教育係はスパルタのようです
ヴェリアルは、ほとんどの時間を屋敷で過ごさない。
革命の足音を響かせるための準備、莫大な資金調達、そして各地に潜む魔術師たちとの密談。彼は革命家として、外の世界を塗り替えるための準備をし続けている。
その主の不在を埋めるように、私の日常のすべてを支配しているのが、この不機嫌な教育係だった。
「……背筋が曲がっています。令嬢としての作法以前に、魔導師としての体幹がまるで成っていません」
「っ……」
パシッ、と乾いた音を立てて竹の棒が背を叩く。
窓がなく閉じきった部屋。午後の回廊での、重厚な古書を頭に乗せたまま、音を立てずに歩く訓練。私の体力は、すでに限界をとうに超えていた。
5番街の孤児、「アンジュ」だった頃も、一日中泥を啜って走り回っていた。
働き詰めには慣れていたはずだ。けれど、この高貴さを強要される「作法」の授業だけは、どうしても肌に合わなかった。
「なんですか、その優雅さとは程遠い歩き方は。ヴェリアル様の隣を歩く際、そんな野良猫が紛れ込んでいては、あまりに不釣り合いでみっともない」
はぁ、と嫌味ったらしく吐き出されたユーティオティアスの溜息。
それに火をつけられるように、私は折れそうな膝に力を込め、床に崩れかけようとした身体を無理やり引き起こした。
「……わかってるわ。真っ直ぐ背筋を伸ばし、肩の力を抜く。膝と膝を一瞬だけ擦り合わせ、見えない一本の線の上を歩くように……!ふんぬっ…………!」
必死の形相で一歩を踏み出す。
昨夜、消灯後にこっそり部屋を抜け出し、図書室の隅で『貴婦人の嗜み基本編』を読み耽った成果を見せる時だ。
知識の上では、私はもう一人前のレディ。理屈は頭に入っている。
あとは体が、この錆びついた手足が言うことを聞けばいいだけなのに。
「……君の数少ない長所は、その卑屈なまでの勉強熱心さですね」
ユーティオティアスは眼鏡の奥の瞳を冷たく細めた。
「ですが、一度読んで覚えることと、それを実践できるかは全くの別問題だ。身に染みているでしょう? ――出来るまで、やらせますよ」
それから数時間、私の意識が朦朧とするまで容赦のない反復練習が続いた。一歩進んでは棒で打たれ、背筋を伸ばせば罵倒が飛ぶ。
結局、最後には足がもつれ、私は頭の上の古書と一緒に、冷たい石床の上へ無様に転がった。
「やれやれ。これだからスラムの野良猫は救えない」
呆れたような声。けれど、遠ざかるはずの足音は私のすぐ隣で止まった。
カチャリ、と繊細な陶器が触れ合う音が響き、使い古された書物の匂いを塗り替えるように、甘く芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「……これ、何?」
投げ出した足の先に、銀のトレイが置かれていた。
「魔術人形新作のタルトです。……糖分が足りなくなると、君のただでさえ容量の少ない脳みそが完全に機能を停止しますからね。さっさと食べなさい」
顔を上げると、そこには琥珀色に輝く煮詰められた林檎のタルトが鎮座していた。
魔石灯の光を反射するその表面は、まるで宝石の詰め合わせのように美しい。
背後では、ギリギリとブリキが音を立てて、透き通った琥珀色の紅茶を注いでくれている。この屋敷に来て初めて見た魔術人形は、実に見事なものだった。
ただの鉄製の人形に魔力を少し込めるだけで、洗濯、掃除から一流の料理まで完璧にこなしてくれる。それは、私の母――ママが地上にいた時の発明品なのだという。
「……ユーティオティアスは本当は優しいのよね」
フォークを手に取りながら、ぼそりと呟く。
「勘違いしないでいただきたい。君に倒れられては、ヴェリアル様に顔向けができないだけです。……ほら、じっとして。口の端にソースがついています。全く、どこまでもみすぼらしい」
毒づきながらも、彼は懐から取り出した真っ白なハンカチで、私の頬を拭った。
乱暴な仕草だったが、決して痛みはない。
その指先は、いつも不機嫌な言葉を紡ぐ唇とは対照的に、驚くほど温かかった。
「ねえ、ティティも食べたら?これ、凄く美味しいわ」
フォークで切り分けた一欠片を差し出すと、彼は目に見えて不快そうに顔を背けた。
「私は甘いものは好みません。……あと、私の名前を勝手に省略して呼ぶのはやめてください。不愉快です」
「やだ。長すぎるもの。……ユーティオティアス……ティティ……うん、ティティが1番呼びやすいわ」
「……先生と呼びなさいと言っているでしょう」
彼が眉間の皺を深く刻むたび、私は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
厳格な教育係の仮面の裏側を少しだけ剥がしたような――そんな悪戯めいた優越感が、午後の疲れをわずかに癒してくれた。
「ねえ、ティティ。ベリアルはいつも何をしているの?」
タルトを咀嚼しながら、私は素朴な疑問を投げかけた
「ヴェリアル様とお呼びなさい。ハァ……あの方は、我々が『太陽』の下を歩けるように、尽力されているのです。本来は何もしないでも許される高貴な方なのに…」
「あの日からもう1ヶ月は見てないわ。……ちゃんと帰ってきてはいるのよね……?」
「私も殆ど顔を合わせていません。少しはお休みになっていただきたいのですが、あの方は今、何を言っても聞かないでしょう」
ユーティオティアスは、窓の外の遠い空を見つめた。
私は、自分がここに拾われた理由を思い出す。キキを助けるために、私はヴェリアルの手駒になることを選んだ。
「今の私に、助けられることはないかしら。この退屈なマナーの授業以外で」
「我が主のために、ありがとうございます。君のそういうお人好しなところは……本当、先生によく似ている」
「パパ……どんな人だった?」
私の父。ユーティオティアスが「先生」と呼ぶ人物。
「……この『上』の世界では、魔術師は存在すら罪です。そんな僕が、初めて誰かから愛をもらった……それが先生でした」
ユーティオティアスは、陽だまりのような日々を回想するように語り始めた。
彼は侯爵家の長男として生まれたが、その身に魔力を宿していた。本来なら、その瞬間に首を絞めて殺されるのが貴族の不文律だ。しかし少し前に生まれた王子が魔術師だったという「奇跡」により、例外的に見逃されたのだという。
けれど、それは救いなどではなかった。
彼はヴェリアルの侍従となるためだけに、日の当たらない暗い座敷牢の中で、ただの「道具」として生かされた。
そんな絶望の底にいた彼を、ヴェリアルの師として登城していた私の父が救い出した。
「……やあユーティオティアス。ここは魔術を学ぶには少しばかり不向きだ。もっと、心躍るような場所で始めようじゃないか」
差し伸べられたパパの手は、牢獄の冷たい空気とは似つかわしくないほど温かかったという。
父が彼に教えたのは、呪いのような義務としての技術ではない。
それは世界の色を鮮やかに変える「楽しい、魔術の時間」だった、という。
指先から生まれる小さな光、宙を舞う花びら、冬の寒さを溶かす優しい温もり。
無機質な道具として扱われてきた少年にとって、師と共に過ごすその時間は、初めて自分が自分らしく息をすることを許された瞬間だったのだ。
「……パパに、会ってみたかったな」
私は、膝の上のタルトの欠片を見つめながら、小さく呟いた。
スラムで泥を啜っていた頃の私には、そんな温かな魔法の記憶すらない。けれど、目の前の不機嫌な教育係が語るパパの姿は、私の空っぽな記憶の隙間を埋めてくれるようだった。
「先生は、子供にはとことん甘かったですからね。……君にどんなに会いたかったことか」
ユーティオティアスは、珍しく静かなトーンで語った。
眼鏡の奥の瞳が、今はもういない恩師の背中を追うように、遠くの虚空を彷徨っている。
いつも眉間に刻まれていた険しい皺が、記憶の中の陽光に照らされたかのように、一瞬だけ、ふわりと和らいで見えた。




