プロローグ:届かぬ木の残響
【作品の閲覧に関する切実なご案内】
本作は、都合の良い奇跡や魔法が存在しない、老いた職人の「無償の愛」と「容赦のない現実」を描いた物語です。
時代に取り残された木曽の宿場町で、届かぬ約束のために独り木を削り続ける老人・江戸 。
彼の震える指先が刻むのは、あまりにも純粋で、それゆえに世界から「無価値」と切り捨てられる悲しい切なさに満ちています。
もしあなたが、傷つかない温かいおとぎ話や、都合の良いハッピーエンドだけを求めているのなら、このページを閉じることをお勧めします。
しかし、もしあなたが、一筋の木屑に込められた「誰かを想う」という魂の重さと、雪に消えゆく命の灯火を見届けてくださるのなら、どうかこのまま、エドの小さな工房の扉を開けてください。
#奈良井宿の灯火 #無駄な彫刻の物語 #江戸さんと共に泣こう
奈良井宿では、歳月を経て黒ずんだ板壁の間で、時が止まっているかのように見える。しかし、この一キロメートルに及ぶ街道のすぐ外側では、世界はあまりにも速く動き、檜の香りが入り込む余地などほとんど残されていなかった。
江戸が操る鉋の音が、リズムよく響いている。彼の手元では、木曽檜の欠片が小さな鳥の形を成し始めていた。霞み始めた彼の瞳は、部屋の隅にある小さな椅子を見つめている。そこだけは、いつも埃一つなく磨き上げられていた。
「もう少しだ……」
スマートフォンを握りしめて通り過ぎる観光客の喧騒に、彼の枯れた声はかき消される。「明日あの子が来たら、この鳥を羽ばたかせてやらなきゃいかんからな」
レジの引き出しに積み重なった赤色の督促状など、江戸の目には入っていない。昨日から安物のパン一つしか口にしていない腹の空き具合も、彼にはどうでもよかった。彼にとって、木を削る一削り一削りは、いつか孫が彼の袖を引いてこう言ってくれる日のために貸し付けている「鼓動」なのだ。
『おじいちゃん、これ、すごく綺麗だね』
彼は知らない。遠く離れた大都会で、寝る前の読み聞かせの中にさえ、自分の名前が一度も登場しないことを。震える指先で彫り上げたその愛が、家族にとっては捨て去りたい「重荷」でしかないことを。
その夜、長野県には雪が降り始めた。
雪は奈良井宿の古い屋根を白く染め上げ、自らの破滅を彫り続ける老人の孤独を、静かに覆い隠していった。




