訪問
「涼ほんとに料理しないんだね」
「え?」
「……猫の手は基本だよ」
「……ああ」
左手で適当に野菜を抑えて切っていたら、フライパンに油を引いた藍がそれを見とがめる。
ぴとっと身を寄せて僕の隣から手を伸ばすようにしてお手本を見せてくれる。
「指を切らないように、力を入れてこうだよ」
「……こう?」
「……こう!」
ストンと包丁がまな板に当たる小気味のいい音がする。
身を乗り出した藍の頭頂部が眼下に見えて、存在感を主張しない控えめで落ち着いた香りがした。
胸なんか腕にくっついてきたりして、にやけそうになってしまう。
こうしてイチャイチャしながら料理をするのも悪くない。
藍が何かアドバイスらしきことを言っている声も半分聞き流してそんなことを思っていると、
「ちゃんと聞いてる? 涼」
くるっと首を半分だけ振り返るようにした藍がじとっとした目線を向けてくる。
「……聞いてる聞いてる」
「それは聞いてないときの返事だよ」
「大丈夫。今回はその例外だから」
「……じゃあ、わたしが今なんて言ったか、正確に答えて」
「それは聞いてないときの返事だよ」
答えると、藍が意表を突かれた顔をした。
「……そっちじゃなくて……」
「……そっちじゃなくて……」
「それはもういいから」
「それはもういいから」
出された指示に従って忠実に命令を遂行する。
彼女の言った言葉を正確にトレースする。
だんだん眉間にしわを寄せてきた彼女が少しトーンの低い声を出した。
「…………涼、ほんとに怒るよ?」
体ごとこちらに向けた藍がむくれた顔をしている。
さすがにこれ以上言ったらほんとうに怒らせてしまいそうだ。
「涼、ほんとに怒るよ?」
でも、言っちゃう。
「………………」
あ、表情がとても渋いものに。
そして、無言で僕を睨むと、向き直って淡々と野菜を切る作業に向かい始めた。
「あ、あのー、藍?」
「……」
「藍さーん?」
「……」
「なでなで」
「……っ」
おー、頭を撫でても、一瞬びくっとするだけで許してはくれないのか。
今までにないパターンだ。
どうやら、ほんとうに悪ふざけが過ぎたらしい。
「ごめん。ちょっとふざけすぎた」
「……」
「僕が全面的に悪いです。ごめんなさい」
「…………もう」
頭を入念になでなでしながら言うと、しょうがないなぁ、とでも言いたげな態度で彼女が吐息を漏らした。
少し身構えたところではあったけれど、そんな風に呆れてくれると、逆に安心する。
「……普通にしててノリがかみ合わないことってあるとは思うけど、涼はわたしを怒らせることを楽しんでる節があるから、より悪質なんだよ」
「ごめんって。もうしない。もうしないから、おみやげにかわいい顔で叱ってくれると悦びます」
「……おみやげって……、……ほんとうに反省してるの?」
「してるしてる」
「それはしてないときの返事だよ」
「以下無限ループ」
「……はあ……」
ついていけないというように藍が息を吐く。
「……めっ! だよ、涼」
びしっと指を突きつけて、僕を叱ってくれる藍。
ちゃんとおみやげをくれたらしい。
「これだから、藍は最高なんだよ」
「……おだてても、いつも優しくしてあげられるわけじゃないからね」
「でも、優しくしてくれようっていう意思はあるんだ」
「そ、それは……、だって、涼が幸せそうな方がわたしも嬉しいし」
「ありがと」
「……そういうときだけまじめな顔でまじめなこと言わないでよ……。涼は卑怯なんだから……」
などとぶつぶつ言ったり、ふざけたりしながら一緒に焼きそばを作った。
香ばしい匂いを発散しつつ、小麦色に焼けたフライパンの上の焼きそば。
食器を用意し、二人分よそった。
リビングのテーブルに向き合ってつき、そろって手を合わせたところで。
ぴんぽーん。
インターホンが鳴った。
「こんなお昼時に……」
今まさしくご飯を食べようとしたところを遮られたからか、それとも二人きりの時間を邪魔されたからか、若干不機嫌そうな声音で藍がそうぼやき、玄関の方へ向かう。
開け放されたリビングの扉から玄関の戸が開く音が聞こえ、それと同時に「こんにちはー! お邪魔虫でーす」という非常に嫌な声が聞こえた。
それからその甲高い声に答える藍のひどく困惑したような声音も。
やがてリビングに戻ってきた彼女の後ろにはなびく金髪に蒼い目。
「ひやかしに来たよー」
眉をひそめて見つめる僕に、笑みを堪え切れないといった様子の百日は飄々とした声でそう言った。
※
※
※
「……で?」
数分後。
なんだかんだ、結局、百日を家の中にあげてしまった藍が、彼女にお茶の一つも出しているのを横目に、僕は非常に不機嫌な態度を隠そうともせずに彼女に問う。
「僕と藍の二人きりの時間を邪魔しにお前は何をしに来たんだって?」
「だからー、ひやかしに来たんだって」
僕の隣で肩をすくめる百日はとてもとても腹立つ顔で馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
……一瞬、思わず、手を出しそうになってしまった。
「まあまあ、そんなに怒らないでよう。藍ちゃんと相田が寸暇を惜しんで突っつき合う時間をそう長く奪ったりしないって。せいぜい一時間ぐらいで帰るから」
「……まあまあ居座るつもりな気がするんだが」
「そう? 逆にボクみたいなめんどくさい奴をたったの一時間で追い払えるんだから、御の字じゃない?」
「……そういうことを自分で言うなよ……」
「わあ。慰めてくれるんだー、うーれしー」
オーバーリアクションで顔を輝かせてみせる彼女に、薄い息を吐く。
「お前の相手をするだけでひどく疲れる気がするよ」
「……それは君の相手をする藍ちゃんにも言えることだと思うけどね」
お邪魔虫にして呆れたような顔で言う百日に、僕は素知らぬ顔で首を傾げる。
何のことだかまったくわからないな。
「ももちゃんは何か用事でこの辺りに?」
苦笑しつつも、彼女の存在を受け入れる雰囲気で藍が問う。
藍の家の周辺、つまりは僕らが通う学校周辺であるところのこの町は、高校生にとっての遊び場など何一つとしてなく、取り立てて意味もなくやってくるとは思えない。
徒歩三十分近く離れたマンションに住む百日にもその理屈は適用できるだろう。
自身も言っていたように、わざわざ僕と藍の逢瀬をひやかしにだけ来るとも思えないし。
「ん? んー、まあ、なんというか、気晴らし? というか……、巡回、というか……、ちょっとばっかし思うところあってのお散歩ってところだよ」
「……よくわからない言い方だな」
「わかりやすく言えば、やっぱり暇つぶしかな」
「暇つぶしかよ」
大した意味なんてなかったらしい。
この女に理屈を当てはめようとしても無駄ということか。
「それで、二人は仲良くお料理して、仲良くお昼ご飯ってところ、だよね?」
皿に盛りつけられた焼きそばと僕らを見比べるようにして、百日が言う。
「なんで一緒に作ったってわかるんだ?」
「ん」
吐息のような声を漏らして百日が僕の頭上を指さす。
手を額にやれば、薄い布地の感触。そう言えばまだバンダナをつけていたんだったと思い出した。
これを見れば、何をしていたかは一目瞭然か。
「藍ちゃんもいるのに、相田一人で料理するとも思えないしね。当然の帰結だよ」
「まあ、そうか」
「それよりボクのことは気にしないでいいから、早く食べなよ。せっかく二人で一緒に作ったんでしょ? 冷めないうちに味わって食べれば?」
「……まさにそのすぐに食べようとしたところで、お前がやってきたんだけどな」
「そいつは失礼」
どうぞどうぞ、と大げさな仕草で手の平を差し出す百日。
それに藍と二人で肩をすくめながら、手を合わせ、箸を手にした。
ぽつぽつと三人で話をしながら、粗方麺類を胃袋の中に収めてしまった頃合い。
話題の途切れた空白の隙間に、百日が今思い出したと言わんばかりの態度で口を開いた。
「そういえばさ。今度の火曜の話、どうする?」
「火曜?」
知ってて当然とでも言いたげなその言い方に僕は首を傾げ、正面にいる藍がなぜか息を呑むように表情を強張らせたのがわかった。
「火曜って、確か創立記念日で休みとかじゃなかったか?」
十月十七日火曜日は僕らの通う学校の創立記念日。
創立とか記念とかどうでもよく、週の途中に休みの日が存在しているだけでありがたみを感じるその日。
特筆して言及する要素はあるとはいえ、百日の口ぶりでは、必ずしも創立記念日そのものを指して言っているわけではないように感じる。
「あれ? 相田はまだ聞いてなかったんだ。その日は初めての文化祭ってことでクラスで団結するためにクラス会を開くっていう話だけど……」
「クラス会?」
なんだそれは。
そんな話、全然聞いた覚えがなかったんだが。
藍からも栗原からも、他のクラスメイトからも、全然。
クラスメイトはともかく、今やけっこうクラス内で中心的なところにいる藍や、その手のことに関して十分すぎるほどに気の遣える栗原が、僕に何も言わないというのは考えにくいような気がした。
「藍は聞いてた? クラス会の話」
怪訝な顔をしている百日から藍に目をやると、僕とまともに目が合った彼女はどこか気まずそうに目線を落とした。
「うん。知ってた、よ……」
「なんで僕に言わなかったの?」
「そ、その……、涼はそういう集まり苦手かなあ、って思って、どうせ行かないんだろうなあ、って……」
「ふむ……」
確かに藍の言うところは真実だ。
クラス会なんていう面倒な集まりがあったところで、藍がいるにしろ、栗原や百日が参加するにしろ、僕は基本的には参加したいとは思わない。
藍ならそれくらいわかるだろうし、その気持ちを汲んで僕に話を持ってこなかったとすれば、別におかしなところは何もない。
ただ一点、奇妙な点があるとすれば、誠実さを旨とするはずの彼女が、本当に参加しないかどうかも定かでないのにも関わらず、僕の意思を無視しているところだ。
苛立つことも腹を立てることもないが、なんでだろうという疑問は湧く。
「僕が参加しないであろうことを先読みして、だから、意思を確認する必要もないだろうって?」
「……わたしの勝手な判断、だったかな?」
不安げな瞳で見据える藍に即座に首を振る。
「それくらいは別にいいけど……、今度からは一応、教えておいてくれると助かる」
「うん。わかった。ごめんね、勝手なことしちゃって」
トーンを変えるでもなく、素のままで答える僕に安心したのか、ほっと一息をついて、藍が頭を下げる。
そんな彼女を訝し気な目で見つめるのは隣の金髪ハーフ。
「……ふーん?」
唇の片端を歪める人を馬鹿にしたような表情で、ただの相槌にも聞こえないような声を漏らす。
「……何かあるのか?」
「え、何が?」
「何か言いたそうな感じだったから」
「べーつにー。ボクに言えることなんて何もないしー? 藍ちゃんと相田がどんな重要な話について、どんなやり取りをしていたところで、友達であるボクには何の関係もないしー? それは二人の問題だからー。ボクは見ているだけしかできないしー」
やけに語尾を伸ばすことで、彼女は何らかの不満を主張しているようにも見える。
当然、事情を一つも知らない僕に主張するわけもなく、この場でそんな態度を見せる相手がいるのだとすれば、それは一人しかいない。
顔を引きつらせた藍が額に冷や汗を浮かべていた。
「除け者にされるなんていつものことだし? 藍ちゃんが何かよからぬことを企んでいるのだとしても? ボクに何も相談なんてしてくれなかったとしても? 別にすねてなんかないし―」
「も、ももちゃん……」
顔を他所へ逸らすようにしながら、横目で藍を窺う素振りを見せる百日に、藍が戸惑うような声を出す。
拗ねる百日に、焦る藍。
沈黙の下に、片方は突っぱね、片方は乞うように視線を送る。
藍が若干泣きそうになりかけたところで、百日はやれやれと首を振った。
「ま、でも、ボクに相談しないっていうのは、非常に賢い選択だと思うし? 下手に状況をかき回されたくないっていう藍ちゃんの気持ちもわかるけれど」
「そ、そんなことないよ。ももちゃんは……」
「言い訳無用。るりには話してるんでしょ、まったく」
「ご、ごめん……」
「いいよ。ボクはボクで何があっても好きにやらせてもらうから」
暗黙の下に、何らかの共通認識を持って会話をする二人に、僕は理解が及ばない。
困惑しながら、振り子のように交互に彼女らに視線を送るしかない。
「一体、何の話をしてるんだ?」
「んー?」
わからない僕がおかしいのか、にやけたむかつく笑顔を浮かべる百日。
テーブルの向かいで藍が縋るような視線を彼女に送っていた。
「相田は知らなくてもいいことだよ、たぶん。ボクも推測するだけだけれど。状況的におそらくそうだ。だからきっと、君は何もせずに藍ちゃんのやることを受け入れていればいい、んじゃないかな?」
「なんだよそれは」
「……ま、それ以上は恋人同士でどうぞってことで」
椅子を押して立ち上がった百日はひらひらと手を振る。
「なかなか面白そうな話もわかったことだし、ボクは帰るとするよ」
「散々かき回しておいて、ここで帰るのかよ」
「もちろん。からかえるだけのものはからかったからね。これ以上居座っていても、余計な役割を背負わされるだけだし。立つ鳥、跡を濁さずってね」
思い切り濁していると思うのだが。
「……自由な奴だな」
僕の独り言めいたつぶやきに、鋭く彼女は反応する。
「そうともさ。白い目で見られるという対価を受け入れることで、ボクは自由に振舞うという権利を得ているんだよ」
力強く言い切った彼女は玄関に向かおうとし、リビングを出かかったところで、首をぐりんと傾けて僕を見る。人間では無理そうな角度で首が回っている。
鬼気迫るような彼女の様子に、僕は思わずたじろいだ。
「ど、どうした?」
「……」
無言でこちらに戻ってくる百日の顔には感情の欠片も浮かんでおらず、寸前までの様子は別人のように思える。
そのまま腰をかがめて、彼女は僕の耳元に唇を寄せた。彼女の艶やかな金髪が耳にかかってくすぐったく、吸うと気持ちが浮つくような柑橘系の匂いが香る。
「……ないとは思うけど、一応忠告」
「……?」
「たとえぼろぼろに傷つくとしても、時には見守るのも男の甲斐性だと思うよ」
「え?」
「……」
言いたいことは言ったとばかりに顔を離した彼女は、依然として無表情のまま、体を起こす。
そして、次の瞬間には、あははっ、といつものように笑み崩れた。
「まあ、取返しがつくのなら、時に傷を負うのも青春って奴なのさ」
「……意味がわからん」
「もし本当にそのときが来てもわからないのなら、君はボクや藍ちゃんとは別の世界を生きている。それこそ世界のルールが違うんだろうね」
「はあ?」
ますます混迷を極めるようなことを言って、百日は颯爽とリビングを出て行く。
あっけにとられた僕も、そして、さきほどから黙って考え込むように唇に手を当てていた藍も、見送ることさえできなかった。
「……相変わらずだな、あいつは」
「……そうだね」
呆然としたつぶやきに藍が応じる。
こぼれ落ちる何かを必死に掴もうとするように、彼女は強く胸元を握りしめていた。