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甘い毒と取引と




 「皇太子殿下……! アデラインが倒れたと……!」


 

 ルキウスと暫く話し込んでいた時のことだった。

 

 廊下の向こうからドタバタと騒々しい足音が近づいてきたかと思うと、重厚な黒檀の扉が勢いよく開き、エセルリード公爵が滑り込んできた。

 その顔は、これまで見たこともないほど蒼白に染まっている。


 

 私の知っている彼の、完璧な公爵としての仮面は完全に剥がれ落ちている。

 そこにあるのは、ただ権力の理不尽に怯え、娘の身を案じる一人の無力な父親の姿だった。


 

「声を荒らげるな、エセルリード公爵。アデライン嬢なら、休ませた上で魔術師団長に治療をさせた。彼の診断では、極度の疲労による一時的な貧血、だそうだ」

 


 ルキウスはデスクに背を預けたまま、静かな声で告げた。

 ソファーに身を横たえていた私は、ユリウスが処方してくれた苦い薬のおかげで、ようやく荒い息を整え重い上体を起こすことが出来た。


 

「お父様……」

 

「アデライン……!」


 

 エセルリード公爵はなりふり構わず私に駆け寄り、その場に膝をついて私の身体を強く抱きしめた。

 

 震える手が、私の背中を何度も確かめるように弄る。衣服に乱れがないか、目に見えない傷を負わされていないか。

 

 その必死な愛に、私の胸は締め付けられるように痛んだ。

 

 (……本物のアデラインではない私が、この無償の愛を受ける権利なんてないのに)

 

 じわりと胸に広がる罪悪感から、私は小さく奥歯を噛み締めた。



 

「どこか、痛むところはないかい? 殿下に何か、恐ろしい命令をされたのではないか……っ?」

 

「いいえ、お父様。私はただ疲れてしまって……それで意識を失っただけなのです。皇太子殿下は、私に危害など加えておられません」

 

「だが……!」


 

 エセルリード公爵は、私の言葉を遮るようにして、鋭い視線をルキウスへと向けた。

 そこには、臣下としての礼節を完全に踏み越えた、明確な敵意と強い警戒が混じっていた。


 

「皇太子殿下。十歳になったばかりの、それも常日頃から病床に伏せっているような娘を、一人で呼び出して何の御用ですか」


 

 ルキウスは静かに立ち上がり、私たち親子を傲然と見下ろした。

 

 その灰色の瞳には、一切の感情が灯っていない。

 

 氷の底のような冷たさに、エセルリード公爵が数時間前に馬車の中で言っていた言葉が、私の脳裏に鮮烈に蘇る。


 

(大勢の命と引き換えに勝利を得る男。彼に関わる人間は、等しく傷つけられる────)


 

 ルキウスは、じっと三秒の間、私たち親子を無表情で見つめていた。

 

 そして次の瞬間、まるで仮面を付け替えるように、にこっと、完璧な美貌で微笑んだのだ。


 

「公爵。私はアデライン嬢に一目惚れしたんだ」

 

「……は?」

 

 

 あまりにも唐突で、場にそぐわない台詞。

 その場にいた全員の思考が凍りつき、息を呑む音が重なった。

 

 

「実に愛らしい。そして賢く、共にいると、愛とはかくいうものだったのかと教えてくれる」


 

 ルキウスは、まるで甘やかな物語でも語るように言葉を紡ぐ。


 

「しかしなんということだろう。彼女はまだデビュタントすらしていない、幼い少女だ。なんという運命の悪戯だろう?今すぐ正妃と婚姻し、皇太子としての地盤を固める必要のある私には、彼女が成人するまで待っている時間がない」


 

 あまりの理不尽な言い分に、私は頭がぽかんと白くなった。

(いくら『取引』をお父様にごまかすためとはいえ、これはないでしょう……!?)

 エセルリード公爵の背中が、怒りと恐怖で強張るのが肌に伝わってくる。


 

「よって私はアデライン嬢を諦めるため、高位貴族の娘たちを婚約者候補として置き、そこから形だけの婚約者を決めようと思う……が。真に愛しているのは彼女だ。私のこの淡い恋心を諦めさせるのは、いささか可哀想だとそう思わないか?」

 

「なっ……!?」


 

 お父様の顔から、完全に血の気が引いた。ルキウスの言葉の裏にある、狂気的な執着を察したのだ。


 

「なら、どうすると……! まさか、愛人などという不名誉な役に、私の愛する娘を納めることなど断じて出来ません!」


 

 エセルリード公爵の混乱と怒りに満ちた目が、ルキウスを射抜く。


 

「公爵、私は彼女を傍に置きたいだけだ。名前など何だっていいんだよ。側近でも、友人でも、公爵の気に入った役職名でいい」

 

「無理です。お断りいたします」

 

「これは、頼みではなく、決定だ」

 

「……断れば、どうなりますか」

 

「さあ、どうなるだろうな?」


 

 ルキウスは楽しげに、それでいて明確な脅迫を込めて微笑む。

 エセルリード公爵が私を背中に庇うようにして一歩前に出た。その声は小刻みに震えていたが、父親としてのプライドと意地が、そこには確かにあった。


 

「お父様」


 

 まだ幼い少女の声が、重圧を感じる部屋の中で場違いに響く。

 

 

 

「私、()()()()()のおそばに居たいのです」


「……っ、滅多な事を言うのではない!」


 

 私の言葉に合わせるように、ルキウスが歪んだ笑みを深める。

 

「公爵。()()()()()もそう言っている」

 

 私をファーストネームで呼んだルキウスの勝ち誇った声が、冷たい書斎に響いた。

 だが、ルキウスの追撃はそれだけでは終わらない。彼はさらに甘い罠を仕掛けるように言葉を重ねる。

 

 

「公爵、アデラインの虚弱体質を治したいと思った事は?」

 

「それは……勿論、いつでも願っております」

 

「なら、彼女が王宮にいるのなら、ユリウスを専属に付けよう。魔術なら、その忌々しい体質も治るかもしれない……。知っての通り、魔術師団長の直接の治療など、受けられるのは王族だけだ」

 

 お父様がガタリと息を詰まらせた。

 娘を人質に取られた絶望と、娘を苦しめている虚弱体質が治るかもしれないという親心の間で、激しく葛藤しているのが分かった。


 


 ─────勝つのはいつも、余裕のある者である。



 

 それから、ひと月。

 準備期間を経て、私はついに不穏な空気が渦巻く王宮へと出向くことになった。

 

 与えられた名目は『特別秘書官』。

 

 十日に一度は必ず家族と面会すること。そして、私の虚弱体質が改善された暁には、公爵邸から出仕することを条件として、お父様が血を吐くような思いで勝ち取った妥協点だった。

 

 当然、十歳の少女が皇太子付きの秘書官になるなど、前代未聞だ。

 

 大勢の貴族たちが、裏で様々な噂を囁き合っていた。


 

 ────皇太子殿下は、よほどの『子供好き』らしい、と。

 


「あんな少女を囲うなんて……」


「秘書官?ルートヴィヒ侯爵の次男の申し出を断って選んだのがあれか?」


「仕方あるまい……どうせまた、この()()()殿()()も長くは持たんよ」

 

 

 突き刺さるような好奇と蔑みの視線、そして執拗な囁き声。

 私は前世の記憶を総動員して背筋を伸ばし、堂々と出仕を果たした。

 

 たどり着いた執務室の扉が開くと、そこには書類に目を通すルキウスの姿があった。


 

「アデライン」

 

「皇太子殿下」

 

「……ルキウスと呼ばないのか?」


 

 その親密さを誇示するようなやり取りに、控えていた周囲の側近や貴族たちの間に、痛烈なざわめきが走る。


 

「ひと月も待たせるとは。お前の荷物は全て、翡翠の間に置いてある」


「お心遣いに感謝します」


「後でユリウスに案内させよう」

 

 

 私を奥の部屋へと促しながら、ルキウスは周囲の目を欺くように、そして私だけに見せつけるように、ニヤリと妖しく艶やかに笑った。


 


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