 身体の芯からじわじわと温かいものが広がり、鉛のように重かった足に歩く元気が湧いてきた。


 

「部屋へ戻れますか?」

 


 私が素直に頷くと、ユリウスは安堵したように満足そうに小さく頷いた。

 彼は私が選んだ『近代史』を含め、いくつかの分厚い本を器用に小脇に抱えると、もう片方の手で私の小さな手をそっと包み込み、立たせてくれる。

 その手のひらは思いの外、温かかった。

 

 

「翡翠の間までお送りします」

 

「よろしく頼むわ、ティリス団長」

 

 

 書庫の重厚な鉄の扉を閉め、ひんやりとした薄暗い回廊を歩く。

 歩調を完全に私――10歳の子供の、頼りない歩幅に合わせているユリウスを見上げながら、私は心の中で、かつての祖国・エルステラに思いを馳せていた。



 分かっていた。

 エルステラが、侵略国家になってしまったことは。

 けれど文字として初めて見ると、その破壊力は想像以上だった。

 

 

(2年間の外交断絶、そして周辺諸国の侵略……。結局、わたしはベルを止めることは出来なかったんだ)

 

 かつて私が命を懸け、すべてを捧げて守ろうとした国。私が死んだ後、遺された皆は一体どんな地獄を見たのだろう。

 そこまで考えが及び、胸が締め付けられたその時───前方の回廊の奥から、規則正しい、けれど恐ろしく傲慢な足音が近づいてくるのが聞こえた。

 

 カツ、カツ、と静まり返った石造りの廊下に響き渡る、硬い革靴の音。

 

 ユリウスが瞬時に足を止め、私の前に一歩進み出て、その大きな背中で庇うように立ちはだかる。触れずとも、彼の背中が微かな緊張で張り詰めたのが分かった。


 

「おや。こんなところで何をしている、魔術師団長」


 

 薄暗い曲がり角から姿を現したのは、燃えるような緋色の髪を持った、野獣のように体躯の優れた青年だった。

 豪奢な軍服の胸元には、数々の血生臭い勲章ときらめく金色の飾緒。その傲岸不遜を絵に描いたような顔立ちには、見覚えがあった。

 

 

「────ガイウス卿」


 

 ユリウスが声音を一段、氷の下へ沈めるように冷たくして一礼する。

 

 ガイウス公爵家。

 帝国軍を牛耳る『戦争派』の筆頭であり、エセルリード公爵家の政敵にあたる、武闘派の家系だ。

 ガイウス公爵家の嫡男、第2騎士団長アゼル・ガイアスはユリウスの儀礼的な挨拶を鼻で笑うと、その凶暴な肉食獣を思わせる鋭い視線を、ユリウスの影に隠れている私へと向けた。

 

「それが、皇太子の()()()()()か。なるほど、10歳にしては随分と大層な口を利くようだな。今朝の御前会議での公爵令嬢の話は、すでに俺の耳にも届いている」

 

 

 一歩彼が近寄るだけで、周囲の空気がビリビリと皮膚を灼くような威圧感が放たれる。幾多の戦場で無数の命を貪り、くぐり抜けてきた本物の『強者』だけが持つ、肌を刺すような濃厚な殺気。

 

 普通の10歳の令嬢なら、この視線に晒されただけで恐怖に泣き出し、腰を抜かして逃げ出すだろう。

 

 けれど、私はシャーロット・ラヴィアンジュだ。

 

 この程度の威圧、前世で泥沼の外交戦の最中、相手にしてきた各国の狐や狸、曲者たちに比べれば、あまりにも可愛いものだった。

 

 

「初めまして、ガイウス卿。アデライン・エセルリードです。私の拙い進言が、帝国軍の偉大なる騎士団長の耳にまで届いていたとは、光栄に存じます」



 私はユリウスの背から、あえて一歩横に踏み出した。アゼルの獰猛な目を真っ向から見据え、前世の苛烈な社交界で培った、完璧に優美で、完璧に冷徹な微笑みを浮かべる。

 

 アゼルは一瞬だけ、玩具に反撃されたかのように意外そうに眉を跳ね上げたが、すぐにその口元を、愉悦と侮蔑の混じった不気味な形に歪めた。

 

「ふん、小賢しい小娘だ。鳥に許可証、だったか? お前のおかげで、我がガイウス家が長年かけて構築してきた魔術師の管理体制が台無しだ。自由を与えられた魔術師どもが、調子に乗って戦場で暴走したら、一体どう責任を取るつもりだ?」

 

「暴走、ですか?」

 

 本来であれば、ここは猫を被り、適当に話を合わせて引き下がるべき場面だ。

 これ以上、敵を煽るべきではない。頭では分かっている。

 でも────吐き気がする。

 魔術師を人間とも思わず、ただの便利な兵器として扱い都合よく使い潰してきた。それが正義と信じて疑わない、この男のくだらない傲慢に。

 

 私は首を僅かに傾げ、哀れむような、小馬鹿にするような溜息をわざとらしくついてみせた。


 

「ガイウス閣下の率いる帝国軍は――書類の縛りがなければ、魔術師一人すらまともにコントロールできないほど、統率力が落ちていらっしゃるのですか?」

 

「────貴様っ!」


 

 アゼルの顔が怒りで赤黒く怒張し、その分厚い手が、腰に帯びた、いかつい大剣の柄へと伸びる。

 一触即発。

 すかさず、私の前に割り込もうとしたユリウスの手のひらに、パチパチと青白い電撃のような、狂暴な魔力が集束した。

 回廊の空気が、今にも火花を散らして爆発しそうなほどの緊迫感で満ちていく。


 

「2人とも、そこまでにしろ」


 

 圧倒的な質量と絶対性を持った声が、回廊の奥から響いた。

 

 一同が弾かれたように視線を向けると、そこにはいつの間にか現れていた皇太子ルキウスが、冷ややかな笑みを浮かべて壁に背を預けていた。その双眸は笑っていない。


 

「殿下……!」

 

「あまり私の城で無作法な真似をされては困るな。彼女は私の『秘書官』だと言ったはずだ。我が軍の最高将校ともあろう者が、子供相手に剣を抜くか?」


 

 ルキウスは滑るような足取りで歩み寄ると、アゼルの手を剣の柄から強引に引き剥がし、そのまま、あろうことか私の前に膝を突いた。

 

 そして、私の傷つきやすい小さな手を恭しくとり、その甲に深く口づけを落とす。

 

 その仕草は完璧に洗練された紳士のそれだったが、至近距離で合わせた彼の瞳の奥には、すべてを盤上の駒として弄ぶような、歪んだ愉悦の光がぎらぎらと隠せずに輝いていた。


 

「待たせてすまない、アデライン。どうやら私の城には、大切なレディに対する態度がなっていない野蛮な者がいるらしい」

 

 帝国最高権力者からの、明確な拒絶と警告。アゼルは苦虫を十匹ほど噛み潰したような凄惨な顔で一礼すると、地響きを立てるような足取りで足早に去っていった。

 

 不気味な静寂が戻った回廊で、ルキウスはゆっくりと立ち上がり、私とユリウスを値踏みするように交互に見つめた。

 

「随分と煽ったな。ああいう暑苦しい男は嫌いか?」

 

「嫌いです。非常に」

 

「なら私は?……お前たち、随分と二人仲良くなったようだ。嫉妬してしまうな」


 

 冗談めかした軽い口調。しかし、その奥底には、逆らう者を骨ごと噛み砕くような本物の王者の圧が混ざっている。探られているのだ、こちらの本質を。

 

 私はルキウスの手をそっと、しかし拒絶の意志を明確に込めて振り払うと、これ以上ないほど余所余所しい微笑みを彼に向けた。

 

 

「殿下、そんなにお暇がおありでしたら、早く私の部屋を『翡翠の間』以外に変える手続きをしていただきたいものです」

 

「気に入ってくれると思ったんだが? 最高の格式の部屋だぞ」

 

「よく仰います」


 

 底の知れない、全く食えない男。

 

 けれど、この呼吸ひとつで首が飛びかねない張り詰めた空気こそが、私がこれから生き抜くべき、懐かしい「戦場」だ。

 

 ルキウスは私の冷淡な一蹴がむしろ心地よいとでも言うように、低く喉を鳴らして愉快そうに笑った。


 

「変える必要などあるか?」

 

「今すぐ皇太子妃を娶らなければいけないのは貴方ですよ。帝国法でデビュタント前の、私のような小娘を後宮に囲ってはいけないと決まっています」

 

「では、その帝国法を変えようか」

 

「嫌です。お断りします」


 

 私が生意気に小首を傾げてみせると、ルキウスはますます瞳の奥の愉悦を深め、その獣めいた美貌を歪めた。


 

「アデライン。明日の朝、五ツ刻に、魔術師団の第一演習場へ来い」

 

「演習場、ですか?」

 

「ああ。お前が始めたあの法案の『結末』をその目で見届けろ」



 ひら、と手を振って去りゆくその背中には、これから帝国を、ひいては世界を丸ごと作り変えようとする若き覇王の圧倒的なカリスマと、不穏な影が満ち満ちていた。

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