sideエルステラ アンシア・フェルディナントと、壊れた王様
残忍、冷徹、非道にして無慈悲。
この世に溢れるありふれた罵倒語をすべて塗り固め、その上に「最強」という名の絶対的な絶望を冠した男。かつて小国をわずか一日で灰にし、地図からその名を抹消したという生きる伝説。
────ヴェリアル・クレミア・ルーファス。
その名を風が運んでくるだけで、赤子は泣き止み、賢者は筆を折るという。
フェルディナント王国。
帝国と共和国という二つの大国に挟まれ、常にその顔色を伺いながら存続してきた、痩せた土地と貧しい民の国。
建国以来、両国の睨み合いという危うい均衡の上で踊らされてきたこの小国は、今、第3の選択肢───「死」という名の蹂躙によって、一夜にしてその歴史の幕を閉じようとしていた。
炎上する黄昏。
空を埋め尽くしたのは、死を告げる渡り鳥達。
黒いローブを翻し、重力を嘲笑いながら飛来する魔術師の大群。
彼らが指先をひと振りするたびに、王国が誇ったはずの、紙細工のように薄い魔術障壁が乾いた音を立てて砕け散る。
「……っ、ああ、なんてこと……」
第一王女、アンシア・フェルディナントは、王宮のバルコニーからその光景を呆然と見つめていた。
視界を染めるのは、夕陽よりも毒々しく、すべてを飲み込む紅蓮の炎。
幸いだったのは、侵略者の狙いが「王宮」という一点に絞られていたことだ。城下街は焼かれてはいない。彼らにとって、滅ぼすべきはただ一つ、この腐り切った王権の象徴だけなのだ。
「降伏する……! 降伏だ! 命、命だけは助けてくれ……!」
背後から聞こえてきたのは、気高い王の言葉ではなく、命乞いをする獣の悲鳴だった。
玉座からずり落ち、贅肉のついた身体を無様に震わせる父王。常に贅を尽くし、民に圧政を強いてきたその威厳は、今や見る影もない。
王妃はただ、現実を拒絶するように甲高い悲鳴を上げ続け、アンシアの腹違いの妹たちは、昨日まで嘲り、虐げてきたはずのアンシアの背中に、その震える指を食い込ませていた。
(ああ……終わるのね。すべて)
アンシアの瞳に、諦めが宿る。
自分たちが積み上げてきた業が、今、最も残酷な形で返ってきたのだ。
王宮の重厚な扉が、内側から爆ぜるように開け放たれた。
灰と煙が舞う中、黒いローブを纏った魔術師たちが、一糸乱れぬ動きで道を開ける。その中央を、静かに、しかし圧倒的な死が歩いてきた。
闇色の衣の隙間から覗く、アメジストのように妖しく、美しく輝く瞳。
ヴェリアル・クレミア・ルーファス。
彼があの、死神。
彼と目が合った瞬間、アンシアは自分の魂が凍りつくのを感じた。それは憎悪でも怒りでもない。深淵を覗き込んだ者が抱く、原始的な恐怖だった。
「縛りあげて、並べてください」
ヴェリアルの背後から、眼鏡をかけた利発そうな魔術師が淡々と事務的に命じる。
その一言で、逃げ場のない魔術の縄がアンシアたちの四肢を絡め取った。
自由を奪われ、大理石の床に跪かされた王族たちの目の前に、轟々と燃え盛る巨大な処刑の炎が顕現した。
「卑劣な……! 卑劣な魔術師共め……!」
父王が、泡を吹きながら呪詛を吐く。
その言葉を受け流したのは、赤い瞳の印象的な、背の高い青年だった。
「卑劣だって。でも、僕たちは帝国に隣接していれば、どこだって良かったんだよぉ。王をすげ替えられても文句が出ない国……民衆を制圧する方が面倒だからねぇ。だからここが選ばれたのは身から出た錆、って訳じゃん、ねえ?」
ケラケラと、鈴を転がすような声で笑う少年、ミルヒオール。その無邪気な残酷さに、王族たちは絶望に打ちひしがれる。
「恨まれるようなことは言うものではありませんよ、ミルヒオール。彼らには、自分たちの罪を理解する時間が必要なのですから」
「はぁい、ヴィクトリア」
深いすみれ色の髪をはためかせた美しい女性魔術師が、呆れたように、しかし慈悲など一滴も含まれていない冷たい声で少年を窘める。
炎の照り返しの中で、ヴェリアルはずっと黙っていた。
彼は、縛り上げられた王族の一人一人を、まるで壊れた道具を点検するかのような無機質な眼差しで眺めていた。
そして、その視線が再びアンシアに止まったとき。
アメジストの瞳が、わずかに悦びに似た────あるいは底知れぬ興味を孕んで細められた。
「……君は、この国をどう思う?」
死神の唇から漏れた、低く、思いのほか甘い声。
それがアンシアにとっての救いか、あるいはさらなる地獄の始まりなのかを、この時の彼女は知る由もなかった。
「……哀れだと、思います」
アンシアの声は、震えながらも芯が通っていた。
「哀れだと思います。こんな、国に生まれて。乾いた大地に、ろくな食べ物もなく、ようやく実ったと思えば王族に搾取される……」
「でも、君も王族でしょう?なら君は搾取する側だね」
ヴェリアルが、興味深げに彼女の顔を覗き込む。
「自ら変えようとしなかった時点で、君は彼らと同罪だ……そうは思わない?」
「思います……っ!」
アンシアは叫ぶように答えた。溢れ出した涙が煤けた頬を濡らす。
「一番、一番愚かなのは……わかったつもりで民を哀れんでおきながら、結局は何も出来ずにいた、私です……っ。この無力こそが、私の罪……!」
「そう。……なら、世界を変えたいと君は望むの?」
予想だにしない問いに、アンシアは絶句した。
「え……?」
「この腐り果てた循環を断ち切り、君の理想を現実に変える覚悟はあるのかと、私は君に問うているんだ」
ヴェリアルの瞳の奥で、紫の炎がゆらめく。アンシアは、その深淵を覗き込みながら、自分の中で何かが弾ける音を聞いた。
「っ、変えたい……! 変えたいです。この国を、今度こそ豊かで、平和な国に……!」
「そう。なら、その縄は革命の邪魔だね」
パチン、とヴェリアルが指を鳴らす。
次の瞬間、アンシアの身体を縛っていた魔術の縄が、まるで幻影のように霧散した。
「名前は?」
「……アンシア。アンシア・フェルディナントです」
「よろしく、アンシア。私はヴェリアル。この世界を綺麗したい。そのためには、君の『正義』が必要だ」
「でも、私には……私は、魔術なんて……」
「いや、使えるはずだ。ね、そこの非魔術師?」
ヴェリアルの冷たい視線が、床に這いつくばる父王を射抜いた。
「あ、……ああ。ふ、封じたのだ。たしかに、その首のネックレス……魔術封じの魔具を付けた。生まれた時に、国中に雨が降ったのだ……。お前が泣くだけで、天を揺るがす雨が降る。高貴な王族から魔術師なんて化け物が生まれたなんぞ、我が国の恥だ。だからバレないように、帝国から魔術師を呼んで、魔力回路を閉ざして……」
父王の告白に、アンシアは目を見開いた。自分が愛されているから貰ったのだと思った、誕生の祝福のネックレスも、そして妹や継母に疎まれる原因も。
そのすべてが、この傲慢な男によって封印されていた真実によるものだったのだ。
「あーあ、また始まった。ヴェリアル様のシャーロット病だぁ」
背後で、ミルヒオールが小声で呟いたのを、ヴィクトリアは聞き逃さなかった。
「シャーロット病?」
「うん。だって似てるでしょ、あの王女様。顔っていうより、中身? ああいう、捨て身の正義感っていうのかなぁ……。ヴェリアル様、ああいう手合にだけは甘いっていうか、執着するよねぇ」
ヴィクトリアは無言でヴェリアルの背中を見つめた。かつて彼が、あるいは彼が――いや、自分達が失った「何か」を、この滅びゆく国の王女に見ているというのか。
ヴェリアルはアンシアの手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。そして、彼女の視線を、残された王族たちへと向けさせた。
「さあ、決断を。革命に、これは必要かな」
「アンシア、やめろ、殺さないでくれ! 父親だろう!?」
「ねえお姉様、恩を忘れたの? 私たちが遊んであげたじゃない!」
「 アンシア、そのような不誠実な王女に育てたつもりはありませんよ……!」
醜い罵倒と命乞いが、アンシアの耳を打つ。かつての家族。かつて追い求めていた絆。しかし、その正体は、自分を「恥」として封じ込め、民から血を吸い続けてきた寄生虫たち。
「考えてごらん。ここで彼らを生き残らせれば、彼らはまた同じことを繰り返す。野に放たれた害虫は、再び民を食い物にする。君が望む平和な世界に、これは必要なんだろうか」
ヴェリアルが、彼女の耳元で囁く。その声は、どこまでも優しく、どこまでも残酷だった。
アンシアの身体が小刻みに震える。
彼女の脳裏に、飢えて死んでいった子供たちの顔が、痩せ細った民たちの虚ろな瞳が、走馬灯のように駆け巡った。
「……さあ、手を」
ヴェリアルがアンシアの右手を包み込み、指先を王族たちへと向けさせる。
彼の冷たい魔力がアンシアの身体を貫き、封印されていた魔力回路を強引にこじ開けた。
ダイヤモンドによく似た魔石の埋め込まれたネックレスが、パリンと音が鳴って割れ落ちる。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
ヴェリアルの先導に合わせ、アンシアの唇が、無意識に祈りの言霊を紡ぐ。
次の瞬間、彼女の指先から、清浄でありながらすべてを無に帰す青白い雷火が放たれた。
「あ、あ……」
悲鳴を上げる間もなかった。
父王も、王妃も、自分を虐げてきた妹たちも。
フェルディナントの腐った象徴たちは、一瞬にして光の中に溶け、灰すら残さず消滅した。
静寂が訪れる。
燃え上がる炎だけが、夜の帳を照らしていた。
アンシアは、自分の手を見つめながら、その場に膝をついた。
ヴェリアルは、震える彼女の肩を抱き寄せ、そのアメジストの瞳に、初めて微かな人間らしい色を宿した。
「行こう、アンシア。綺麗な世界を作りに行くんだ」
崩れゆく王宮の中で、王女は死に、魔女が産声を上げた。
それは、凄惨な虐殺の終わりであり、血塗られた新時代の幕開けでもあった。




