時計塔の上で、君に幸福を祈る
その後、舞踏会は何事もなかったかのように、滞りなく、そしてある意味では完璧に幕を閉じた。
あの凄惨なシャンデリアの落下すらも「開戦の鬨の声」として己の糧にしてみせたルキウスの発言は、帝国をエルステラへの全面戦争という名の狂気へ誘う、これ以上ない前向きな道標のように感じられた。
夜会の序盤、ルキウスの手を取り、大広間の中央で細いステップを踏んでいたお姉様――ルチアの姿は、まるで額縁の名画から抜け出してきたように美しかった。重厚な白シルクのドレスが滑らかに床を掃き、裾が翻るたび、周囲の貴族たちからは溜息混じりの称賛が漏れた。
「ああ、なんと神々しい……。帝国に咲く白百合とは、まさに彼女のようなレディのことだわ」
「エセルリード公爵家は、なんと至高の宝を育て上げたのだ。これでは次期皇太子妃の座は揺るぎないな」
沢山の賛辞がきらびやかな会場を埋め尽くしていく。
けれど、私は知っていた。その華やかな光景の裏側に潜む、歪さの正体を。
誰も、見ていないのだ。
お姉様とルキウスの視線が、ただの一度として熱を帯びて絡み合うことがないことも。
そして、称賛の声が響く壁際に、微動だにせず並ぶ魔術師たちの異常な存在を。
彼らは呼吸することすら「許可」されるのを待つ道具として、そこに立ち尽くしている。その瞳からは一切の光が失われ、ただ主人の命令を待つ精巧な人形のように、感情のすべてを根こそぎ削ぎ落とされていた。
─────私はその光景を、ふかふかのベッドの上でぼんやりと思い出していた。
十歳の少女、アデライン・エセルリードという小さな肉体の檻に、再び閉じ込められたままで。
(……何も、変わっていない。変わらなかった。変えられなかった)
自分が一度死を迎える前と、世界は残酷なほどに何一つ変わっていない。その重たい現実が、胸の奥底へおもりのように沈んでいった。
私が『孤独のダイヤモンド』を飲み込み、自ら死を選んだせいで、魔術師たちは以前よりも過酷に苦しめられているのだろうか。私の選択は、彼らを救うどころか、より深い奈落へ突き落としただけだったのか。
────いいえ、でも。
もしあの時、ベルが望むままに5つの宝石の欠片を集めきってしまっていたら。世界はもっと修復不可能なほどに、魔力という名の狂気で歪みきっていたはずだ。
「……女神様。こんな無力な子供の姿じゃ、何も出来ないよ……」
小さく、吐き出すように独り言を呟き、豪華な、けれど氷のように冷たい天蓋付きのベッドに身を沈めた。
十歳の病弱令嬢には耐えきれない身体の疲労と、それを遥かに凌駕する底知れない虚無感に包まれながら、私はゆっくりと意識を手放していった。
その夜、私は夢を見た。
それは、過ぎ去った日々の記憶の断片か。あるいは、私自身の未練が紡ぎ出した幻影か。
目の前に広がっていたのは、燃えるような、血の色の夕焼けに染まったエルステラの廃都だった。
崩れかけた石造りの街並み、風に舞う黒い灰、そして遠くで不穏に響く崩落の音。流浪の民に破壊されて、時を止めた古い時計塔。
地上に出てすぐ、帝国と共和国に与えられた、あの死んだ土地だ。
数万の命を背負って、こんな場所でどうやって生きていけばいいのか。
初めてこの土地を明け渡された時は暫し呆然とした。
そこからよく、あそこまで大きな都市に成長したものだ。
私はかつて思い悩んだ時、よくあの時計塔に向かっていた。懐かしさを感じて、一歩、また一歩と瓦礫につまずかないように気をつけて歩く。
街全体を見下ろせるそこは、考えをまとめるのにぴったりで。螺旋階段を登り頂上までいくと、そこには案の定、先客がいた。
崩れた瓦礫に長い四肢を預け、ただじっと、遠くの地平線を見つめている。
重い足音を立てて近づく私に、その男は億劫そうに、けれど私だと気づいた瞬間にその双眸を細めて、ゆっくりと顔を上げた。
「……また、そんな顔をしてる。シャーロット」
聞き違えるはずのない、低くて、けれど甘い蜂蜜のような響きを帯びた声。
片側に緩く結った銀糸の髪が、夕風に遊んで、名残惜しそうな光を放って煌めいている。私を真っ直ぐに射抜くのは、アメジストのように深遠な輝きを秘めた瞳だ。
十年前、最後には道を違えてしまったけれど、私と共に戦場を泥に塗れて駆け抜けてくれた。言わば運命共同体。
若く、鋭く、けれど世界中で誰よりも優しい眼差しをしたヴェリアルが、そこにいた。
私は何かに吸い寄せられるように、彼のすぐ隣に腰を下ろした。
「ベル……」
「どうしたの?」
彼は大きな手のひらで、私の乱れた髪を少し手荒に、けれどまるで壊れやすい硝子細工を扱うかのような、恐ろしいほどの慈しみを持って撫でた。
その手の平から伝わる確かな熱が、夢の中だというのにやけに現実味を帯びていて、それだけで胸がちぎれそうになる。
「貴方は今……このエルステラをどう考えてる?」
「ユーティオティアスが農地に出来そうな土壌を探している。他の者たちも、枯れた土地で生きる種を改良している。皆が前を向いているから、良い知らせもきっと近い」
「そう。その通りよ。麦が取れる土壌も、乾いた土地で生きる大豆や芋も見つかるわ」
「女神様からのお告げ?」
「そうね」
「なら、良かった。幼い子も多い。何より食を安定して供給出来るようにしなければならない」
微笑むヴェリアルは、間違いなくこの国を、エルステラを想っている。どうしてだろう。この時は絶対に同じ方を向いていたのに。私たちは一体、いつからすれ違ってしまったんだろう。
「良い為政者になってね」
「その為には君にも傍で働いてもらわないと、シャーロット」
「そうね、ベル。…………そう言えば貴方は私の事、一度も『ロティ』と呼ばなかったわね」
「ん?……ああ、いいんだそれで」
そして、彼はひどくゆっくりと、私の方へ視線を移した。その美しい紫水晶の瞳が、火の色を反射して妖しく、ゆらりと揺れる。
「僕は君を、シャーロットと呼びたいんだ。君が生きていると実感するから」
いつも強力な魔術を紡ぐ時のように、一文字一文字を噛み締めるように大切に、彼は私の名前を呼んだ。
その響きは、どこか神に捧げる祈りのように敬虔で――まるで、この歪んだ世界に「私」という存在の楔を深く刻みつけるような、圧倒的な重みがあった。
「…………ベル。私、貴方のことを幸せにしてあげたかった。心から楽しいと笑えるような、そんな世界で」
夢の中の私は、目の前にいるヴェリアルへと視線を合わせ、震える声でずっと言えなかった本音を漏らす。
戦うことしか知らなかった彼に、終わらない夜を強いてしまった私。
彼は幸せなど求めていなかったかもしれない。
彼が心の底から望んでいたのは、ただ私と共に、どこまでも地獄の底へ堕ちていくことだけだったのかもしれない。
…………ただの私の自己満足だとしても。
貴方が幸せになると、私は嬉しい。
私の小さな独白を受け止め、ベルが何か言葉を紡ごうと、その薄い唇を動かした。
その言葉を、一言も聞き漏らすまいと、私は必死に身を乗り出す。
───けれど、聞こえない。
(え……? 何、ベル? 何て言ったの……?)
彼の唇は確かに動いているのに、その声だけが、世界から色が失われていくように急激に遠ざかっていく。
代わりに、世界全体がぐにゃりと歪み、あの燃えるように美しい夕焼けが、冷たく、底の知れない暗黒の闇へと塗りつぶされていった。
目が覚めた時、枕が濡れていた。
……泣いていたらしい。
そっか。私─────。
道を違えた。命を懸けて彼を止めた。あの時は、彼の行動を激しく憎んでいた事もあった。けれど。
彼を大切に想う気持ちだけは、今も変わらず、ここに確かにある。
不思議と、妙に清々しい気分だった。まるで憑き物が落ちたみたいに、胸の奥が軽い。
いつまでも無力を嘆いて立ち止まっていても仕方ない。
五番通りの野良猫には逆境など朝飯前だ。腐る程乗り越えてきたのだから。
私は、私の信じる道を今度こそ貫きたい。
魔術師を、救いたい。
魔術師と人間が手を取り合える世界を、私は絶対に諦めない。
その道の果てにこそ───間違いなく、ヴェリアルが心から笑える未来もあるはずだから。
(ベル、今あなたは、どんな顔をしているのかな)




