シャーロット・ラヴィアンジュの独白
私は生まれた時からこの“地獄”と呼ばれる掃き溜めにいる。
この地区に正確な名前はない。
地下深く。人間たちに空を奪われた、常冬の大きな牢獄。
罪を犯したと呼ばれる者とその罪なき子孫たちが暮らす、永遠の箱庭だ。
政治犯から思想犯、あるいは飢えに耐えかねた単なる泥棒まで、ありとあらゆるこの世の“不道徳”を詰め込んだそこはかつての魔術師達に厳重に封印されている。
その結界は絶対であり、間違っても塵一つ、鼠1匹そこから逃げ出すことは出来なかった。
数百年の歴史を持つこの地獄─── 牢獄とはいえ人々が生きる以上、そこには独自の通貨が流通し、病を癒やす病院があり、祈りを捧げる教会も存在する。
ただ外の世界と決定的に違うのは、そこが犯罪者の国であること、そして地下深くに存在するがゆえに、太陽が存在しないこと、呪いのように雪がふること
そしてその太陽が無いということこそ、地上からここへ送られた人々にとって最大の苦痛であり、逃れられぬ罰だった。
無光症。
陽の光を浴びずに長く過ごすと、身体中に鋭い痛みが走る。やがて骨は脆く折れ、体は内側から腐り落ちるように弱り、死に至る病。この地獄において、死は常に頭上からではなく、足元の影から這い寄ってくるものだった。
「……お嬢ちゃん。悪いけど、もう家賃も3ヶ月は滞納してるんだよ。これ以上は、俺の首が回らなくなる。……今日中に、出ていってくれ」
大家の男は、申し訳なさそうに、けれど断固とした拒絶を込めてそう告げた。
古びたアパートの廊下には、湿ったカビの臭いと、冷たい静寂が満ちていた。私は何も言い返せなかった。ただ、ママが大事にしていた剥げかかったドアのノブを、最後にもう一度だけ見つめた。
ママが死んだのは、3ヶ月前。
彼女を連れ去ったのも、やはり無光症だった。
住んでいた家を追われ、行く宛てのなくなった私は、ただ寒さに背中を丸めて歩き回った。ずっとママに許可された人としか喋ったことがなかった私にとって、この「おうち」の外は、あまりにも巨大で、無慈悲で、未知に満ちた世界だった。
しばらく歩き、足の感覚がなくなってきた頃。
あまりの寂しさに耐えかねて、私は道端に横たわっている一人の男の隣に座り込んだ。
男は片目がなく、顔中に古傷があったが、その残された瞳は驚くほど穏やかだった。
「おじさん、ここで何してるの?」
「……何って、空を見てるのさ。見えねえ空をな、お嬢ちゃん」
おじさんは人が良く、ママが死んだことを話すと、土埃に汚れた手でそっと私の頭を撫でてくれた。そして、彼がかつて見たという「地上」の話を、まるでおとぎ話のように語ってくれた。
「地上はな、ここよりもずっと汚い人間がいっぱいいて、窮屈な決まり事に溢れていて、息苦しい場所だった。……それでも唯一、太陽だけはいつもそこにあった。平等に、暖かくな」
「太陽……暖かいの?」
「ああ。光り輝く丘には、見たこともないような鮮やかな草木が咲き乱れ、風に乗って緑の香りが鼻をくすぐる。あぁ……死ぬ前にもう一度だけでいい。あの、肌を焼くような暖かい陽の光を浴びてみたいもんだ」
おじさんは私と三日間、そうしてとりとめもない話をしたが、四日目の朝にはもう動かなかった。耐え難い痛みに狂い、自らの指で地面を掻きしむようにして、彼は息絶えた。
その頃には、私も「死」というものの身近さを理解し始めていた。
此処はそういう場所なのだ。永遠に暗く、骨まで凍るような常夜の国。
私は、裁縫の苦手だったママが一生懸命縫ってくれた、少し不揃いな網目の暖かい上着をぎゅっと抱きしめ、また一人で歩き始める。
そして、ぼうっとする頭で、ずっと抱いていた疑問を反芻した。
(ママは、一体何の罪を犯してここに来たのだろう?)
ママは綺麗で、誰よりも優しかった。
ママの立ち居振る舞いは寒くて汚いこのスラムの街並みにはあまりに不釣り合いで。
子供心に、ママは本当はどこか遠い国の「お姫様」なんじゃないかって、ずっと思っていた。
ママは私を、アンジュと呼んだ。
そして私の顔を見ては、よく切なそうに、けれど愛おしそうに涙を流していた。
私の顔は、会ったこともないパパに生き写しなのだという。
寒さにかじかむ指先を口元に寄せ、小さく呪文を紡ぐ。
それは、ママと私だけの秘密のおまじない。
「いい、天使ちゃん。これはね、誰の前でもやっちゃだめよ。絶対に」
ママのあの真剣な、どこか怯えるような瞳を思い出す。
理由なんて教えてくれなかったけれど、その約束を破ることは、ママとの細い絆を自ら断ち切るようで怖かった。
けれど、今は。
この底なしの闇と、骨まで凍てつかせる雪に押し潰されそうな今だけは、許してほしい。
「……ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
唇から零れた微かな声が、冷たい空気に溶けていく。
すると、あかぎれだらけの指先に、ぽうっ、と小さな光が灯った。
それは、焚き火のような激しさのある赤ではない。
教会の古いランプのような、柔らかく透き通った黄金色。
(……あったかい……)
その光は、単に肌を温めるだけのものではなかった。
目を閉じれば、今にもキッチンの向こうからママが顔を出し、大好きなパイの香りが漂ってくるような──そんな、守られていた頃の記憶を呼び覚ます、優しい光。
暗闇に浮かぶその小さな輝きを見つめている間だけはら私は孤独な孤児ではなく、ママの大切な天使ちゃんに戻ることができた。
ママは私を心から愛してくれた。
一日の殆どをずっと狭い部屋で一緒に過ごし、隣で優しくこのおまじないを教えてくれた。私が本を読んでいる間に、部屋中に甘い香りを漂わせてお菓子を焼いてくれた。
けれど時々、窓のない壁を見つめて苦しそうに泣くママに、私はどうしても声をかけることができなかった。
ママの死後、残されたわずかな財産は見知らぬ大人たちに根こそぎ持っていかれた。
私は文字通り、一文無しの宿無しになった。
秩序のないこの国の底辺は、スラムの孤児だ。
住処も親も持たず、身体が小さいためにろくな仕事も回ってこない子供たちは、ゴミの山でうずくまり、大抵は数日のうちにひっそりと冷たくなった。
(お腹が、減ったな……)
もう三日は何も食べていない。
胃の腑がねじれるような痛みは通り過ぎ、今はただ、ひたすら体が軽い。
そして……寒い。どうしてだろう。
今まで、あんなに寒さを遮ってくれていたママの上着が、今は紙きれ一枚のように頼りなく感じる。
ああ、そうか。
指先の「炎」が、消えてしまったのだ。
もう一度、あのおまじないを紡ごうと唇を動かす。
けれど、声が出ない。喉がひび割れたように乾き、指一本動かす力さえ残っていなかった。
――――――なんだか、凄く眠たい。
氷のように冷たい石畳が、今は羽毛のベッドのように心地よく感じられる。
少しだけ、お昼寝がしたいな。
重くなる瞼。遠ざかる意識。
雪が私の体に積もり、輪郭を白く塗りつぶしていく。
そんな私を強引に現実へと引き戻したのは、うっすらと開いた視界に映る、鮮烈な赤だった。




