44話 創造主の破産手続き(チャプター・イレブン)
聖都エリュシオンの空が、物理的に「書き換えられて」いた。
アイリス・フォン・ベルシュタインが天界へ突きつけた『不当利得返還請求』。それに対する創造主の回答は、全天使軍の投入による「世界の初期化」という暴挙だった。しかし、その神罰という名のシステム・アップデートは、アイリスの組んだ防壁によって、実行不能な「エラーコード」の羅列へと変えられていた。
「……ルキウス様、天界の資産査定の最終報告書を。……隠し口座の一つまで、徹底的に洗わせましたわね?」
大聖堂のバルコニーに設置された特設司令部。アイリスは、数百の魔導スクリーンに表示される膨大な帳簿を、冷徹な速度でスクロールさせていた。彼女の背後には、天から墜落し、武装を解除された天使たちが、膝をついて絶望に暮れている。
「……ああ、驚くべき結果だよ、アイリス。……天界は過去数千年にわたり、地上の住民から『信仰心』という名の精神エネルギーを徴収し、それを『来世の救済』という名の債券で担保していた。……だが、実態はひどいものだ。彼らは集めたエネルギーを、自身の神殿を維持するためだけに浪費し、支払うべき『救済』の原資は一滴も残っていない」
ルキウスが掲げた報告書。そこには、神聖な奇跡の裏側に隠された、あまりにも醜悪な「自転車操業」の実態が記されていた。
「……つまり、天界は最初から『詰んで』いたのですわ。……神という名の管理者は、自分が全能であると見せかけるために、住民の未来を担保に借金を重ねていた……。典型的な『ポンジ・スキーム(投資詐欺)』。これほどまでに無能で邪悪な経営陣に、この世界のハンドルを握らせておくわけにはいきませんわ」
アイリスは、空中に巨大な「破産手続開始通知」を投影した。それは聖都のみならず、大陸全土、そして次元を超えて天界の玉座へと直接送信された。
『――不敬な、不敬なぞ、アイリス・フォン・ベルシュタイン! ……我が作った世界で、我を裁くというのか! 私は創造主だ、私の意志こそが法だ!』
天の彼方から、空間そのものを震わせる断末魔のような叫びが響く。だが、アイリスは眉一つ動かさず、むしろ退屈そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……創造主様。……勘違いしないでください。……あなたが世界を作ったのは過去の『初期投資』に過ぎません。……現在のこの世界を維持し、発展させ、魔素を循環させているのは、地上の住民たちの労働と納税……すなわち『増資』ですわ。……現在の株主構成(支配権)を確認しなさい。……アステリア中央銀行が、あなたの保有していた優先株をすべて市場で買い取りました。……現在のあなたの議決権は、わずか一・四パーセント。……解任案を可決するには十分すぎる数字ですわ」
「……おいアイリス、あいつまだ往き苦しい言い訳をしてやがるぞ。……『私がいなくなれば、太陽は昇らず、雨は降らなくなる』だとよ。……まるで、自分がいなけりゃ会社が回らないと思い込んでる、引退時期を逃した老害会長そのものだな」
ゼノスが、黄金の魔力を纏わせた大剣を肩に担ぎ、空を嘲笑う。
アイリスは、冷たくコンソールを叩いた。
「……ご心配なく。……太陽の運行も、降雨の管理も、すでに我が国の『デウス・エクス・マキナ』へ、システム移行を完了しております。……もはや、あなたの手動操作(奇跡)など、システムのノイズになるだけですわ。……創造主、あなたは本日を以て『破産宣告』を受け、その全資産、全権限をアステリア王国へ譲渡していただきます」
その瞬間、天から光の柱が降り立ち、アイリスの目の前に「黄金の羊皮紙」が現れた。それは、この世界の根源的な契約書――いわゆる『世界の理』そのものだ。
「……これが、世界のマスターキー。……これを書き換えれば、生と死のルール、物理法則、すべてを自分の思い通りにできる。……神様も、最後はこれを交渉材料にしてきたか」
ルキウスが息を呑む。
だが、アイリスはその羊皮紙を手に取ると、一瞥もせずに「朱書き」を入れ始めた。
「……非効率ですわね。……なぜ『死』というイベントをこれほどまで複雑なアルゴリズムにしているのです? ……魂の再利用効率が悪すぎます。……修正します。……それと、この『奇跡の発生確率』。……ランダム関数を使わず、貢献度に基づいた『報酬制度』に書き換えますわ」
「……おいおい、アイリス。……神様の遺産を、即座に『業務改善』に回すのかよ。……少しは感慨に浸るとかよぉ」
「……ゼノス。……感慨などという非生産的な感情は、帳簿が合ってからで十分ですわ。……それよりも、見てください。……天界の不動産価値。……あの『エリュシオンの園』。……あそこを、アステリア王国の特区に指定し、高効率な魔導農園として再開発すれば、来期のGDPはさらに一二パーセントの上昇が見込めますわ」
アイリスは、羊皮紙の最後に自らの印章を叩きつけた。
その瞬間、天界を覆っていた「神性」という名の古いヴェールが完全に剥がれ落ち、そこにはただの、管理されるべき「新たなフロンティア」が広がっていた。
夕刻。
聖都の喧騒は、もはや恐怖によるものではなく、未来への熱狂へと変わっていた。
アイリスは、誰もいなくなったバルコニーで、ようやく一息ついた。
「……終わったな。……これで本当に、上には誰もいねぇ。……この世界、まるごと貴様の『私有地』だぜ、アイリス」
ゼノスが、アイリスの背後に立ち、その細い肩をそっと抱き寄せる。
アイリスは、いつもなら「非効率な接触ですわ」と拒むはずが、今はただ、その熱に身を委ねていた。
「……私有地ではありません、ゼノス。……私はただの、世界という名の巨大なシステムの『最高経営責任者(CEO)』に就任しただけですわ。……これからは、地上の民だけではなく、天の理、死後の秩序、すべてに責任を持たなければなりません。……一ミリの計算違いも、一ルンの赤字も許されない、孤独な仕事ですわ」
「……一人なわけねぇだろ。……貴様が世界を数字で管理するなら、俺はその数字を、誰にも汚させねぇ。……貴様の帳簿を守る最強の『セキュリティ』として、一生側にいてやるよ。……それが、俺の選んだ『永久就職』だからな」
アイリスは、眼鏡を外し、疲れた目を閉じた。
暗闇の中で、ゼノスの心臓の鼓動だけが、彼女のどの計算機にも予測できないリズムを刻んでいる。
「……計算外の、コストの高い告白ですわね。……ですが、その雇用契約……受理いたしますわ」
神を破産させ、天界を吸収合併したアイリス・フォン・ベルシュタイン。
彼女の帳簿には、今や「世界のすべて」が計上され、一ミリの無駄もない、新しい一日の始まりを告げる。
物語は、地上の富から始まり、宗教、物理、そして天界の支配へと至った。
しかし、アイリスの歩みは止まらない。
彼女は今、新たな帳簿を開いた。そこにはまだ、彼女自身も知らない「幸せ」という名の変数が、記述されるのを待っているのだから。
「……さあ、ゼノス。……明日の朝日の『定刻出社』、調整を始めましょうか」




