エピローグ:主(あるじ)なき椅子
#奈良井宿の灯火 | 永遠に埃を被り続ける、小さな椅子。
長野県の国道沿いで、雪が江戸の最期の足跡を消し去ってから、一週間が過ぎた。
奈良井宿にあるあの木工店は、今や入り口に真新しい板が打ち付けられ、固く閉ざされている。江戸が毎朝磨いていた窓ガラスには、「売物件」の貼り紙が寂しく揺れていた。暗闇が店内に忍び込み、薄れゆく檜の香りを飲み込んでいく。
街角の、江戸の最後のおもちゃが蹴り飛ばされた側溝の近く。一人の清掃員が、泥水にまみれてひび割れた木片を拾い上げた。
「なんだこれ? また木屑か?」清掃員は忌々しそうに呟くと、それを生ゴミや汚れたプラスチックと一緒にゴミ収集車の中へ放り込んだ。彼は知らない。その木片のひび割れの中に、一人の老人が捧げた数千時間もの祈りと、砕け散った希望が詰まっていることを。
一方、東京の高級マンションでは、江戸の息子・真司がコーヒーを啜りながらスマートフォンを眺めていた。長野県警から届いた、父の死を知らせる短いメッセージ。
真司はしばし沈黙し、窓の外を虚ろに見つめた。
「どうしたの、あなた?」妻がキッチンから声をかける。
「親父が……死んだそうだ」真司は淡々と答えた。胸の奥に微かな締め付けを感じたが、彼はすぐにそれを振り払った。「今週末、向こうへ行かないとな。葬式を盛大にするためじゃない。残った土地の売却手続きのためだ。あの子の夏期講習の費用が必要だからな」
彼らの息子――江戸が待ち続けたあの孫が、ヘッドフォンを耳に密着させたまま真司の前を通り過ぎた。父親が「おじいちゃん」という言葉を口にしても、彼は振り向きもしない。彼にとって「祖父」とは、顔も知らないただの名詞に過ぎない。手元の最新ゲームよりも価値のない、抽象的な概念でしかなかった。
再び、奈良井宿。冬の風が激しく吹き抜け、朽ち始めた店の看板をガタガタと揺らす。施錠された暗い店内の隅には、あの小さな椅子がまだそこにあった。
椅子は今、埃に覆われ始めている。もう、あの無骨な手で、絹の布を使って磨かれることはない。リズムの良い鉋の音も、もう二度と響かない。そこにあるのは、ただ凍りつくような静寂だけだ。
あの椅子は、これからも空席のままだ。永遠に。
そして、最終処分場のゴミの山の下で。壊れた木製の自動車は、ゆっくりと土に埋もれていく――このあまりにも冷たい世界には大きすぎた、一人の老人の愛という秘密を抱えたまま。
―― 完 ――
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
奈良井宿の静かな景色の中で、誰にも知られずに消えていった江戸さんの物語はいかがでしたでしょうか。
時代が移り変わり、便利な物で溢れる影で、守られるべき温もりや、報われない愛がどこかに取り残されているような気がして、この物語を書きました。
側溝に消えたあのおもちゃのように、誰かにとっては「ガラクタ」でも、誰かにとっては「一生のすべて」である。そんな切なさが皆様の心に少しでも届いたのなら幸いです。
江戸さんの魂が、今は雪のない温かな場所で、心ゆくまで木を削っていられることを願って。
また別の物語でお会いしましょう。
本当に、ありがとうございました。




