シャーロット・ラヴィアンジュへ想いを寄せて
「────嬢、公爵令嬢」
「っ……!?ティリス団長、いつからそこに……っ」
突然、背後からかけられた声。
驚いて振り返ろうとした、まさにその瞬間だった。視界がぐにゃりと上下反転するように歪む。
あ、まずい。完全に読書に没頭しすぎて、この身体の貧弱な体力の限界をとうに超えていたらしい。
文字通り、ふわっと全身の力が抜けて、そのまま重力に従って身体が傾く。
ガチガチの堅い床に叩きつけられる衝撃を覚悟して、私は目を瞑った。
─────けれど、その痛みは訪れない。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
ユリウスが瞬時に展開した、淡い光を放つ魔術の障壁。それが柔らかなクッションのように私の身体を受け止め、滑り込むようにして彼の手が私の小さな背中を支えた。
「……貴女は、いつもそうやって無鉄砲なのですか? これではエセルリード公爵が日々どれほどの苦労をされているか、目に浮かぶようです」
「……面目ないわ。ごめんなさい」
「私がここへ案内してから既に半日が経過していますが、まさか……一歩も動かずにずっと通しで読書を?」
「?」
何がそんなに不思議なのか分からず、私が素直に首を傾げると、ユリウスは心底呆れ果てたように眉根を寄せた。
半日くらい、私にとってはむしろ短い方だ。前世、エルステラにいた頃なんて、寝食を忘れて四日間ぶっ通しで本を読み漁ったことだってある。
流石にその時は、ユーティオティアスに死ぬほど怒られて本気で泣かされたけれど……。
「……また戻って『魔術使用許可証』の書類仕事に追われるかと思っていましたが、どうやらその必要はなくなったようです。要らない手間でしたね」
「え?」
「……あれは廃止されることになりました。今さっき行われた御前会議で、正式に決定が下ったのです」
「そう……あの人は、本当にやり遂げたのね」
ユリウスのもたらした報告に、私は思わず目を見開いた。
「皇太子殿下は、魔術師に対する根本的な大改革を実行される。これまでの抑圧を捨て、魔術師の可能性を解放することにこそ、この帝国が生き残る唯一の道があると……激論の末、貴族院を黙らせました」
「……貴方は、どんな気分?」
私の静かな問いかけに、ユリウスは自らの手元をじっと見つめた。
その手のひらは、数え切れないほどの魔術の行使と、冷たい檻の記憶を刻んでいる。
「不思議な……本当に、奇妙な気分です。私のこれまでの人生において、決して存在するはずのなかった未来が、突如として目の前に現れたような……そんな感覚です」
「良い顔をしてるわ」
「私が、ですか?」
「ええ。わたし、貴方とはまだ短い付き合いだけど、貴方が本当に嬉しそうな顔をしている時くらい、分かるようになってきたわ」
からかうように告げた私の言葉に、ユリウスの表情が一転、影を帯びて翳った。
「……決して、幸福ばかりの未来ではないことは理解しています。
皇太子殿下のこの政策は、あくまで対エルステラ外交の為の布石に過ぎない。つまり、我々の進む先には、必ずまた血を流す戦争の未来が待っている。
それなのに、私は、己の解放にこれほどの喜びを抱いている。これは……」
「魔術師に魔術を使わせないなんていうのは、そもそも道理の通らない話なのよ」
己を責めるような彼の言葉を遮るように、私は静かに、けれど断固とした意志を込めて告げた。
「鳥が空を飛ぶように、魚が海を泳ぐように、魔術師は魔術を使う。それが、魔術師にとって最も当たり前で、何者にも奪われてはならない『幸福』なのだから、貴方の感情は間違いではない」
俯きかける彼の目をまっすぐに見つめ、私は最高の笑みを浮かべる。
「良かったわね、ティリス団長」
ユリウスは、まるであり得ないものを見たかのように息を呑んで私を見つめ――それから、喉の奥から絞り出すような声で言った。
「貴方に…………心からの感謝を」
「わたしに? どうして?」
「まずは、メリーアンを理不尽から庇ってくださったこと。そして何より……魔術師の未来を、信じてくださったことに」
「……買い被りよ。私は何もしていないわ。全てはルキウス様が成し遂げた結果でしょう?」
「いいえ、違います。今朝、貴女が皇太子殿下の前であの進言をされなければ、ここまで事が動くことは決してなかった」
ユリウスの真っ直ぐな言葉に、私の脳裏にあの緊迫した執務室の光景が鮮やかに蘇る。
今朝。
登場するやいなやルキウスは、今後の魔術師に対する根本的な統治方針を決めるにあたり、私の意見を聞きたいと書類を突きつけてきた。
ユリウス含め、最低限の側近のみその部屋に居ることを許されていた。
「ただの子供の意見なんて、国家の最高方針に本当に必要なのですか?」と皮肉交じりに尋ねると、ルキウスは不敵に笑って頷いた。その手に握られていたのは、魔術使用許可証が必要となる魔術レベルの、段階的な『緩和案』が記された書類だった。
「正直な意見を聞かせろ、アデライン」
「愚策です」
間髪入れずに言い放った私の辛辣な一言に、側近たちの息が止まる。
「この政策は結局、魔術師という存在をただの『便利な道具』か『危険な猛獣』としてしか見ていらっしゃいません。……魔術を発動するたびに書類を申請させ、魔術師団長や軍上層部が判を押して管理する……。愚の骨頂、時間の無駄としか言いようがありませんわ」
「縛りを設けねば、魔術師という強大すぎる『個の暴力』は御しきれん」
ルキウスは、怒るどころかむしろ楽しそうな笑みを浮かべ、机の上の書類を指先でトントンと叩いた。
「過去の歴史を見ろ。魔術師の暴走がどれほどの国家を滅ぼしてきたか。エルステラという、最も分かりやすい例がある。徹底した統制と監視は、国を維持するための基本であり、譲れない」
「それは、力を持つ者を正しく導く器量を持たない、無能な統治者の言い訳ですわ」
私の容赦のない言葉に、今度こそ室内全体の空気が爆発しそうなほどの緊張感に包まれた。側近たちの顔からサーッと血の気が引いていくのが分かる。
ルキウスの双眸が、獲物を前にした飢えた獣のようにギラリと光った。
だが、私は一歩も怯まない。
シャーロットとしての膨大な知識が、経験が、私の背中を強く押していた。
「殿下、一つお伺いします。貴方は、鳥が空を飛ぶために『飛行許可証』を発行なさいますか? 魚が海を泳ぐために『遊泳許可証』を求めますか?」
「……ほう?」
「魔術師にとって魔術を行使するという行為は、一般の人間が『息を吸って吐く』という呼吸と全く同じではありませんか?
彼らは生きるために魔術を使う。それが彼らの本能であり、存在の証明です。
それを、いちいち紙切れ一枚の許可がなければ許さないなど……。呼吸を制限された生き物が、どうして国のために最高の能力を発揮できるとお思いなのですか?」
私は一歩前に出ると、ルキウスの机を小さな手で叩いた。
「考えてもみてください。最前線で不測の事態が起きた時、『許可証の手続きが済んでいないので魔術は使えません』と魔術師たちが全滅する未来を望まれるのですか?
あるいは、許可証の発行を待つ数日間の間に、救えるはずの領民が死に絶えるのを静観なさるのですか?」
ルキウスは何も言わず、私の言葉をじっと聞き入っている。その表情からは感情が読み取れない。私はさらに言葉を重ねた。
「本当に彼らの強大な力を帝国の絶対的な利益にしたいのであれば、縛るのではなく、その翼を大空に広げさせるべきです」
「翼を広げさせる、か。面白いな。具体的にはどうする」
「簡単です。魔術使用許可証などという悪法は、今すぐゴミ箱へ捨てて……自由を与えてください。
魔術師たちに当たり前の権利として、自身の責任において魔術を行使させるのです。
ただし、その力を私利私欲や犯罪に用いた者には帝国の法に則って、容赦のない厳罰を処す。必要なのは『発動の制限』ではなく、『結果に対する絶対の責任』です」
私はふっと笑みを深め、不敵な視線を真っ向から皇太子へと向けた。
「自由と責任を与えられた時、魔術師たちは初めて、自分たちを『一人の人間』として認めてくれた統治者に深い敬意を抱くでしょう。
不要な手続きから解放された彼らの魔術は、今までの数倍の効率で帝国を潤すはずです。
彼らに『当たり前の幸福』を与えること。それこそが、魔術師たちが自発的にこの国に、そして殿下に忠誠を誓う、唯一にして最短の道ではありませんか?」
私の演説が終わり、執務室に完全な静寂が訪れた。
側近たちは信じられないものを見る目で私を凝視している。わずか10歳の子供が、大改革案を叩きつけたのだ。
(……ちょっと言いすぎた? いや、もう乗りかかった船だわ。なら、沈まないように最後まで泳ぎ続けなきゃ)
ルキウスは微動だにせず、私をじっと射すくめていた。その灰色双眸の奥で、無数の政治的思惑と計算が高速で回転しているのが分かる。
沈黙は、体感として数分にも思えた。
やがて────ルキウスの肩が微かに揺れた。
「ふ……はは、あはは!」
突如として、ルキウスが愉快そうに、豪快な笑い声を上げた。
「面白い。鳥に許可証、か。なるほど、子供らしい発想だが、ひどく本質を突いているじゃないか」
「子供だからこそ、大人のくだらない面子や、未知の力に対する恐怖心に惑わされないだけです」
「いいな、アデライン。やはり君と組むと、今後の人生が退屈にならなさそうだ」
ルキウスは立ち上がると、机の上の『魔術使用許可証』に関わる書類を乱暴に掴み、そのまま傍らで赤々と燃える暖炉の火へと放り込んだ。激しい炎が羊皮紙を包み込み、一瞬で灰へと変えていく。
「なっ、殿下!?」
側近が驚愕の声を上げるが、ルキウスは顧みもしない。
「魔術師に対する大改革────その第一歩として、許可証の廃止をただちに検討しよう。どのみち、既存の魔術統制は限界を迎えていた。新しい風が必要だ」
ルキウスは机を回り込み、私の前に立つと、恭しく一礼するように視線を合わせた。その美しい瞳には、深い執着と、確かな愉悦が宿っている。
「私の愛する人は、今日も突拍子もないことで私を驚かせてくれる」
あんな悪趣味な出迎えをしておいて、本当に調子のいい男だ。私は冷ややかな視線を崩さないまま、優雅にスカートを持ち上げて完璧なカーテシーを返した。
「……帝国の最高権力者として、迅速かつ賢明なご決断をなさることを、切に期待しております」
────そんなことが、今朝あったのだ。
私はただ、前世の経験から自分の考えを伝えただけ。大勢の反対派がいただろうに、それをこの速度でねじ伏せて成し遂げたのは、ひとえにルキウス自身が優秀な怪物だからに過ぎない。
過去の回想を終え、どこか照れ隠しのように私が微笑むと、ユリウスのどこまでも真剣な眼差しが私を引き留めた。
「公爵令嬢。……一つ、個人的な質問を聞いてもいいでしょうか」
「なあに?」
「かつて、ひどく不幸な少年がいました。彼は家族を愛していましたが、その家族は冷たい檻に閉じ込められていた。だから少年は、自らその檻の中へと入る道を選んだのです」
ユリウスの声はどこまでも静かで、どこか遠い過去を惜しむように、書庫の静寂へと溶けていく。
「そうして……ある時、檻の外から少年を助けようと、手を差し伸べてくれた人がいました。けれど少年は、その人に酷い言葉を投げつけて、その手を拒絶したのです。
時が経ち、その人のことを想うたび、少年は申し訳なさと後悔で押しつぶされそうになりました。
だから彼は、自分が檻の中で不幸であり続けることで、どこか安心していた。自分のような者には、幸福になる権利などないのだと、そう思い込んで……」
ユリウスはそこで言葉を切り、私をじっと見つめてきた。その深い瞳の奥には、拒絶を恐れるような怯えと、奇跡を祈るような光が混ざり合っている。
「貴方なら……この愚かな少年が、いつか幸せになっても良いと思いますか?」
前世の記憶が、ユリウスの言葉の裏にある「あの日の少年」の面影を、鮮明に重ね合わせる。あの時、泣きながら私を拒絶した頑なな子供の姿が、目の前の青年の姿と完全に一致した。
私はふっと小さく息を漏らし、一切の迷いなく答えた。
「助けに来た人が、その少年の不幸を祈っているわけないでしょう」
「……っ」
「その人の笑顔が見たくて、手を伸ばした筈よ。他の誰でもない、その人のためにね」
ユリウスは大きく目を見開き、それから、長年張り詰めていた心の糸がぷつりと切れたように視線を落とした。彼の長い睫毛が微かに震え、その瞳にじわりと、熱い光が滲む。
「そう……ですか……」
その横顔は、まるで長い長い呪縛からようやく解き放たれたかのように、ひどく儚く、そして救われたような色を帯びていた。




