翡翠の間なんてお返しします
「今日からアデラインお嬢様の侍女兼護衛を務めさせていただきます、メリーアンです!」
「メリーアン……!」
「お嬢様ぁ!」
きっちり三時間。純金で鋳造された砂時計の、最後のきらめく一粒が底へと落ち切るまで。
最低限の側近だけが集められた部屋で、ルキウスの政策に『子供の立場』を隠れ蓑にした意見を叩きつけてやった後。ようやく解放された私は、案内された「翡翠の間」の扉をくぐった。
公爵家から持ち込んだ私のささやかな荷物を収めるには、いささか広すぎる部屋だった。
けれど、この皇城のそこかしこに見られる成金趣味のギラギラした装飾に比べれば、どこか繊細で、気品ある美しさが感じられる素敵な空間だ。
その部屋の真ん中で、緊張のあまり借りてきた猫のようにカチコチに固まっていた、見覚えのある小さな少女。
「えへへ……」と気恥ずかしそうにはにかむ顔を見た瞬間、私は理屈を放り出して彼女の小さな身体に抱きついていた。
「こんなにすぐ会えるなんて」
「嬉しいですっ!」
久々の再会に、私たちは手を合わせて飛び跳ねて喜ぶ。
そんな微笑ましい────あるいは少し騒がしい私たちの様子を見て、案内人を務めていたユリウスが、ほんの少しだけ口角を上げた。
本当に、注意していなければ見落としてしまうほど微かに。
けれどそれも一瞬のことで、彼はすぐにいつもの鉄面皮へと戻る。
「一応、殿下の配慮だそうです。見知らぬ場所でも、親しい者が側にいれば心強いだろう、と」
「……意外と、細かい気遣いができる人なのね」
今のところ、あの「好きだ」とかいうとんでもない求婚爆弾を除けば、ルキウスの振る舞いは紳士的だ。
もちろん、それが私に対する純粋な好意によるものだなどと、自惚れるつもりは毛頭ない。
私がルキウスにとって、大改革を進めるための極めて使える人材だからに他ならないのだ。
裏を返せば、こちらの利用価値がなくなった瞬間に、冷酷に切り捨てられるだろうことは容易に想像がついた。
この手の合理主義者の思考回路は、前世で嫌というほど見てきたから。
それにしても。
慣れない手つきで使用人のように甲斐甲斐しく部屋の中を案内してくれる魔術師団長ユリウスと、その後ろをちょこちょこと付いて歩くメリーアン。二人の姿を見ているうちに、なんだか申し訳なさが湧き上がってくる。
「ねえ、私、貴方たちの本来の業務を邪魔してしまっていないかしら?」
「邪魔だなんて滅相もないです! 私はお嬢様の側にいられるだけで、すっごくすっごく嬉しいですから!」
「……ありがとう。でも、貴方はやらないといけないことが山積みでしょう? 魔術師団長ともあろうお方が」
愛らしいメリーアンの頭を優しく撫でながら、私はすっと視線をユリウスへと向けた。
「別に貴方がわざわざ王宮を案内する必要はないのよ。普通は寝る暇もないくらい忙しい役職でしょうに」
「わたしの仕事など、基本的には王宮の結界の定期修繕。そして、書類の山に埋もれながら『魔術使用許可証』に延々と判を押し続けるだけですから」
「他には?」
「……まあ。そこに公爵令嬢の治療が臨時のルーティンとして加わったくらいですね」
ユリウスは小さくため息をつき、感情の起伏を取り去った声で淡々と続ける。
「今の貴方は、良くも悪くもこの城において注目の的です。戦争派の過激派も、現状維持を望む保守派も、誰もが貴女を『次の皇后』だと確信していますからね。そんなピリピリした時期です、政治的に毒にも薬にもならない私のような引きこもりの魔術師が案内役に就くのが、一番どこからも角が立ちません」
「全部ルキウス様のせいね。あんな悪趣味極まりない歓迎をするから……」
「まあ……あれはあれで、周囲を牽制するためのわざとらしい演出なのでしょうが……。ただ、この『翡翠の間』に関しては、単なる演出とも言い切れませんね。ここは代々、皇太子妃の私室として使われてきた場所ですから」
「……は?」
一瞬、脳の思考回路が完全にフリーズした。
「────絶対、後で部屋を変えてもらうわ。何が何でも」
「……賢明だと思います。……さて、殿下からは『業務外の時間は何処で何をしていても構わない』と言付かっております。早速ですが、どこか他にご案内しましょうか」
「書庫! 書庫に行きたいわ、今すぐに!」
「承知しました」
「……圧巻ね」
案内された場所に足を踏み入れた瞬間、私は感嘆の息を漏らしていた。
そこは、かつてのエルステラ以上の規模を誇る、圧倒的で壮大な書庫だった。天を突くような本棚が幾重にも連なり、独自の重厚な紙の匂いが満ちている。
帝国の歴史。建国神話。退魔導装置の緻密な制作過程――。背表紙のタイトルを視線で追うだけで、胸の奥から湧き上がる知的好奇心に心臓が高鳴る。
「ティリス団長。私は暫くここに籠るから、もうお仕事に戻って大丈夫よ」
「まだ一箇所しか案内していませんが、本当に良いのですか?」
「どうせこれからの私は、自分の部屋と執務室、それにここを往復するだけの生活になるもの。平気よ。それより……」
私は、隣でソワソワとこちらを気遣ってくれているメリーアンに微笑みかけた。
「いいのよ、メリーアン。貴方はティリス団長と一緒に戻って、訓練を頑張ってきて。……そして、誰よりも立派な魔術師になるのよ」
「お嬢様……! はい、私、お嬢様をお守りできるように、精一杯頑張ります!」
二人の足音が遠ざかり、完全に静寂が戻った後。私は本棚が作り出す文字通りの迷宮を歩き回り、大量の書籍を物色した。その中から、棚の奥で燻っていた特に目を引く一冊を抜き取る。
『近代史』
吸い込まれるようにページをめくった瞬間、胸の奥がちくりと刺すように痛んだ。そこには、私が知り得なかった『あの日以降』の記述があったのだ。
────シャーロット・ラヴィアンジュの死後、エルステラは二年間、一切の外交を断絶した。
沈黙の破られた後、圧倒的な軍事スピードをもって共和国並びに周辺の小国を次々と侵略。
破竹の勢いで版図を拡大し、現在のエルステラに至る。
かつての懐かしい祖国が辿った、あまりにも血生臭い軌跡。あれだけ小さかった───それでも希望に包まれていた国は、今や帝国、共和国に継ぐ大国へと変わり果てた。
私は静かに、重い瞼を伏せた。
気が付けば一筋、冷たい何かが頬をつたって落ちていった。




