(二十四)
(二十四)
さっとこちらに向けられた剣を、ヴィンセントが鋼で止める。その隙に、あたしはコーネリアスのベルトから、固く結わい付けた小さな袋を切り取った。
男は翡翠の瞳を揺らがせて、息を飲む。
祈るような賭けだった。それに勝った事を知る。端に血の滲む袋の中には、グレンの指が入っているだろう。
かすかな音を立てて小さな袋が足元に落ち、灰色の髪をした男の姿が掻き消えた。風に乱れた煙のように。
呆気ない、瞬く程の事だった。
コーネリアスが、もう現れる事はないだろう。かつてこの中で王族の手を離し、行方知れずになった者達のように。少なくとも、あの聡明な男は戻って来ない。
あたしがそうした。
消える瞬間の、あの眼は一生忘れる事ができないと思う。
石の床に、大きな音を立てて鋼の剣が落とされた。はっとして、ヴィンセントを見る。
顔を背けていた。
片腕で這うようにそれに近付いて、血に濡れた胸を掴む。
「あなたは、どうしてこんな所にいるの」
怪我をしているのに。
死んでしまうかも知れないのに。
「どうして入れたの? グレンの指をどうしたの?」
「指?」
それは本当に解らない様子で、やっと顔をこちらに向けた。瞳が、少し濡れていたかも知れない。いつも冷たげな薄青い色が、どうしようもなく寂しかった。
「……グレンの指よ。持っていないの?」
「持ってない」
では、どうしてヴィンセントはこの通路に入れたのだろう。
手の先の血に染まった体に、ふと思い出す。彼がこの深手を負った時、あたしも彼の体に血を落としていた。泣き縋り、涙と一緒に。
その血の為に、ここにいる事ができるのだろうか。可能性はあった。だがやはり、離すのは恐い。
彼を掴む手を、ぎゅっと強く握った。
彼もまた片手で、あたしの頬に触れる。
「貴方を、死なせる事はできない」
「いいえ、ヴィンセント。そのほうが、きっといいわ」
あたしはいつも、死を招く。
そんな気がしていた。
「貴方が、この国を継ぐべきだった」
絞り出すような声。囁きに似たそれに、あたしは酷く驚かされる。
「今となってはそれも適わないが、正統な血筋で、賢く、何より民を重んじる。貴方が王となれば、奇跡のような国ができただろうに」
惜しい事だ、と。いつかのように、大きな手で頬を包んで呟いた。
あたしは手の平の熱を感じながら、戸惑った。それは逆だ。だって、未来を拓くのはヴィンセントだ。守るのは、この人だ。
「この国を援けるのは、あなたよ。あたしでは駄目」
「私は……」
頬から、熱が去った。
その腕は力なくだらりと垂れて、指先を冷たい床に落としている。苦痛を堪えるように、固く眼を閉じた。
切なくて、堪らなくなる。
金の髪に指を差し入れ、片腕でその首に縋り付いた。
触れる程寄せた唇で、心の内をさらけ出す。
「あなたがいいの」
彼もまた片腕で、あたしの体をきつく抱いた。
*
広いベッドで目を覚ますと、隣にヴィンセントの姿を探した。
左側に眠る姿に、ほっとする。薬に浸した布の下で、胸が上下に呼吸していた。左手を彼の右手にそっと重ね、あたしはまた深い眠りの中に落ちて行った。
それを数え切れない程に繰り返し、ベッドの上で体を起せるようになったのは春に近い頃の事だ。
夢現の意識の中で、赤い髪を見た。クライヴだった。あたしはよく回らない頭で、彼を責める。
どこにいたの。ヴィンセントが死に掛けていたのに。あなたは、彼を守るのが役目ではなかったの。どうして、あの場にさえいなかったの。
クライヴは答えず、言い訳もせず、年の割りに大人びた微笑みを浮かべた。これではまるで、あたしが駄々をこねているみたいだ。
どこからかワイルダーが遣って来て、余り苛めてやるなと頭を小突く。
そこだけは、幸せな夢だった。
時間は充分にあったはずなのに、春になってもルイス達はまだ石を探していた。見付からないのだ。あたしは必ず通路の中に隠されていると思っていたが、何しろ狭く入り組んでいて、慣れない者には迷路と同じだ。
あたしの血が染み込んだ布を腕に巻いて、仮面を付けた氷壁の民がいつも城中を走り回っていた。
「罷免になったぞ」
ある日、部屋を訪ねるなりクライヴが言った。
ヴィンセントの傷は深く、まだ起き上がれずにいる。あたしのほうは少しくらいなら歩けるようにもなっていたが、まだ同じ部屋で寝起きしていた。
これは、警備上の問題もあった。
死の商人はひとり死に、ひとりは逃げた。仲間の遺体を抱え上げて逃げた男は、まだ行方が知れなかった。これからも、もう知る事はないだろう。そう言う相手だ。
だがそれは、依然として危機が去っていないとも言えた。コーネリアスと手を組んだ取引相手は、エンジェリック・ブルーをまだ諦めてはいないはずだ。いつかまた、手を出して来るかも知れない。
そしてもうひとつは、石の影響と言うべきだろう。ヴィンセントが離そうとしなかった。極端な執着を、どうやらあたしに向けたらしい。
落ち着き払って椅子に腰掛けたクライヴに、あたしは驚きのままベッドの上で問う。
「罷免と言うのは、総督の職? それとも、将軍?」
「この場合は、両方だな。牙のない獅子は用なしだそうだ」
「そうですか」
覚悟していたのか、ヴィンセントは静かに言った。だが、あたしは内心で慌てる。ヴィンセントが治めないなら、ではこの国は、どうなるのだろう。
「父に、拝領を願おうと思う」
クライヴが、きっぱりと言った。ずっと考えていた事を、今やっと明かすように。
「何を賜りたいと?」
「この土地を。あの人は上にも下にも息子が多い。少々の領地で落ちこぼれを厄介払いできるなら、喜ぶだろうよ」
「殿下」
それを耳にした瞬間、違和感の正体が見えた。
ヴィンセントが言葉を改めているのは、立場が元に戻ったと言う事なのだろう。
「殿下、ねえ……」
それは、王に連なる者の敬称だ。
赤い髪を揺らして、琥珀色の眼を細める。面白そうに、軽く笑った。
「騙して済まないな。獅子の配下にいたのは、軍事を学ぶためだ。他意はない」
護衛がリシェイドの王子と知れば、周囲の扱いも違うだろう。それを望まず、身分を秘していたのだ。それは理解できた。
それに、本当に危険な時にヴィンセントが彼を遠ざけた理由も。本人には不服だろうが、まさか勝手な裁量で王の子息を死なせる訳にも行かないだろう。
いつだったか、グレンからあたしを庇った事があった。あの時ヴィンセントはクライヴの名前を鋭く呼んだが、あれは守れと言う命令ではなく、止めろと言う意味だったのだ。
態度を改めるつもりは更々なく、あたしは赤い髪に気安く問う。
「だけど、いいの?」
「いい、とは?」
「エンジェリック・ブルーは、もう出ないわ」
琥珀の眼を、真っ直ぐに見た。
もしもまだそれを欲しがるなら、あたしは戦わなくてはならない。例えヴィンセントが、あちら側に付くとしても。それは酷く胸を疼かせ、痛む事ではあったけれど。
「――本国には、もう報告してある」
クライヴは、声を噛み殺すように笑う。
「エンジェリック・ブルーと呼ばれる鉱石は、もはやこの国に存在しないと」
「それは……どう言う事?」
「鉱石と言うのは、土の中から生れるものだ。そうだろ?」
にやにやと笑って、とんでもない事を言った。
まるであの石が、人体から生まれると知っているような口振りだ。あたしはしばらくそれに悩んだが、少し経ってルイスが吐いた。
「あ、それオレだ」
王の執務室で、片っ端から荷物を引っ繰り返している時だった。
あたしはまだ手伝えず、椅子に座らされていた。役に立たないのは解っていたが、気になって様子を見に来ていたのだ。
会話を横で聞いていたアルとバッカスが、手に持った荷物をがたがたと落とす。
「何考えてるんだ!」
「ルイス、それは……!」
「ええっ? だってあいつ、面白いぜー?」
「……軽薄……」
呟くが、耳に届いてはいないだろう。二人に詰め寄られているルイスの姿に、あたしは左手で頬杖を突いてため息を落とした。
ルイスが軽はずみに懸けたのは、一族の命運だ。下手をしたら、死に絶えていた可能性もあった。
助ける気にもならず、仲間達から暴行を受けている仮面の男をぼんやり眺めた。と、彼等の足元で敷石がガタガタと鳴っている。
「バッカス」
荷物を落とした時に、偶然浮き上がったらしい。バッカスが隙間にナイフを差し入れて、タイル状にカットされた床の石を剥がした。
「姫様、当たりです」
幾つもの不思議に輝く青い宝石が、ビロードに包まれて輝いていた。
それは様々な大きさの石だったが、特にあたしの眼を引いたのは小指の爪程しかない石だった。恐らく、子供のものだろう。
「見付かったか」
たまたま通り掛ったように、クライヴが顔を出す。アルが取り出したビロードの中身を覗き込んで、呆れた声を出す。
「希少な宝と言うのに、こうごろごろ見せられては有難みがないな」
わずかにむっと顔を曇らせたバッカスの目前に、握り込んだ手を突き出す。
「みやげついでだ。持って行け」
慌てて出したバッカスの両手に落とされたのは小さな箱で、中から転がり出て来たのはエンジェリック・ブルーだ。父はリシェイドには石を贈っていないが、他国から買い取ったものらしい。
「……宜しいのですか」
「いっそ王の手元にない方がいい。人が死なねば手に入らんのも気に入らんし、そんな物に狂われて国を潰されても敵わんからな」
バッカスは、礼儀をわきまえない男ではない。だがどうにも、クライヴの口振りに納得できないものを感じるようだ。素直に礼を言うのが悔しいらしく、苦虫を噛んだような顔で人知れず苦悩した。
またクライヴもそれを面白がってニヤニヤと笑うものだから、残りの私達は声を立てずに笑う事に苦労した。
「見付けたわ」
部屋に戻ると、真っ先にヴィンセントへと報告する。彼はベッドの上で、穏やかに頷く。
「それとね、コーディーの事だけど」
「何か?」
コーディーは、いまだ氷壁の里にいる。怪我は随分いいらしいが、長の娘であるサラと恋人になってしまった。
「子供ができたのですって。あの子は、このまま山に骨を埋めさせるから。何と言っても、これは譲らないわよ」
決定事項として伝えると、ヴィンセントは声を立てて笑う。
「それは、勝ち目がない。何も言わない事にする」
「そうしてちょうだい」
腰に手を当てて勝ち誇ると、枕の上で金色の頭が窓に向く。空を見上げたらしかった。
「子供だと思っていたら、あれも行き先が決ったか。行き先がないのは、私だけだな」
軍人としての地位を失った。体は深手を負って、治癒しても元通り動けるかは解らない。生き残った者で、一番の犠牲を払ったのは彼だった。
「考えていたんだが」
「なあに?」
「私の体が治ったら、残りを探しに行かないか」
石の事だと、すぐに解った。
父は五つを他国に贈り、中のひとつをリシェイドが買い取った。それは今、氷壁の民の手に渡っている。残りは四つ。
だが、ある物は王宮の奥深くで厳重に守られ、ある物は盗み出されて行方知れずになっている。探し出すとしたら、一生の仕事になるだろう。
あたしは、くすくすと忍び笑いを零した。
「叱られるわね、ワイルダーに。あの人は、あたしがあなたを堕落させると思ってたわ」
「叱る資格はない。貴方をランチに誘わせたのは、そもそもあいつだ」
「それもそうね」
言って、ヴィンセントと一緒に窓の外に眼を遣った。
青い空がどこまでも広がり、世界をひとつに包んでいる。その下を二人で行けば、きっと胸躍る旅になるだろう。
あたし達は互いに手を強く握り合い、思いを馳せて空を見上げた。
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