手っ取り早く
藍と電話で語り合った次の日の朝。
学校に登校した僕は真っ先にやっておくべきことがあると思った。
「ごめん」
「……え」
朝の七時半。一体いつからそうしているのか、彫像のように自分の席に腰を下ろして、『こころ』を読み耽っている日和夕に近づいていき、何の問答をすることもなく、僕は頭を下げた。
「僕が悪かったよ」
「……」
頭を垂れる僕の姿をまじまじと彼は見つめ、それからややあって言葉を紡ぐ。
「……てっきりもう僕は本当に嫌われてしまったものだと思ったんだけど……」
「残念だったな。僕は気分屋なんだよ。嫌いと口にした次の日にはお前を好きだと言ってみせる」
「……あはは。まるで主人公みたいな台詞だね」
渇いた笑いを表情に滲ませた日和は、次の瞬間にはすっと目を細めて僕を射抜いた。
「それで、謝ったくらいで僕が全部、許すって本当にそう思ったんだ?」
「……さあな。僕はお前のことはよく知らないからな。昨日ぶち切れはしたけど、あれは単にストレスが過剰に蓄積したからっていう影響が大きい。本当にお前のことを知って、嫌いになったわけでもない。許すか許さないかなんて、そんな心の器の問題、僕は知らんよ」
「じゃあ、なんでそんな風に頭を下げてくるわけ?」
「――許してもらうために頭を下げるわけじゃないからだ」
「……どういう意味?」
不快そうに眉をひそめた日和が座った姿勢から背丈の大きい僕を見上げて、胡乱な声を上げる。
僕はその目を真っ向から見返した。
つぶらな瞳に、映っているのはたぶん、幽鬼のような無機質な瞳だろうな。そう思う。
真剣に語ろうとすればするほど、僕の表情からは感情が抜け落ちていく。
「間違ったことをしたと思ったらきちんと謝る。それが他者に対しての誠実さであり、自分自身に対しての誠実さでもある。あれぐらいのことでお前を責めて、僕は自分が悪いと思っているけれど、それでも、謝るのはお前のためだけというわけじゃない。自分の意思を貫こうと思ってそうしているだけだ」
「僕が許さないって言ったら?」
「……許してもらうようできるだけがんばるさ。できるだけな。でも、ある一定の域を超えたら、それはもう知らん。僕にできることをすべてやって、それでもお前が僕を許せない。それでもむかつくっていうのなら、そこから先はお前自身の心の問題だ。僕の知ったこっちゃないね。好きなだけ恨めばいい」
「……ふぅん」
小さく息を漏らした日和は、眼前の文庫本に一度目を落とし、それから顔を上げる。
「『もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。』」
「……なんだって?」
「友達の想い人を娶ってしまった『先生』がその友達である『K』の自殺を目の当たりにしたときの想いを描写した言葉だよ」
「……小説の話か?」
「そう。『こころ』」
文庫本の表紙を僕の目に映るように掲げてみせた日和が、小さく笑って言う。
「君が僕に投げかけた言葉はそれなりにひどいものだったと思うし、僕が君にやったこともそれなりにひどいことだったのかもしれない。けれど、そんな日常の諍いはこのときの『先生』の気持ちに比べればひどく小さなものでしかなくて。時間が経てば、たぶん、そんなに許せないものでもないんだと思う」
まるで独り言を言うかのように俯いて言った彼は、今度は顔を上向けて、僕の目を覗き込むようにした。
「でも、今の僕の心はとても複雑だ。また君と関われるのならうれしいという想いと、あんな風に平然とひどい言葉を言い連ねる君とこれ以上関わってもいいものかというためらいの想いの間で揺れて、どちらにするか決めかねてる」
「……」
まあ、人間そんなものだろうな。
感情と理屈は別個で、他人事なら許せると思ったことでも、自分のことになるとてんで上手く心が制御できなかったりするし。
正しいと思ったことに、心の底から殉じられる人間がどれほどいることか。
「でもね。だからこそ、僕はいいよ、って君に笑って言うことにした」
にこりと笑って、日和夕はそう言った。
僕は少しだけ眉根を上げ、彼の顔を見つめる。
「黒い光が全生涯を照らした、そんな心持を味わったことはないし、これからもきっとそんな風に感じることはないと思うんだけど、それでも、僕は思うんだ。許せないことなんてないって」
「……」
「『先生』はこんな風に、『K』が死んだことで、ずっと、彼のことを重荷に想って生涯を生きていかなければいけないと感じてしまったんだけど。そうして死ぬ前にそのことを手紙に記して、『私』に知らせたりしたんだけど。でも、別にそんなことはないんだよね。『K』のことを重荷に想わなければならない理由も、その気持ちをずっと心に抱いて生涯を生きなければいけなかった理由もない。ただ、彼がそうしたかっただけだ」
日和夕は滔々と語る。
昨日の質問攻めのときのように流暢な口調ではあったが、けれど、その瞳はきちんと僕を見据えている。
なんとなく、そんな気がした。
「親友が死んだのは自分のせいだって想いたくて、そのまま自分が何の衒いもなく幸せになるのが恐ろしくって、だから、ずっとその黒い光を抱え込むことにした」
「……それで?」
「うん。――でもさ。死んだのは『K』の意思なんだ。そこに『先生』は関係ない。理由の一つではあるかもしれない。原因の一つでもあるかもしれない。けれど、受け止めきれない事実を受け止めきれず、自殺することを選んでしまったのは『K』自身の想いで、そこに責任を抱くべきだったのは彼自身なんだよ。断じて『先生』じゃない。だから、まるで『先生』に責任を負わせるように死んでいく『K』の姿はまるで共感できないものだ」
「……なるほどな」
僕はまだ、『こころ』という作品を読んだことはない。
教科書に載っているが、まだそこまでカリキュラムは進んでいないし、個人的にもその話の概略は知らない。
けれど、日和が語ったその解釈は、僕にとっては納得がいくものではあった。
そして同時に疑問に思う。
なぜそんな解釈の話を今、持ち出したのか。
「……小説を読んでいると、無性に腹が立つことがある」
「……腹が立つ?」
「うん。なんで、この主人公はこんなことで悩むんだ。なんでこんなことで傷つくんだ。そんな小さなこと、割り切ればいいだけじゃないかって」
「まあ、わからないでもないな」
「でも、自分の人生に適用してみたとき、本当、全然、上手くいかないなあって」
「……」
「……僕が物語の一部なら、君に興味を持つ小説家志望の文芸部員というキャラ設定なら、きっと、君のことは笑って許してしまえるんだろうな、って思うけど、現実は違っていて。妙にざわざわとした心が残ってる」
胸に手を当てた日和は呆れたように微笑みを浮かべた。
「観察と思考なんて、格好のいいことを言ったけど、本当、自分の心さえ、観察できないものなんだよねえ」
「……当たり前だろ、そんなの。自分で感じる自分の心をどうやって観察しようっていうんだ」
そんなの、鏡が鏡自身を自分に映そうとするようなものだ。
すべてを映し出すことは、少なくとも、普通の人間には不可能。
「それでも、その端切れくらいは掴みたいからさ。物語の主人公みたいでもないけれど、理想の出来事の中みたいに、君を許したいと思った。いろいろ語っちゃったけれど、僕の言葉の意味はそんなところかな」
「……ふぅん」
なんだか、論点が曖昧だったり、ごちゃごちゃと理屈をこねたりされたけど、要するに、許してくれるということか。
「じゃあ、それはそれとして」
「……ん?」
こいつが僕を許してくれるという事実は、一旦脇に置くとして。
「お前は僕に謝ったりはしないわけ?」
「……ああ」
疑問が納得に変わり、日和は小さく息をついた。
「……いろいろ失礼なこと言っちゃって、本当ごめんなさい」
「……うん」
椅子ごと身体を横向けて、膝に手をつき、丁寧に頭を下げた日和は十秒ほどもそうしてから、顔を上げた。
「これでおあいこ」
「……だね」
それから日和はいたずらっぽい顔で微笑み、僕の顔色を窺うように、目だけを動かした。
つぶやくように、小さな声音で言葉を紡ぐ。
「……おあいこついでに、今度こそ、友達になってくれる?」
「……ふむ」
不安そうな眼差しは、さながら親に怒られるのを怖がる幼子といった風情か。
高校一年生後半にも差し掛かって、この男はどうにも子どもっぽいんだよな。
だから、まあ、子どもっぽい僕に割合、似合った友達とも言えるのかもしれない。
「……ま、いいよ」
「……ありがとう」
お礼を言って、控えめにこちらに手を差し出す日和夕。
純朴だった七年前には自ずから振り払われたこの手。
ひねくれた二年前には取れなかったこの手。
拠り所だけを求めていた昨日には受け入れられなかったこの手。
たしかに、思ったほどきれいな形をしていない。
指先は短く、爪が少し長く、何かの拍子についたような傷の跡がいくらか残っている。
藍や百日や栗原のように、何の抵抗もなく受け入れられるほど、滑らかできれいな手と言えない。
けれど、それでも、この手を取ることにした。
理屈ではないのだ。
人生には取り返しがつかないとは言うが、あにはからんや。
それでも、取る手はいくらでも残っている。
(´・ω・`)←前話でドヤ顔でかっこよさげな英語のタイトル使って、『○○……』みたいな意味深な雰囲気を醸し出してたのに、まさかの『match→macth』っていう単純なスペルミスしてた人の顔(もう直しました)